軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第17話

【大陸暦一二二六年六月】

社交界は新たな噂話で持ちきりだった。

「リリアナ様とヴィクトール殿下、最近よくお会いになっているそうですわ」

「まあ。ですが、リリアナ様は王太子殿下の婚約者でしょう?」

「王太子殿下はセシリア様に夢中だそうですから。リリアナ様も、万が一に備えて次を考えていらっしゃるのではないかしら」

茶会の席で、扇の影から漏れ聞こえてくる貴婦人たちのひそひそ話。

私とヴィクトール殿下が頻繁に密会しているという噂は、またたく間に広がったようだった。

否定するつもりはない。協力関係にある以上、情報交換は欠かせないのだから。

『噂が広まるのは想定内よ。むしろ、これを利用できないか考えましょう』

アナの声が、思考の海に響く。

(利用って、どうやって?)

『王太子が婚約破棄を言い出したとき、「ヴィクトール殿下と親しい」という噂があれば、むしろ話がスムーズに進むかもしれないわ。もちろん、こちらに非があると言われないよう、毅然とした一線は引いておくのが前提だけど』

(なるほど……。捨てられた悲劇の令嬢ではなく、別の選択肢を持つ強者として振る舞うのね)

しかし、この噂を誰よりも鋭い眼差しで警戒している人物がいた。

第二王子ヴィクトールの実母、王妃アデライーデである。

王妃アデライーデは執務室で一人、冷徹な計算を巡らせていた。

リリアナとヴィクトールが親しくしている――その噂は、当然ながら彼女の耳にも届いている。だが、王妃が真に危惧しているのは、単なる男女の仲ではない。

問題は、リリアナが未だ「第一王子エドワードの婚約者」であるという事実だ。

名門エスターク公爵家を後ろ盾に持つリリアナが、このまま第一王子の妃となれば、その派閥は盤石のものとなる。それは王妃の実家であるグレンヴィル公爵家にとって、致命的な脅威を意味していた。何より、第一王子が強力な後ろ盾を得てしまえば、我が子ヴィクトールの王位継承の道は完全に閉ざされる。

王妃はかねてより、前妻の息子エドワードではなく、実子ヴィクトールを王位に就けたいと渇望していた。

聡明で正義感が強く、何より母の言葉に従順なヴィクトールこそが、次代の王にふさわしい。

「そもそも、無能なエドワードよりもヴィクトールが王になるほうが、王国にとっても幸福なはずだわ」

己の欲望を「国益」という甘美な言葉に置き換えると、王妃は淀みない手際で策を練り始めた。

並行して進めるべき策は二つ。

第一に、リリアナの評判を落とし、婚約破棄へと追い込むこと。「婚約者がいながら第二王子に乗り換えようとした不実な女」というレッテルを貼ればいい。ヴィクトールは兄の婚約者に言い寄られた被害者として同情を集める。

第二に、エドワードの新たな婚約者には、後ろ盾の弱い令嬢を据えて第一王子派閥を弱体化させること。

これには、格好の「駒」がいた。セシリア・ローゼンタールだ。伯爵家という格式はあれど、政治的影響力は無に等しい。まして彼女は下級貴族からの養女。

幸い、エドワードはすでにあの女に骨抜きだ。あとは背中を優しく押してやるだけでいい。

王妃は静かに、獲物を待つ蜘蛛のような微笑を浮かべた。

六月中旬、父から急ぎの呼び出しがあった。

「リリアナ、重要な話がある」

執務室で父は、かつてないほど険しい表情で書類を広げていた。

「実は、王妃陛下の身辺を極秘に洗わせていたのだが……看過できぬものが見つかった」

「何でしょうか、お父様」

「王宮予算に、深刻な不審点がある。修繕費として計上されている金額が、実際の工事費用を不自然に上回っているのだ」

父が指し示した書類の数字は、確かに歪だった。

「この差額は、一体どこへ……?」

「グレンヴィル公爵領だ。王妃が組織的に横領し、実家へ流していた可能性が極めて高い」

『なるほど。高潔な王妃様が、裏では国のお金をくすねていたわけね』

アナの冷静な分析が、核心を突く。

「それだけではない。宮廷費の使途も支出と合致しない。こちらも同様に、グレンヴィル公爵家に流れている」

「では、数年前から継続的に行われていたということですか?」

「ああ。総額は、一国の予算を揺るがしかねない規模になるだろう」

『これはとびきりの切り札になるわ』

アナは喜悦を隠さない。けれど、私の心は重かった。

(でも、これをヴィクトール殿下に伝えるのは……)

殿下にとって、実の母の犯罪を知らされる苦しみは、察するに余りある。

「リリアナ。この情報をヴィクトール殿下に伝える必要がある」

私の迷いを見透かしたように、父が静かに告げた。

「お父様……。殿下にとって、御母上の不正を知ることはあまりに酷です」

「だからこそ、お前から伝えるべきなのだ」

父は私の目を真っ直ぐに見つめた。

「ヴィクトール殿下は、何よりも正義を重んじる方だ。いずれ公になるのであれば、他人の手からではなく、信頼する者の手から真実を受け取るべきだろう」

『お父様の言う通りよ。あの殿下なら、きっと正しい判断を下すわ』

私は深く息を吸い込み、覚悟を決めた。

「分かりました。私から、お伝えします」

数日後。私はヴィクトール殿下と対面した。

「ヴィクトール殿下、お伝えしなければならないことがあります」

「どうした、リリアナ殿。そんなに改まって」

「……父の調査により、王妃陛下に関する重大な不審点が見つかりました」

私は、父から託された書類を差し出した。殿下はそれを受け取り、静かに目を通し始める。

瞬きをするたび、彼の表情から血の気が引いていくのが分かった。

「これは……まさか、母上が……!」

「王宮予算の横領です。差額はすべて、グレンヴィル公爵領へと流れています」

ヴィクトール殿下は、深い沈黙に落ちた。書類を握りしめる指先が、白く震えている。

「殿下……」

「……確認させてくれ。私自身の目で、王宮の正本を調べたい」

その声は、掠れ、震えていた。

その日のうちに、ヴィクトール殿下は王宮の記録室へと入った。

特例として同行を許された私は、殿下の背中を見守った。彼は言葉を失ったまま、過去数年分の予算書類を狂ったように繰っていく。

捲られる紙の音だけが、冷たい部屋に響く。

一つ、また一つと、覆しようのない証拠が積み重なっていく。

「間違いない。母上は、こんなことを……」

ヴィクトール殿下の漏らした声は、痛切な悲鳴のようだった。

「こんなに長い間……これほど多額の国民の血税を」

彼は拳を強く握りしめ、机に拳を叩きつけた。

「殿下、辛い決断になることは承知しております。ですが――」

「分かっている。分かっているんだ」

ヴィクトール殿下が私を振り返った。その瞳には、葛藤と苦渋の色が濃く滲んでいた。

「だが……私は実の母を、この手で裁くことになる」

「いいえ。あなたは正義を貫こうとしているのです。殿下の選ぶ道は、決して間違っていません」

「……母上は、私を王位に就けたいがために、この不正に手を染めたのだろう。その愚かな親心だけは、理解できてしまう」

殿下は虚ろな目で天井を仰いだ。

「だが、見過ごすわけにはいかない。それが王族としての、私の責務だ」

苦渋の末に絞り出された言葉には、揺るぎない覚悟が宿っていた。

『立派よ。辛いけれど、これが「王の器」というものね』

アナが静かに、敬意を込めて呟く。

「ありがとう、リリアナ殿。……あなたが伝えてくれて、本当によかった。もし他の誰かから突きつけられていたら、私は冷静さを保てなかったかもしれない」

「殿下、一人で抱え込まないでください。私たちは協力者なのですから」

「ああ……その通りだ」

彼は初めて、消え入りそうなほど微かな微笑を見せた。

「この証拠は、今は私が預かろう。今すぐ使えば母を失脚させることは容易い。だが、これは最後の切り札だ。今この瞬間に使っても、兄上とセシリアを利するだけになりかねない」

『賢明ね。最大の効果を発揮する場面まで、大切に持っておきましょう』

調査を進める中で、さらに不可解な情報が舞い込んできた。

「王妃陛下が、セシリアと親密にされている……?」

「ああ。最近、頻繁に彼女を私的な茶会へ招いているらしい」

ヴィクトール殿下が、複雑な面持ちで報告した。

「ローゼンタール伯爵家は、お世辞にも格式高いとは言えません。身分を重んじる陛下が、一介の令嬢をこれほど厚遇するとは……ましてセシリアは養女です」

『確かに妙だわ。あの王妃は、血筋こそがすべてだと信じているはずなのに』

アナの疑問に、私も同意する。

一体、どんな思惑が潜んでいるのか。

「だが、侍女たちの間では『王妃様がセシリア様を大層気に入っておられる』と噂になっている。兄上とセシリアの関係を知った上で、接近しているのは確実だろうな」

『分かりやすいわね。王太子とセシリアを強引にくっつけて、第一王子派の力を削ぐつもりだわ。エスターク公爵家という巨大な盾を失えば、王太子は裸同然だもの』

「セシリアという女性については、未だに不透明な部分が多い」

「不透明、ですか?」

「例えば彼女の周囲には、常にダミアンがいる。二人の関係が気にかかるんだ。単に兄上に取り入るための協力者にしては、少々距離が近すぎるように思える」

『ダミアンね。彼がすべての鍵を握っている予感がするわ』

ヴィクトール殿下は今後の指針を整理した。

王妃の横領証拠は、破滅の瞬間まで秘匿すること。

そして、ダミアンとセシリアの真の関係を徹底的に洗うこと。

新たな謎は増えたが、私たちの手札は確実に強くなっている。

「リリアナ殿、これからも頼りにしていいだろうか」

「もちろんです、殿下。最後まで、共に参りましょう」

差し出された彼の手を、私は強く握り返した。二人の間に、確かな絆が結ばれた瞬間だった。

翌日の午後。私は公爵邸の広大な庭園を散策していた。

昨夜は王妃の陰謀やダミアンの動向、そしてヴィクトール殿下の痛ましい表情が頭を離れず、まともに眠れなかった。寝不足でぼんやりとしていた私を案じたマリアが、気分転換にと庭へ連れ出してくれたのだ。

六月の陽光は力強く、初夏の花々が鮮やかな色彩を競っている。

風に乗って届く薔薇の甘い香りに、強張っていた心が少しずつ解けていく。

「リリアナ。最近、少し根を詰めすぎではないか?」

ふいに後ろから声をかけられた。

振り返ると、そこには穏やかな笑みを浮かべた兄エリオットが立っていた。

「お兄様、今日はお邸にいらしたのですね」

「ああ。どうも、可愛い妹が頑張りすぎて、今にも倒れてしまいそうな気がしてな」

兄は私の隣に並ぶと、歩調を合わせて歩き出した。

「兄として言わせてもらうが、あまり無理をするなよ。お前には家族がついているんだ」

「……ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」

「そうか。強がりなところは昔から変わらないな」

兄は少し茶目っ気のある表情で、ふと思い出したように言った。

「そういえば、お前が好きだったあの菓子を覚えているか?」

「お菓子、ですか?」

「ほら、小さい頃によく厨房へ忍び込んで、焼きたてのタルトを盗み食いしただろう」

『まあ、懐かしいわね。そんなこともあったわ』

アナが楽しげに笑う。

記憶の底から、幼い日の情景が鮮やかに蘇った。二人で真っ黒に汚れて、料理長にこっぴどく叱られたこともあったはずだ。

「覚えています。ベリーのタルト……ですよね」

「そう、それだ。明日、また料理長に作らせようと思ってな。お前も来ないか?」

「え?」

「今度は泥棒猫のように忍び込むんじゃない。堂々と、厨房で一緒に食べよう」

兄は悪戯っぽく片目を瞑った。その笑顔は、かつて私を守ってくれた優しい兄そのものだった。

「――はい。ぜひ、伺います」

『なかなか気の利いた提案じゃない。お兄様、見直したわ』

いつの間にか、私の顔には自然な笑みが浮かんでいた。

陰謀も、策略も、今はすべて忘れていい。

ただの兄妹として笑い合える時間が、こんなにも愛おしく感じられる。

「よし、約束だ。楽しみにしていろよ」

兄は私の頭をぽんぽんと、昔と同じように優しく撫でた。

照れくさくて視線を逸らすと、遠くの木陰からこちらの様子をこっそりと窺っているマリアの姿が目に入った。

『……ふふ、やっぱりマリアの入れ知恵だったのね。お兄様が急にそんな気の利いたことを言うはずないもの』

(いいえ。侍女の提案を素直に聞き入れて、妹を励まそうとしてくださるお兄様は、本当にお優しい方ですわ)

私は、一点の曇りもない青空を見上げた。

流れる雲が、心地よい初夏の風に運ばれていく。

未来を変えるための戦いは、これからも続く。

けれど、こうした何気ない「日常」こそが、私が守り抜きたいものの正体なのだと、改めて心に深く刻んだ。

そう思うと、足取りは驚くほど軽くなっていた。