軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第32話

【大陸暦一二二七年九月五日・深夜】

エスターク公爵邸は、深い静寂に包まれていた。

窓から差し込む青白い月明かりが、廊下の床を冷たく照らしている。

増員された警備兵たちが、普段より厳重な態勢で屋敷を巡回しているはずだった。

私は、天蓋付きのベッドで眠りについていた。隣接する控え室では、マリアが簡易寝台で仮眠を取っている。

静かな夜。穏やかな微睡み。

だが、その平穏は一瞬にして切り裂かれた。

――カタン。

かすかな物音。何かが倒れたような、鈍い衝撃音。

私の意識は、急速に覚醒した。

(……今の音は?)

耳を澄ませる。

再び静寂が戻っている。だが、何かが決定的に違っていた。

廊下から規則正しく聞こえてくるはずの、警備兵の足音が全く聞こえない。

「マリア?」

小声で呼びかけるが、返事はない。

「マリア……?」

もう一度呼びかけるが、やはり部屋は静まり返ったままだ。

どこからか、鉄錆のような微かな匂いが漂ってきた気がして、私の胸に冷たい嫌な予感が走った。

ゆっくりとベッドから起き上がろうとした、その時――。

窓が、音もなく開いた。

月明かりを背に、黒装束の人影が滑り込むように部屋へ侵入してくる。顔は黒布で覆われ、その手には細身の剣が握られていた。

『リリィ! 伏せて!』

頭の中に、アナの鋭い声が響く。

私は反射的にベッドへ身を伏せた。直後、鋭い剣先が天蓋の布を無慈避に引き裂く音が耳元で響いた。

心臓が、喉に突き上げるほど激しく脈打つ。

暗殺者――。

私は護身用ナイフを手に取ろうと、寝台脇の小箱に指先を伸ばした。

しかし、暗殺者の動きの方が遥かに速い。重いブーツが小箱を蹴り飛ばし、ナイフは虚しく床を転がっていった。

「たす――」

助けを呼ぼうとした私の口は、即座に封じられた。

暗殺者の大きな掌が、強引に口を塞ぐ。鼻を突く冷たい革の手袋の匂いと、鉄のような握力。

恐怖で全身が石のように硬直した。手足が震え、自由が利かない。

暗殺者の剣がゆっくりと振り上げられる。月光を反射した刃が、不気味にギラリと光った。

(嫌だ、死にたくない――!)

剣が振り下ろされる。

絶望に、私の視界が真っ白に染まった。

『ふざけるな!』

アナの怒号が響いた。

『こんなところで死なせてたまるか! リリィ!』

突如、私の体が熱を帯びたように動いた。

自分の意志ではない。まるで目に見えない糸で操られるように、体が勝手に跳ねたのだ。

口を塞ぐ暗殺者の手に思い切り噛みつくと、男が短く呻いた。

その隙に私は床を転がり、落ちていたナイフを掴み取る。

狙うのは暗殺者ではない。私はそのナイフを、窓に向かって力任せに投げつけた。

ガシャンッ!

夜の静寂を切り裂く、凄まじい破壊音。

砕け散ったガラスの破片が、月光を浴びてキラキラと飛び散る。

暗殺者が動きを止めた。明らかに予想外の行動に、動揺しているのがわかった。

「リリアナ!」

廊下の先から、兄エリオットの叫び声が聞こえた。

扉が豪快に蹴破られ、抜き身の剣を構えた兄が飛び込んでくる。その後ろには、武装した警備兵たちが続いていた。

「妹に何をする!」

怒髪天を突く勢いで、兄の剣が暗殺者に襲いかかる。

暗殺者は窓から逃走を図ろうとしたが、すでに外側も警備兵たちによって封鎖されていた。

完全に、袋の鼠だった。

黒装束の男は最後の抵抗を試み、狂ったように剣を振るう。二人の警備兵が深手を負うが、兄の剛剣が暗殺者の武器を鮮やかに弾き飛ばした。

「観念しろ!」

兄の怒号が部屋に響き渡り、暗殺者は力ずくで床に押さえつけられた。

私は床に座り込んだまま、荒い呼吸を繰り返していた。

全身の震えが止まらない。

(今の、私が……?)

確かに私がやったことだ。ただし、私の意思を置き去りにして。

『……ごめん、リリィ。勝手に体を動かしたわ』

アナの声が、どこか申し訳なさそうに響いた。

(あなたが……体を動かしたの?)

『あなたの意識が真っ白になった時、私、どうしても黙っていられなくて。こんなところで死なせたくなくて。それで一瞬だけ、体の制御を奪ってしまったの』

私は自分の掌を見つめた。

この手が、アナに動かされた。窓を割ったのも、彼女だった。

信じがたい出来事。でも、紛れもない現実。

「リリアナ!」

兄が私のもとへ駆け寄ってきて、肩を抱き寄せた。

「無事か!? 怪我はないか!?」

「お兄様……」

私は兄の厚い胸板に顔を埋めた。

使い慣れた石鹸の香りに包まれ、ようやく張り詰めていた緊張が解けていく。

「よく……よく無事だった」

兄の声は、安堵で微かに震えていた。

「窓ガラスが割れる音が聞こえて、急いで駆けつけたんだ。お前が機転を利かせてくれたおかげだ……」

私は何も言えなかった。

助けを呼んだのは、自分ではない。アナなのだ。

『礼なんていらないわ』

アナの声が、いつもより優しく、私を包み込むように響く。

『私たち、一心同体でしょ?』

(……ありがとう、アナ)

『どういたしまして』

その時、控え室からマリアがふらふらと足元を覚束なくして出てきた。

「お、お嬢様……一体、何が……?」

「マリア! 大丈夫!?」

「頭を……誰かに殴られて……気がついたら……」

マリアは額にできた大きな痣を押さえながら、その場に崩れ落ちた。

そこへ、警備兵の一人が厳しい表情で報告に現れる。

「エリオット様、廊下の警備兵が全員倒れています。毒針を受けたようです」

「毒針だと……」

兄の眉間が深く険しくなった。

「プロの仕業だな」

捕縛された暗殺者は、その後も一言も発さず黙秘を貫いていた。

兄様は男の身を改め、黒装束の内側から小さな革袋と、数枚の紙片を取り出した。

中身は金貨――前金だろう。そして、一通の密書。

兄がその書面を広げた。

「……ノルヴェリア諜報機関の印章だ」

兄の低い声が室内に響く。

「『ナターシャの指示に従え』――そう書いてある」

私は小さく息を呑んだ。

ナターシャ。セシリアの本名だ。

「他にも調べろ!」

兄の命により、警備兵たちは暗殺者の所持品を徹底的に精査した。

武器、暗殺道具、毒薬の入った小瓶。そして、決定的なものが見つかる。

「エリオット様、これを」

差し出されたのは、小さな金属製の札だった。そこにはノルヴェリア軍の紋章が刻印されている。

「ノルヴェリア軍、特殊部隊所属の記録です」

全ての点と線が繋がった。

ナターシャ・ヴォルコフが、本国から暗殺者を呼び寄せ、私の命を狙わせたのだ。

兄が私を真っ直ぐに見つめた。

「リリアナ。なぜ、お前が狙われたんだと思う?」

私は小さく首を傾げた。

「分かりません。普通に考えれば、ナターシャが排除すべきはヴィクトール殿下か国王陛下のはず。証拠を握り、裁定を下せる方々を狙うのが最優先でしょうから」

『そうよ。私を殺しても、証拠は消えないし、裁定も止まらないもの』

アナの声も、冷静に同意する。

「確かに。リリアナを狙う理由が思い当たらないな」

兄も困惑の表情を浮かべて呟いた。

私は、拘束された暗殺者をじっと見つめた。

黒布に覆われた顔からは、何も読み取れない。

なぜ、私なのか。その答えは、暗闇の向こう側にあるようだった。

「とにかく、今夜のうちにヴィクトール殿下へ報告しなければならない」

兄が毅然と立ち上がった。

「お前はここで休んでいろ。警備をさらに倍増させる」

「いいえ、私も行きます」

私もまた、震える足を叱咤して立ち上がった。

ここで引き下がるわけにはいかない。

「リリアナ……」

「大丈夫です。それに、殿下に直接報告すべきことがありますもの」

私は自分の掌を見つめた。アナが動かした、この手を。

まだ信じられない感覚だが、確かに起きた奇跡を伝えなければならない。

『リリィ、本当に大丈夫?』

アナが心配そうに尋ねる。

(ええ……ありがとう、アナ。あなたがいなければ、今頃私は冷たくなっていたわ)

『当たり前でしょ。私が、あなたを死なせるわけないじゃない』

アナの声が、少しだけ震えていた。

『ごめんね、勝手に体を動かして。怖かったでしょう』

(怖くなんかないわ。むしろ……嬉しかった)

『嬉しい?』

(ええ。あなたが、本当に私を守ってくれているんだって、実感できたもの)

私は、心の中で静かに微笑んだ。

二つの人格。一つの体。

死線を潜り抜けた今夜、その絆はさらに深く、強固なものへと変わっていた。

兄は即座に急使を王宮へと走らせた。

深夜という時間帯にもかかわらず、ヴィクトール殿下はすぐに応じた。まだ起きていたのだろう。

一時間後、殿下が騎士団を引き連れて公爵邸に到着した。

「リリアナ、怪我はないか!」

殿下は執務室に踏み込むなり、私の姿を真っ先に確認した。

「はい。おかげさまで」

私は立ち上がり、静かに一礼した。

「詳しい状況を聞かせてくれ」

殿下が椅子に座り、兄が事の次第を説明した。押収された暗殺者の所持品がテーブルに並べられる。

殿下は、ノルヴェリア諜報機関の密書を凝視した。

「『ナターシャの指示に従え』……もはや言い逃れは不可能だな」

「はい」

「それにしても……」

殿下が視線を私に移した。

「なぜ、リリアナが狙われたのだ?」

「それが分からないのです。私を狙っても、ナターシャにとってもノルヴェリアにとっても、大きな利があるとは思えません」

私は首を傾げた。

「私と父上には、騎士団の精鋭が二十四時間体制で警護についている。短期間での暗殺は、ほぼ不可能だ」

「それは理解できますが、ではなぜ私を?」

「分からん……だが、ナターシャには彼女なりの理由があったはずだ」

殿下は決然と立ち上がった。

「今すぐ父上に報告する。この確たる証拠があれば、逮捕令状を発行していただける」

「国王陛下のお体は大丈夫なのですか?」

「ああ。医師によれば、短時間なら重要な裁定に立ち会えるまで回復されている」

殿下が私の手を優しく取った。

「今夜は、本当に無事でよかった」

その温かな声には、深い安堵が滲んでいた。

「ありがとうございます」

私は微笑みを返した。

「殿下も、お気をつけて。ナターシャは、追い詰められた今が一番危険です」

「分かっている」

殿下は騎士団と共に、捕縛した刺客を連れて公爵邸を後にした。

王宮に戻ったヴィクトールは、国王陛下の寝室へと直行した。

真夜中の非常事態に、侍従が慌てて扉を開ける。

「殿下! こんな夜更けに……」

「父上に、至急報告せねばならぬことがある」

ヴィクトールのただならぬ表情に、侍従は何も問わずに中へ案内した。

病床の国王は、まだ起きていた。枕元の燭台が、衰えの見え始めたその顔を淡く照らし出している。

「ヴィクトールか。どうした、こんな夜中に」

「父上。エスターク公爵邸に、ノルヴェリアの暗殺者が侵入いたしました」

国王の表情が一変し、険しさを増した。

「何!? 公爵一家の安否は……」

「無事です。しかし、標的は確実にリリアナ・フォン・エスタークでした」

ヴィクトールが刺客から押収した密書と証拠品を、陛下の前に広げる。

「刺客はノルヴェリア軍特殊部隊所属。所持品からは、ナターシャ・ヴォルコフの指示を示す密書が見つかりました。エスターク家の警備兵六名が毒針で倒され、侍女も気絶させられています」

国王は病床からゆっくりと身を起こし、証拠品を凝視した。その瞳には、かつての勇猛な王としての怒りが宿っていた。

「我が国の貴族令嬢を、我が国の領土内で暗殺しようとしただと……」

国王の声が地を這うように低く響く。

「これは宣戦布告に等しい暴挙だ」

「はい」

「もはや、一刻の猶予もない」

国王が静かに、しかし力強く宣告した。

「セシリア・ローゼンタール――いや、ナターシャ・ヴォルコフを逮捕せよ」

「はっ!」

「今すぐ逮捕令状を発行する。侍従!」

侍従が慌てて駆け寄る。

「逮捕令状を用意しろ。セシリア・ローゼンタールと名乗る女を、国家反逆罪、殺人教唆、スパイ活動の容疑で逮捕する!」

「承知いたしました!」

侍従が弾かれたように部屋を飛び出していく。

国王はヴィクトールを真っ直ぐに見つめた。

「明日の朝、夜が明け次第すぐに偽セシリアを捕らえろ。そして、全ての証拠を謁見の間へ持ってこい。私が、自らの目で決着をつける」

「父上のお体は……」

「構わん」

国王は力強く手を振った。

「これは王としての責務だ。病床に伏していようと、私が引導を渡さねばならぬ。それに――」

国王の目に、強い光が宿った。

「リリアナが命を狙われたのだ。彼女はお前の婚約者であり、将来の王妃となる者だ。その命を守れぬような王に、何の価値があるというのだ」

ヴィクトールは、父の覚悟を真っ向から受け止め、深く頭を下げた。

「……承知いたしました」

夜が明けようとしていた。

エスターク公爵邸の執務室で、私は窓辺に立っていた。

東の空が、淡いオレンジ色に染まり始めている。

兄エリオットは椅子に座り、剣を膝に置いて微睡むことなく見張りを続けてくれている。

マリアは額に包帯を巻き、侍女部屋で静かに休んでいるはずだ。

『リリィ、怖い?』

アナの声が静かに響く。

(……少しだけ)

私は正直に答えた。

(でも、もう引き返せないわ。ナターシャを止めるまでは)

『そうね。あと少しよ。あの女を捕まえれば、全てが終わるわ』

(本当に……終わるのかしら?)

『終わるわ。私が保証する』

アナの声が力強く響く。

『未来は、もう変わったの。あなたが、私たちが変えたのよ』

私は窓の外を見つめた。

王都の街並みが朝日に照らされ始め、人々が新しい一日を迎えるために目を覚まし始めている。

そして今日――ナターシャ・ヴォルコフとの戦いに、最終的な決着がつく。

(ねえ、アナ。今夜のこと……体を動かしたこと。もっと早くから、できなかったの?)

『無理よ』

アナが即答した。

『あれは奇跡みたいなもの。あなたの意識が完全に飛んで、体の制御が一時的に空白になった一瞬だけ、私が入り込めたの。普段は絶対に無理だわ』

(そう……)

『それに、本当は怖かったのよ。あなたの体を勝手に動かすなんて、もし失敗していたらと思うと……』

アナの声が微かに震えた。

『でも、黙って見ていることなんてできなかった』

(ありがとう、アナ。あなたがいてくれて、本当によかったわ)

『……私もよ』

アナの声が、愛おしそうに答えた。

夜が明ける。

運命の、セシリア逮捕の朝が来る。