軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第30話

【大陸暦一二二七年八月初旬】

容赦のない夏の日差しが、王都の石畳を白く焼いていた。

あの日から、ちょうど二年。私が処刑台に消えるはずだった運命の日まで、残り一年と少し。

私は揺れる馬車の中で、ヴィクトール殿下から届いた緊急の書簡を握りしめていた。

『至急、執務室へ。重要な報告がある』――その短い文面には、これまでにない重圧と、確信に満ちた熱がこもっていた。

『……ついに、掴んだのね』

アナの声が、抑えきれない興奮を孕んで響く。

(ええ。フェリックスの目撃から四ヶ月。長かったわ……)

あの日以来、ヴィクトール殿下の諜報網は、対象をノルヴェリア方面のみに絞り、死に物狂いの追及を続けてきた。「セシリアは別人で、ノルヴェリアのスパイである」という仮説を事実へと変える、決定的な証拠を探して。

執務室に入ると、ヴィクトール殿下はすでに机の前に立ち尽くしていた。その表情には、暗い勝利の色彩が宿っている。

「リリアナ、よく来てくれた。これを見てくれ」

殿下が差し出したのは、ノルヴェリア語で記された、古く煤けた文書だった。私は震える手でそれを読み進め――絶句した。

「これは……ノルヴェリア諜報機関の、内部文書……!」

「ああ。潜伏させていた二重スパイが、命を賭して持ち出したものだ」

そこには、戦慄すべき工作員派遣計画の詳細が、機械的な事務連絡のように綴られていた。

標的選定の基準はこうだ。

『家族構成が単純で、殺害後の偽装が容易な家。中央貴族に顔が知られておらず、社交界デビュー前の娘がいること。そして、その娘が孤児となった際に引き取るであろう、お人好しな貴族が親族にいること』

そのすべての条件に合致し、生贄に選ばれたのが、ローゼンタール伯爵の遠縁にあたる下級貴族、グレイソン家だった。

「工作の手口もすべて、ここに」

殿下が頁を捲る。そこに書かれた文字を追うだけで、胃の奥からせり上がるような吐き気を覚えた。

『峠道にて馬車の車輪を脱落しやすく細工。崖下への転落角度を計算し、一家全員が即死する速度を算出――』

私の指先が、怒りと恐怖で震える。

『事故翌日、崖下にて父親、母親、長男、長女の遺体を確認。全員即死。ただし、長女セシリアの遺体については速やかに処分。「増水した川に流された」ものと断定させ、捜索を打ち切らせる――』

『家族を殺した上、遺体を「処分」なんて……』

アナの声が、呪詛のように低く響いた。

「そして三日後、峠道を通りかかった『親切な旅人』に保護されたというセシリアが、軽傷の姿で発見される。実際には、セシリアになりすました工作員が、計算通りのタイミングで現場に現れただけだ」

「ローゼンタール伯爵は、唯一生き残った遠縁の娘を疑うはずがありませんわ……」

「そうだ。むしろ家族を亡くした可哀想な娘として、深い同情と愛情を持って迎え入れた。偽物は最初の数ヶ月、ショックで記憶が曖昧だと演技し、徐々に都合よく『回復』していったんだ」

「なんて、恐ろしい……」

私は唇を噛み締めた。人の善意をこれほどまでに踏みにじる計画があるだろうか。

「だが、驚くのはこれからだ。これを見てくれ」

殿下が別の書類を提示した。それは、我々が知る「セシリア」の、過去の血塗られた任務記録だった。

「五年前、帝国の第三皇子アレクサンデル殿下の落馬死。これも、彼女の仕業だ」

一年かけて皇子の侍女として潜入。馬の癖、皇子の習慣を完璧に把握。ある日、馬の餌に微量の刺激物を混入。……結果、普段は温厚な馬が突然暴走し、皇子は頭部を強打して即死。

『あったわ、そんな事件……。帝国が、あれで一時大混乱に陥った』

アナの声が震える。

「ノルヴェリア側の報告書にはこう記されている。『計画通り。落馬の角度、衝突部位、すべて算出の範囲内』とな。……これにより皇位継承争いが激化し、帝国の国力は著しく低下。ノルヴェリアは国境紛争で多大な譲歩を勝ち取った」

「一人の死を……一国の運命に変えたというのですか」

「そうだ。それが彼女の仕事だ。一刺しで国を殺す。そして、これがその怪物の正体だ」

最後に殿下が取り出したのは、派遣工作員の個人記録だった。

――ナターシャ・ヴォルコフ。生年、大陸暦一二〇六年。

(二十一、歳……?)

計算が合わない。セシリアは、私と同い年の十六歳のはずだ。

「ああ。彼女は年齢を五歳も偽っている。十六歳になりすました、二十一歳の熟練工作員だ」

『あの可憐な少女の振る舞いは、二十歳過ぎの女が演じる芝居だったってこと!?』

アナが驚愕の叫びを上げる。

「五歳から英才教育を受け、十二歳で初任務。すでに九年のキャリアを持つベテランだ。演技、社交、暗殺、毒物……あらゆる分野で最高評価。七カ国語を母国語レベルで操り、人心掌握においては『ノルヴェリア史上最高の傑作』とまで謳われている」

『十六年間……人生のすべてを捧げて叩き込まれた、プロの工作員……』

アナの声に、初めて聞くような動揺が混じっていた。

本物のセシリアの記録もそこにはあった。内気で、外国語が苦手で、庭の花と飼い猫を愛していた、どこにでもいる優しい少女。

「実は本物とは瞳の色が違う」

殿下が手のひらに乗るほどのサイズの絵画を差し出した。幼い少女の肖像画だった。

「七歳前後のセシリア・グレイソンだ。家族肖像画は処分されたが、これは彼女の乳母が持っていたために工作員の目を免れた。見ての通り、本物のセシリアの瞳は灰色がかった緑。だが今のセシリアは翠緑。特徴的なプラチナブロンドの髪は同じだから気づきにくいが、明らかに別人だ」

確かに肖像画の中の少女は、灰色がかった緑の瞳の持ち主だ。今のセシリアのような、鮮烈な翠緑ではない。

「ナターシャ・ヴォルコフ。二十一歳。我が国を内部から崩壊させるために送り込まれた、史上最強の切り札」

『……私は、最後までこれに気づけなかった』

アナが静かに呟いた。

『処刑台に立つその瞬間まで。あいつが五歳も年上の刺客だなんて、夢にも思わなかったわ』

(でも今回は違う。私たちは、もう化け物の正体を知っているわ)

私は書類を机に置いた。今、私たちの手の中に、彼女を断頭台へ送るための「真実」が揃ったのだ。

「問題は、この証拠をどう使うかだ」

ヴィクトール殿下が腕を組み、表情を険しくした。

「すぐに公表することは、得策ではありませんわね」

「ああ。兄上は彼女を盲信している。今の状況でこれを突きつけても、『弟による陰謀だ』と切り捨てられ、逆に我々が粛清される口実を与えかねない」

「国王陛下は?」

「最近、幸いにも医師の見立てでは少し回復傾向にある。皮肉なことに、自分がしっかりせねばという気力が薬になっているようだ。陛下がお立ち会いになれる時まで、待つしかない」

「その間、ナターシャを泳がせるのですか」

『綱渡りね』とアナが囁く。

「監視は最大級にする。だが、ナターシャが追い詰められたと感じたとき、彼女が何を選択するかは明白だ」

殿下が自分の胸を指差した。

「無能な人間が王位を継ぐのが、ノルヴェリアの利益だ。ならば、その障害となる私を殺すのが、最も合理的だといえる」

私は息を呑んだ。ヴィクトール殿下が消えれば、王太子が即位し、この国はナターシャの手の平の上で転がされることになる。

「私と父上の警護はすでに精鋭騎士団で固め、毒見役も増員した。だが、ナターシャほどの工作員なら、一瞬の隙を突いてくるだろう」

殿下が私の手を、力強く握った。

「一ヶ月以内に決着をつける。長引けば、それだけ命の危険が増す」

「……殿下、ローゼンタール伯爵には?」

「ああ。彼は純粋な善意で彼女を育てた被害者だ。だが、他国の工作員を王宮に招き入れた責任は免れないだろう。真実が明るみに出れば、伯爵のショックは計り知れないが……隠し通せることではない」

殿下は苦渋に満ちた表情を浮かべ、それでも決然と言った。

「共に戦おう、リリアナ。この国を、あの毒婦から守り抜くために」

「はい、殿下」

執務室を出ると、廊下の窓から夏の庭園が見えた。咲き誇る百合の花が、死を招く刺客の美しさと重なって見える。

『ナターシャ・ヴォルコフ。……ついに、あいつの名前を奪い返したわね』

(ええ。セシリア・ローゼンタールという仮面は、もうひび割れているわ)

『あいつ、気づいているかしら。自分に向けられた刃の存在に』

(気づいているでしょうね。だからこそ、今が一番危険なのよ)

私は眼下に広がる平和な風景を見つめた。本物のセシリア。会ったこともない、名もなき家族とともに殺された少女。彼女たちの無念を、私たちが晴らさなければならない。

その夜、私は自室でナターシャの任務記録を読み返していた。一年にわたる帝国への潜入。徹底的な習慣の調査。そして、誰にも疑わせない「不運な事故」の演出。

(ヴィクトール殿下への暗殺……。ナターシャなら、どんな隙を狙うかしら)

扉がノックされ、エリオット兄様が入ってきた。

「リリアナ、殿下から連絡があった。明日から我が家の警備も最大強化する。お前も、一人で出歩くことは厳禁だ」

「わかりました、お兄様。……気を付けてください」

兄が去った後、私は机の引き出しから小さな護身用のナイフを取り出した。王太子の婚約者になった際、父から渡されたものだ。

「……使わずに済むことを願うけれど」

『論理的に考えれば、リリィは標的じゃないわ。あいつの標的はヴィクトール殿下と国王陛下よ』

(分かっているわ。でも何が起きるか分からないのが、彼女のやり方でしょう?)

私はナイフをドレスの奥に忍ばせた。

窓の外では、夏の夜が深く静まり返っている。王都のどこかで、ナターシャも同じ星空を見ているのだろうか。獲物を仕留める最後の一手を練りながら。

ナターシャ・ヴォルコフ。二十一歳。

国の運命を狂わせてきた、史上最高の工作員。

でも、今度は負けない。

証拠は揃った。守るべき仲間もいる。そして何より、地獄を見てきた私とアナがいる。

あと一ヶ月。

長い戦いの、本当の最終局面が幕を開けようとしていた。