軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第23話

【大陸暦一二二六年九月下旬】

数日後、ヴィクトール殿下が極秘裏にエスターク公爵邸を訪ねてきた。

応接室で向き合った殿下の顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。

「王宮ではなくこちらに伺ったのは、母上の目を避けるためです。申し訳ない」

「構いません、殿下。むしろ慎重な判断を支持いたします」

父が答える。秋の午後の柔らかな光が、皮のソファを静かに照らしていた。

「それで、お話というのは?」

父の問いに、殿下は深く、重いため息をついた。

「実は……母上が、毎日のように私を呼び出すのです。リリアナ殿との婚約を今すぐ取りやめろ、と」

父の眉間が険しく寄った。私は静かに頷く。予想していた反応だ。

「『エスターク家は信用できない』『野心的だ』『国を乱す元凶だ』――毎日、呪文のように同じことを繰り返されます」

殿下は膝の上で拳を握りしめた。その手が微かに震えている。

「母上は私の幸せを願っていると言いますが、実際は自分の立場を守りたいだけなのです。エスターク公爵家が力を持ち、自分の発言力が削がれることを、何よりも恐れている」

「なるほど……。殿下、王妃陛下は他に何か具体的な行動を?」

「はい。貴族たちにリリアナ殿の悪評を流し始めているようです。『王太子との婚約をリリアナから一方的に破棄した』『野心的で冷酷な女性だ』と……本当に申し訳ない」

殿下が沈痛な面持ちで頭を下げた。私はそっと微笑んで首を振る。

「気になさらないでください。婚約破棄の経緯は公式声明で明らかになっています。事実と異なる噂など、すぐに霧散してしまいますわ」

「リリアナの言う通りです。王妃陛下の工作は、今のところほとんど効果をなさないでしょう。我が家への評価は、そう簡単に揺らぐものではありません」

父の言葉に殿下は一度頷いたが、その表情は依然として晴れない。

「しかし、母上は諦めないでしょう。より強硬な手段に出る可能性があります」

重苦しい沈黙が、室内を支配した。

私は紅茶のカップを口に運びながら、殿下を見つめた。その横顔に刻まれた深い苦悩が、私の胸をわずかに刺す。

「お辛いでしょうね、殿下」

私が静かに囁くと、殿下は苦しそうに目を閉じた。

「母上は、私のたった一人の母親です。簡単に突き放すことも、憎むこともできない。しかし、このままでは……」

言葉を飲み込み、視線を落とす殿下。父は静かに立ち上がり、窓の外へと視線を投げた。

「殿下。エスターク家は、何があってもリリアナを守ります。王妃陛下がどのような手に出ようとも、我々は決して屈しません」

「……感謝いたします、公爵閣下」

その夜、王妃アデライーデは自室に実兄であるグレンヴィル公爵を招き入れていた。

冷ややかな月光が窓から差し込み、王妃の青白い顔を不気味に照らし出している。

「王妃陛下、お呼びでしょうか」

「他でもありません。ヴィクトールの婚約の件です」

王妃は氷のように冷たい口調で言い、窓の外を見つめた。

「認めるわけにはいきません。断じて」

「しかし、陛下がお認めになった以上、表立って反対するのは……」

「陛下は病に伏しておられます! 正常な判断ができる状態ではありません」

王妃が鋭く振り返る。その瞳には狂気にも似た光が宿っていた。

「たとえヴィクトールを王位に就けたとしても、エスターク公爵家の娘が王妃となれば、我がグレンヴィル家の影響力は根底から削がれます。それだけは、何としても避けなければならないのです」

「具体的には、どう動かれるおつもりで?」

「まずは貴族たちに、エスターク家への不信を植え付けます。リリアナが王太子との婚約を破棄したのは、彼女が野心的で冷酷だからだ、と。エスターク家は権力欲の塊で、ヴィクトールを利用しようとしているのだ、と」

王妃は冷たく微笑んだ。

「妥当なところですな」

「しかしそれでも駄目なら、別の手段を考えましょう」

その言葉の響きには、どす黒い執念が込められていた。グレンヴィル公爵はわずかに気圧されたように沈黙し、深々と頭を下げて退出した。

一人残された王妃は、暗い夜の底を見つめ、静かに唇を歪めた。

翌日の午後。

自室で読書をしていた私に、マリアが新しく淹れた紅茶を運んでくれた。

「お嬢様、最近は随分と物騒な噂が流れていますね。王妃様が動き出されたとか……」

「ええ。でも大丈夫よ、マリア」

心配そうに顔を曇らせるマリアを宥めていると、扉がノックされ、兄エリオットが入ってきた。

「リリアナ、少しいいか」

兄の表情は極めて真剣だった。マリアが察して部屋を後にすると、兄は一枚の書状を私に差し出した。

「これを見てくれ。ある貴族から、俺宛に届いたものだ。王妃派閥の者から、我が家に対する工作への協力を持ちかけられたらしい」

書状には、エスターク家への中傷や、孤立を狙った具体的な指示が記されていた。

「この貴族は中立派だが、辺境で俺と馬を並べて駆けた仲だ。だからこうして知らせてくれた。王妃派閥はかなり組織的に動いているようだぞ」

「……そうですか。でも、こうして情報が漏れているということは、工作はあまり成功していないようですね」

「ああ。多くの貴族が、王妃の露骨な動きを胡散臭く思っている。だがリリアナ、油断は禁物だ。王妃は執念深い。次は、もっと直接的な手段に出るかもしれない」

兄は私の肩を強く掴み、その瞳に決意を込めた。

「父上も警戒を強めている。屋敷の警備も増やした。外出する際は必ず護衛をつけるんだ。いいな? お前は俺の大切な妹だ。王妃が何をしようと、指一本触れさせない」

「……ありがとうございます、お兄様」

兄が去った後、私は窓の外を仰いだ。

『エスターク家総出で守ってもらえるなんて。少しだけ、羨ましいわね』

アナが自嘲気味に呟く。

(私はあなたでもあるのよ。あなたも今、皆に守られている。そうでしょう?)

それから一週間後、事態は決定的な局面を迎えた。

王妃アデライーデが、病床の国王に直談判を強行したのだ。

「陛下、お考え直しを! エスターク家との婚約は、国に災いをもたらします!」

「アデライーデ、何を言っている」

弱々しくも威厳を保とうとする国王。しかし王妃は止まらない。

「陛下は病でお疲れなのです。私にお任せくだされば、もっと相応しい縁組をまとめて見せますわ!」

「アデライーデ!」

国王の鋭い声が響き、激しい咳き込みが室内を支配した。呼吸を整え、国王は氷のような眼差しで王妃を射抜く。

「王族の婚約の承認は、国王である私の権限だ。お前の個人的な感情で左右されるものではない。エスターク家との婚約に、何の問題もないはずだ」

「ですが、エスターク家の娘が王妃となれば……!」

「そもそも、王太子はヴィクトールではない。エドワードだということを忘れてはいまいな?」

その言葉に、王妃は屈辱に唇を噛んだ。しかし、彼女は最後の手に出る。床に膝をつき、必死の形相で国王を見上げた。

「では、せめて……せめて婚約式まで、もう少し時間を。母として、ヴィクトールの幸せを慎重に見極める時間が欲しいのです。どうか、延期をお認めください」

国王は深い失望を瞳に浮かべたが、これ以上争う体力は残っていなかった。

「……分かった。婚約式は、少しの間だけ延期しよう」

「ありがとうございます、陛下……」

深々と頭を下げる王妃。その顔には、安堵が浮かんでいる。

「しかし、アデライーデ」

国王が厳しい声で言った。ベッドから身を起こし、王妃を見下ろす。

「婚約自体を取り消すことはない。これは私の最終決定だ」

「……承知いたしました」

王妃は退出した。しかし、その目には諦めの色はなく、さらに暗い執念が宿っていた。

(式の延期だけでは不十分だわ。もっと、根本的な解決が必要ね)

その夜、再びエスターク邸を訪れたヴィクトール殿下は、蒼白な顔で応接室に現れた。

「リリアナ殿、公爵閣下……大変なことになりました」

殿下の声は震えていた。

「母上が父上に迫り、婚約式を延期させました。ですが、それだけではありません。抗議しようと母上の部屋を訪れた際、偶然にも耳にしてしまったのです」

「……どのような内容を?」

父の問いに、殿下は拳を血が滲むほど強く握りしめた。

「リリアナ殿への……襲撃計画です。『エスターク家の令嬢』を『事故』に見せかけて始末する、と。母上は、もう理性を失っている」

室内が氷ついたような静寂に包まれる。殿下は私を見つめた。その瞳には、深い悲しみと、張り詰めた決意が混ざり合っている。

「公爵閣下、リリアナ殿。私に一つ考えがあります」

「何でしょうか」

「母上の不正を、父上に直接告発します」

私は息を呑んだ。殿下は続ける。

「以前、密かに掴んでいた母上の横領の証拠を提示するのです。王宮の予算を私物化し、実家であるグレンヴィル家へ流していた。これは国を裏切る明白な罪です」

「殿下……。しかし、それは……」

私は躊躇った。実の息子が母親を破滅させる。その痛みは、復讐に燃える私でさえ、胸が締め付けられるほど過酷なものだ。

「リリアナ殿。母上は一線を越えました。あなたを傷つけようとした、その瞬間に。あなたを守るため、そして国を守るため、私は一人の息子である前に、この国の王子として決断しなければならない」

月光が、ヴィクトール殿下の横顔を峻烈に照らし出している。

「……分かりました。殿下がお決めになったことなら、私はどこまでも共に参ります」

「ありがとうございます、リリアナ殿」

殿下が深く頭を下げた。父もまた、その覚悟を受け止めるように殿下を見つめた。

「殿下、失礼ながら重ねて伺います。本当にそれでよろしいのですか? 国王陛下に告発すれば、王妃陛下はただでは済みません」

「分かっています、閣下。……それでも、私はリリアナ殿を失いたくない」

窓の外では、一番星が冷たく輝いていた。

明日、すべてが変わる。王妃の失脚。そして、その先にあるセシリアと王太子への包囲網。

『これでいいのよ』

アナの声が、静かに脳内に響いた。

(ええ。……これが、私たちの選んだ正しい道なのね)

月明かりの下、私たちは言葉を失い、ただ静かに決戦の朝を待った。