軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第11話

【大陸暦一二二五年十一月初旬】

十一月に入ると、王都を吹き抜ける風はいよいよその冷たさを増していった。

庭園の木々は鮮やかな朱や金へと装いを変え、風が吹くたびに乾いた音を立てて石畳を転がっていく。私はエスターク公爵邸の重厚な玄関前に立ち、冷気に頬を赤く染めながら、遠くから近づいてくる一台の馬車をじっと見つめていた。

――エリオット兄様が、帰ってくる。

辺境での統治修行を終え、約半年ぶりに王都へと戻られるのだ。最後に会ったのは六月。私がまだ、この世の悪意を知らず、セシリアの正体も、マリアの裏切りも、そして未来の私の辿る運命も知らなかった頃だ。

『懐かしいわね……』

アナの声が、胸の奥で感慨深げに、そしてどこか悲しげに囁いた。

『お兄様、未来では処刑に間に合わなかったのよ』

(お兄様は、その時、王都にはいらっしゃらなかったの?)

『ええ。セシリアと王太子は、おそらく意図的にそのタイミングを狙ったのでしょうね。お兄様がいれば、お父様を動かして処刑を止めることも、あるいは強引に私を連れ出すこともできたかもね。けれど……実際には、お兄様が辺境から馬を潰さんばかりの勢いで戻ってきたときには、すべてが終わった後だった』

アナの声が、ふっと遠くなる。

『処刑の翌日に王都へ到着したお兄様のあの顔……絶望と後悔に、ひどく歪んでいて』

(アナは、その……死んでしまったのでは?)

『あれがお化けの正体なのかしらね。意識だけが処刑場に留まっていたのよ。切り離された自分の身体のそばで、呆然と立ち尽くすお兄様を見たわ。私を助けるために、不眠不休で駆け抜けてきたお兄様の、あんなに惨めな姿……。二度と、見たくないわ』

胸が締め付けられるように痛んだ。兄は私を救おうとしてくれた。間に合わなかった自分の無力を、どれほど呪ったことだろう。

「……今回は違うわ」

私は白い息を吐きながら、小さく、しかし断固として呟いた。

「今回は、最初から味方になっていただくわ。絶対に一人になんてさせない」

『そうね。エリオットお兄様は有能よ。武力も政治力も、そして何よりあなたへの愛がある。味方につければ、これほど心強い存在はいないわ』

砂利を噛む音と共に、馬車が屋敷の前に停車した。

扉が開くと、そこから長身の男性が降りてくる。

日の光を浴びて輝く金髪、父譲りの理知的な紫の瞳。半年間の辺境生活で精悍さを増したその体つきには、野性味のある筋肉がついていた。腰には公爵家の嫡男であり、騎士である証の剣が重々しく下げられている。

「エリオット兄様、お帰りなさいませ!」

私が駆け寄ると、兄は驚いたように目を見開き、それからすぐに太陽のような柔らかな微笑みを浮かべた。

「ただいま、リリアナ。久しぶりだな、元気そうで良かった」

温かな声。だが、私を抱きしめる間際、兄の鋭い双眸がわずかに細められた。それは私を観察し、その変化を一瞬で見抜こうとする、鋭利な探るような視線だった。

「リリアナ……お前、なんだか雰囲気が変わったな。以前よりずっと凛としている。目に強い力が宿っているというか……何か、大きな覚悟を決めたような顔だ」

私は一瞬、息を呑んだ。兄はあまりに鋭い。半年という空白があっても、私の内面の変容を即座に察知している。

『やっぱりお兄様は有能ね。その観察眼、敵に回さなくて本当に正解だわ』

アナの声が、感心したように、どこか誇らしげに響いた。

『ごまかしきれる相手じゃないわ。リリィ、今日中にすべてを話しなさい』

「ええ……。実は、色々なことがありましたの。後でゆっくり、お兄様にお聞きいただきたいことがありますわ」

兄は一瞬だけ驚きの表情を見せたが、すぐに思慮深い顔つきで頷いた。

「そうか。お前がそんな顔をして頼むのなら、ただ事ではないのだろう。分かった。後で部屋へ行くよ」

夕食後、暖炉の火が赤々と燃える兄の私室を訪ねた。

応接スペースのソファに二人きりで座ると、兄は茶を一口飲み、真剣な眼差しで私を見つめた。

「それで、リリアナ。何があったんだ? 王都で何が起きている」

その声には、妹を案じる慈愛と、事態を見極めようとする冷静な好奇心が混在していた。

私は深呼吸をし、膝の上で手を握りしめた。アナという「人格」が宿っているという非現実的な話は伏せる。だが、セシリアという存在の危険性と、これまでの経緯はすべて話さなければならない。

「お兄様。実は、セシリア・ローゼンタールという令嬢が、この国を揺るがしかねない非常に危険な人物なのです」

兄は訝しげに眉をひそめた。

「セシリア・ローゼンタール? 確か、ローゼンタール伯爵家の養女だったな。伯爵家は代々忠義の家柄だ。その養女が危険だというのは、具体的にどういうことだ?」

「皆様、そう仰います。でも、実際は違うのです」

私は努めて冷静に、論理的に説明を始めた。

セシリアが王太子に計画的に近づいていること。フェリックスを唆して、王太子のワインに薬を仕込ませたこと。私がその証拠を掴んで、フェリックスを失脚させた事実。私の侍女マリアが脅されていたが、今は二重スパイとしてこちら側にいること。そして――。

兄は一言も発さず、黙って私の話を聞いていた。

最初は半信半疑だったその瞳が、私の説明が進むにつれ、次第に鋭さを増していく。それは妹の夢想を聞く目ではなく、一級の情報を精査する政治家の目だった。

「……お前、本当に変わったな」

兄は額に手を当て、感嘆したように息を吐いた。

「妹がここまで戦略的に動いているとは。以前のお前なら、直接セシリアを問い詰めて、無防備に返り討ちに遭っていただろう。お前は善意を疑わないのが美徳だったが……高位貴族としては、その危うさが心配だった」

『ふん、そうよ。それが以前の「私」だったわ』

アナの声が、自虐的に囁く。

「私は変わったのです、お兄様。もう、無知なままではいられないと悟りました」

私は真っ直ぐに兄を見つめた。

「このままでは、婚約を破棄されるだけでなく、私という人間、ひいてはエスターク公爵家すべてが踏みにじられる。最悪の場合、全員の命が危うい……そう確信したのです。だから私は、感情を捨てて戦うことにしました」

兄は深く、長く息を吐き出した。

「しかし問題は、あの厳格な父上をどう説得するか……」

「お父様は既に、私の味方ですわ」

「何だと!?」

兄は椅子から身を乗り出すようにして驚愕した。

「あの父上が? お前の話を、信じたのか?」

「はい。お父様には、言葉だけでなく動かぬ証拠をお見せしましたから」

「証拠……。父上を屈服させるほどの、証拠か」

兄は私を、まるで未知の存在を見るかのような畏怖の混じった目で見つめた。

「そこまでの準備を整えていたのか。そして、父上が動いたということは……。リリアナ、お前の言っていることは、もはやただの疑惑ではないのだな。確定した事実なのだな」

「はい」

私は静かに、しかし重々しく頷いた。

兄は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。月明かりに照らされたその背中は、どこか寂しげで、悔恨に満ちているように見えた。

「お前一人で……戦わせていたのか」

絞り出すようなその声に、私の胸が震える。

「俺が辺境で暢気に修行している間に、妹が一人でこんな闇と向き合っていたとは。すまない、リリアナ。もっと早く気づき、駆けつけるべきだった」

「いいえ、お兄様」

私も立ち上がり、兄の隣に並んだ。

「もう一人ではありません。お父様も、マリアも、そして……他にも、私を支えてくれる存在がいます」

私は心の中で、アナの存在に感謝した。

兄は振り返り、私の両肩をがっしりと掴んだ。その掌の熱さが、何よりも心強い。

「俺も力になる。妹を、家族を守るのは兄の務めだ。お前が描く戦略の中に、俺と俺の騎士団を加えろ。いいな?」

その言葉に、ずっと張り詰めていた心の糸が少しだけ緩み、視界が滲んだ。私は微笑みながら、深く頷いた。

「ありがとうございます。お待ちしておりました、お兄様」

『良かったわね、リリィ。これで未来とは完全に違う道が拓けたわ』

アナの声が、慈雨のように優しく染み渡った。

私たちは再び椅子に座り、今後の具体的な計画を詰めていった。

次の標的であるダミアンをどう追い詰めるか。マリア経由で得るセシリアの動向。そして、第二王子ヴィクトール殿下との協力体制の構築を考えていることについて。

兄は私の案を聞き終えると、頼もしげに頷いた。

「ところで、お兄様。辺境での修行はいかがでしたか?」

私が話題を変えると、兄は少しだけ表情を和らげた。

「辺境は、表面上は平穏だった。領民たちはたくましく、統治の基本を学ぶには良い場所だ。……ただ、気になることもある」

兄の瞳に、かすかな軍事的な緊張が走る。

「隣国ノルヴェリアの兵が、時折国境を越えてきている。まだ小規模なものだが、小競り合いの頻度は確実に増しているようだ」

「まあ。それは不穏なことではありませんか?」

「ああ。今は軍の重鎮、グレンヴィル公爵が水際で抑えてくれているが、王都の貴族たちは『いつものことだ』と高を括っている」

兄は苦々しげに続けた。

「王太子殿下も『辺境のことは公爵に任せておけばいい、それより冬の祭典の準備だ』と仰っていた。国の防衛より、己の享楽を優先している。……あの御方は、相変わらずだ」

私は小さく溜息をついた。王太子エドワード。彼に国の危機を説いても、無駄であることは未来が証明している。

「お兄様が戻ってくださって、本当に心強いわ。次はダミアンを追い詰めます。セシリアと密会している情報を、マリアに探ってもらうつもりです」

「分かった。俺の騎士団の精鋭を貸し出そう。尾行でも、証拠の押収でも、荒事でも何でも命じてくれ」

「ありがとうございます、お兄様」

私は兄の大きな手を取った。その温もりは、決して私を見捨てないという誓いの証。

「お兄様は、私の誇りです」

兄は少し照れたように笑い、そして真剣な顔で私を見つめ返した。

「リリアナ。もし本当に行き詰まったら、たとえ王太子が相手だろうと、俺を呼べ。俺は、お前を守るためなら何だってする。分かったな?」

「ええ。お約束します」

兄の部屋を辞し、静まり返った廊下を歩きながら、私は心の中でアナに語りかけた。

(アナ、ついにお兄様も味方になってくださったわ)

『ええ。これは巨大な一手よ。お兄様の武力と政治的発言力、そして彼を慕う騎士団……すべてが私たちの駒になった』

(未来では、お兄様はアナの最期に立ち会えなかった。でも今回は、最初から私の隣にいてくださる)

『……そうね。あの処刑場の虚しい絶望は、もう繰り返させない。勝つわよ、リリィ。絶対に』

自室に戻った私は、窓を開けて冷たい夜風を招き入れた。

星が無数に瞬く夜空を見上げ、深く息を吐く。

フェリックスは排除した。

マリアは味方に変えた。

父を説得し、そして最強の兄が帰還した。

「セシリア、あなたの孤立はもう始まっているのよ」

私は夜風に金色の髪をなびかせ、不敵な微笑みを浮かべた。

標的は、二人目の側近、ダミアン。

彼の「忠誠」という名の歪んだ感情を、今度は私たちが利用してあげる番だ。

光溢れる社交界の裏側で、静かな反撃の狼煙は、今、力強く上がり始めた。