軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第19話

【大陸暦一二二六年八月初旬】

ある日の午後、公爵邸に王宮からの使者が訪れた。

「エスターク公爵令嬢リリアナ様。王太子殿下が至急、お呼び立てにございます」

使者の声はどこか落ち着かず、気まずそうに視線を泳がせていた。その様子を見ただけで、私はすべてを察した。ああ、ついにこの時が来たのだな、と。

『とうとう、年貢の納め時ね』

アナの声が、弾んだ響きを帯びる。

(ええ。予想より少し遅いくらいだわ)

「承知いたしました。すぐに身支度を整えます」

私は落ち着いた声で答え、使者が辞した後に鏡の前へ立った。

髪を隙なく整え、ドレスのしわ一つまで細心の注意を払って伸ばす。これから私は「婚約を破棄される哀れな令嬢」として呼び出される。ならばなおのこと、乱れた姿を見せるわけにはいかない。

「お嬢様、本当によろしいのですか?」

侍女のマリアが、震える声で尋ねてきた。既にセシリアから解放された彼女は、以前にも増して献身的に私を支えてくれている。

「大丈夫よ、マリア。むしろ、これは待ち望んでいた機会なの」

「機会、ですか?」

「ええ。婚約破棄自体は、すでに確定していた未来。問題は、私たちがどれだけの対価を王家から毟り取れるか、それだけよ」

私が不敵に微笑むと、マリアはまだ不安そうながらも、小さく頷いた。

「お嬢様がそう仰るなら……信じてお供いたします」

「心配しないで。私にはお父様もお兄様もいらっしゃる。それに――」

私は窓の外、王宮の尖塔を見つめた。

「ヴィクトール殿下も、味方でいてくださるわ」

『随分と頼りにしているじゃない。可愛いこと』

アナの揶揄いに、私は心の中で静かに答えた。

(実際、彼ほど頼りになる方はいないもの。……そうでしょ?)

『ふふ、そうね。あの人は、今のあなたに一番ふさわしい対等なパートナーだわ』

案内された王宮の応接室。扉が開くと、そこには並んで座る王太子エドワードとセシリアの姿があった。

呼びつけた側であるはずの王太子は、私の姿を見るなり不快そうに眉を寄せた。かつて注がれていた温かな眼差しは微塵もなく、そこにあるのは厄介者を払いのけたいという冷淡な拒絶だけだ。

対照的に、セシリアは私を見て慈愛に満ちた微笑を浮かべた。翠緑の瞳には一点の悪意も見せず、むしろ「可哀想な友」を案じるかのような、完璧な聖女の仮面を被っていた。

「リリアナ、来たか」

冷え切った声が部屋に響く。私は優雅に、完璧な角度で一礼した。

「お呼び立てにより、参上いたしました。殿下」

「リリアナ様、お疲れ様でございます。どうぞ、お掛けになって」

まるでこの場の女主人であるかのようなセシリアの振る舞いに、私は無言で席に着いた。

王太子とセシリアが二人並んで座り、私が一人でそれに対峙する。その構図そのものが、すでに彼らの意思を雄弁に物語っていた。

『何様のつもりかしらね。まあいいわ、せいぜい今のうちに悦に浸っておきなさい』

アナの冷ややかな声が脳内に響く中、エドワードが口を開いた。

「リリアナ。単刀直入に言おう。――君との婚約を、解消したい」

静寂が部屋を支配した。私は表情一つ変えず、ただ殿下を真っ直ぐに見つめた。

心は凪いでいた。けれど、十数年という月日を共に歩んできた記憶が、胸の奥で一瞬だけ小さな火花を散らした。

(幼い頃、私を守ると言ってくださった面影は、もうどこにもないのね……)

『感傷は捨てなさい。今は商談の場よ』

アナの叱咤に、私はすぐさま意識を切り替えた。

「理由を、お聞かせ願えますでしょうか」

「君は優秀だが、あまりに冷たすぎる。慈悲の心に欠ける君は、王太子妃には相応しくない」

王太子は吐き捨てるように言った。冷たすぎる、か。

王太子としての責務を説き、側近たちの不正を正そうとした私の言葉は、彼にとってはただの「冷たい刃」でしかなかったらしい。

「私には、もっと寄り添い、共に歩んでくれる心優しい伴侶が必要なのだ」

王太子がセシリアの手を取った。セシリアは頬を染め、愛らしく顔を伏せる。その仕草は、まさに愛する男にすべてを捧げる乙女そのものだった。

『反吐が出るわね。見事な三文芝居だわ』

(本当に。でも、これで舞台は整ったわね)

「……承知いたしました、殿下」

私は深く頭を下げた。だが、再び顔を上げたとき、私の瞳には鋭い光が宿っていた。

「殿下のご意思、謹んでお引き受けいたします。――ただし、解消にあたっての条件がございます」

「条件だと?」

不機嫌そうに身を乗り出す王太子。セシリアの眉も、僅かに動いた。

「まず、我が家が納めた持参金の全額返還。それに加え、一方的な解消への賠償として一割の加算を。さらに、私の名誉を毀損せぬ旨の誓約。そして公式声明において、『双方の合意による、資質と相性の不一致による円満な解消』と明記していただくこと。これらが最低条件でございます」

淀みなく告げられた要求に、王太子は顔をしかめた。

「そんな大げさな……。ただの婚約解消ではないか」

「いいえ、当然の要求です、殿下」

私は一歩も引かず、王族としての彼を射抜くように見つめた。

「この解消により、エスターク公爵家の名誉が傷つくことは断じて許されません。王家による賠償と公式な合意声明は、我が家の誇りを守るための最低限の『誠意』でございます」

「しかし、予算の都合も……」

王太子が言い淀んだその時、背後の扉が重々しく開かれた。

「失礼する。王太子殿下」

現れたのは、我が父アルフレッド。そして、軍服姿の兄エリオットだった。

「お父様……お兄様まで」

「リリアナ。――殿下、娘の提示した条件は、公爵家として譲歩した結果のものです」

父の声には、王太子の反論を許さない絶対的な威厳があった。

「エスターク家は長年、王家を支えてまいりました。その娘をこのような形で放り出すのであれば、相応の責任を果たしていただかなければ、我らも考えがございます」

「アルフレッド公……」

父の暗に含んだ圧力に、王太子がたじろぐ。その時、セシリアが鈴を転がすような声で口を開いた。

「エドワード様。リリアナ様のお心遣い、お受けすべきかと存じますわ」

彼女は慈愛に満ちた表情で、王太子の袖を引いた。

「リリアナ様のご名誉を守ることは、延いてはエドワード様の英断を守ることにも繋がります。持参金への利子も、王家の懐の深さを示す良い機会ではございませんか?」

その言葉は一見、私を庇っているように聞こえる。だが、本質は違う。

彼女は一刻も早く、私という「正妻」を法的に消し去りたいのだ。金で解決できるのなら、これほど安いものはないと考えている。

『あの女、相変わらず計算が早いわね。でも、それはこちらにとっても望むところよ』

(ええ。共犯者がいてくれて助かるわ)

セシリアの助言を受けた王太子は、大きく溜息をついて頷いた。

「……分かった。リリアナ、君の条件をすべて呑もう。ただし、公式には『双方合意の円満な解消』であることを強調させてもらう。そのための賠償金……いや、利子も支払うと約束しよう」

『やったわ! 冤罪も汚名もなし、賠償金付きの自由よ!』

アナが喝采を上げる。

「では、直ちに書面に。証人としてヴィクトール殿下にも署名をいただきたく存じます」

父が追い打ちをかけるように事務的な手続きを進める。

王太子は疲れ切った様子で頷いた。そんな彼を見つめるセシリアの瞳の奥に、一瞬だけ、勝ち誇ったような光が宿ったのを私は見逃さなかった。

「リリアナ様、本当にお辛いでしょうけれど……。これも皆様の幸せのためですわ」

セシリアの言葉を、私は穏やかな笑みで受け流した。

「ええ。お気遣い痛み入ります、セシリア様」

(お望み通り、邪魔者は消えてあげるわ。……その後の地獄を、存分に楽しみなさい)

応接室を出た後、私は父と兄に守られるように王宮の廊下を歩いた。

エリオット兄様が、心配そうに何度も私の顔を覗き込んでくる。

「リリアナ、無理はしていないか?」

「ええ、お兄様。本当に大丈夫です。むしろ、肩の荷が下りた気分ですわ」

私は微笑んだ。けれど、その微笑みには自分でも気づかない微かな苦みが混じっていたのかもしれない。

(やはり、少しだけ……胸が疼くのね)

『未練? あのスカスカな頭の男に?』

(未練ではないわ。ただ、幼い頃、ひたむきに私をエスコートしてくれたあの少年は、私の幻想の中にしかいなかったのだと……そう突きつけられただけよ)

『いい薬になったじゃない。さあ、次は本番よ。セシリアを引きずり落とすわよ』

アナの声に励まされ、私は前を向いた。

婚約破棄は、屈辱の終わりではない。私が「リリアナ」として真に生きるための、輝かしい門出なのだ。

その夜、父が私の自室を訪れた。

「リリアナ、よくやった。……見事だったぞ」

父の厳格な面持ちの裏に、確かな労りと誇りが滲んでいる。これほど真っ直ぐに褒められるのは、いつ以来だろうか。

「有利な条件で解消を成立させた。エスターク家の名誉と財産は、お前の冷静な判断によって完全に守られた。当主として、感謝する」

「お父様の支えがあったからこそですわ」

「いいえ。あの場で一歩も引かず、賠償まで勝ち取ったのはお前自身の力だ」

父はマリアが淹れた紅茶を一口飲み、ふと視線を落とした。

「王太子は、自分がどれほど致命的な愚行を犯したか、まだ理解していないようだな」

「ええ。王家が『利子』という名目で賠償金を支払うという事実は、社交界では『王太子に非があった』と解釈されます」

『そして、名門公爵家の後ろ盾を自ら捨てた無能として語り継がれるわね』

アナの付け足しに、私も心の中で深く頷いた。

「リリアナ、お前は自由になった」

父が、一人の父親としての眼差しで私を見つめた。

「これからの道は、お前自身が選びなさい。……ヴィクトール殿下のことも含めて、な」

不意を突かれた名前に、私の頬が熱くなる。

「お父様……」

「焦る必要はない。だが、彼のような有能で誠実な者がそばにいることは、エスターク家にとっても喜ばしい。彼が正式に申し出てきたときは、一人の女性として向き合うといい」

父はそれだけ言い残し、満足げに部屋を去っていった。その後ろ姿に、私は深く、深く頭を下げた。

翌日、王宮の庭園でヴィクトール殿下と合流した。

彼は私の無事を確認すると、安堵したように歩み寄ってきた。

「リリアナ殿。……成立したのだな」

「はい。昨日、正式に書面を交わしました。私はもう、王太子殿下の婚約者ではありません」

「……そうか。あなたが勝ち取った条件、父上も驚いておられたよ。見事な交渉術だと」

ヴィクトール殿下は私の手を取り、慈しむように見つめた。

「これで、あなたは自由だ。あなたの未来が、輝かしいものになるように。私も全力であなたを支える」

「はい。喜んで、殿下」

社交界は、この世紀の婚約解消の話題で沸騰していた。

表向きは「双方合意の円満な解消」だが、裏事情を知る貴族たちの見方は冷ややかだった。

「王太子殿下は、正気か? あのリリアナ様を手放して、一介の伯爵令嬢を選ぶとは」

「エスターク公爵家を敵に回して、この国がどうなるか分かっておられないのか」

王太子の不見識を嘆く声が、日を追うごとに大きくなっていく。早くもセシリアを「次の王太子妃」ともて囃す者も一部にはいたが、実務を重んじる貴族たちの間では、王太子への不信感は決定的なものとなっていた。

セシリアが手に入れたのは、栄光の座などではない。

それは、今にも沈もうとしている泥舟の船長席だった。

『計画通り、いえ、それ以上ね』

アナが冷たく、けれど愉しげに笑う。

(ええ。役者は揃い、舞台は整ったわ)

窓の外、夏の抜けるような青空を見上げる。

婚約破棄という嵐を越えて、私はついに、自分自身の人生を歩むための広大な大地を手に入れたのだ。