軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第13話 わたしの、はじめての朝

朝のいちばん早く経理室の鍵を開けるのが、わたしの役目になったのは、先月の半ばから、だった。

以前は、セレナ様か、ハンネスさんが、先に鍵を開けていた。わたしは、その、開いた扉の向こうから聞こえる、机の上の紙を整える音を、廊下の途中で、聞きながら、近づいていった。聞きながら歩く、というのが、わたしの朝の、いちばん好きな時間、だった。

今、その音は、わたしが、立てる側になった。

鍵を開けて、中に入って、窓を、昨日と同じ幅に、開ける。机の上の、昨日の頁の続きを、置き直す。茶碗を、四つ、机の、それぞれの場所に、並べる。湯を沸かすのは、使用人の方だけれど、茶葉を量る順番は、わたしが決める。いちばん左が、セレナ様のレモンバーム。でも、セレナ様は、今は、お昼くらいまでは、経理室にいらっしゃらない。──いらっしゃらないけれど、左の場所は、空けておく。空けておくのが、今朝の、いちばん大事な仕事、だった。

ヴァイス伯爵家の、奥様は、もうすぐ、お子様が、お生まれになる。

お腹が、上着の下で、秋になってから、少しずつ、目立ち始めた。マリーカ様が、月に二度、巡回で、寄ってくださる。「静かに、しててくださいねー、奥様」と、明るく仰って、セレナ様の肩を、軽く、叩いて、帰っていかれる。

セレナ様は、素直に、従ってくださっている。──従う、というのは、たぶん、セレナ様にとっても、そんなに、簡単では、ないと思う。一年、このお方を、お手本にしてきたから、分かる。このお方は、ご自分で動ける範囲を、ご自分で、全部、動いておきたい種類の方、だった。そのお方が、お昼まで、経理室に、来ない。来ないでくださる、と、頼みに行ったのが、他ならぬハンネスさんと、わたし、だった。

「シャルロットー、おっはよーっす」

ハンネスさんが、廊下の向こうから、朝の勢いで、入ってきた。勢いは、変わらない。変わったのは、扉の開け方に、少しだけ、加減が、入るようになったこと、だった。「奥様は、まだ、いらっしゃらないんだった」と、毎朝、自分で、思い出しながら、音を、半分に、落としている。その半分の加減の、残りの半分を、わたしに向けて、大きい声のまま、残してくれる。──朝のこの、順番の配慮が、わたしには、ありがたかった。

「おはようございます、ハンネスさん」

「今日、言っとかないと、と思って」

ハンネスさんは、机の手前に、書類を、置く前に、立ったまま、仰った。

「引き継ぎの儀、日取り、決まりました」

「……はい」

「来月の、第二旬。奥様のお体が、まだ、お元気なうちに、って」

「──はい」

わたしは、茶葉の、量る手を、一度、止めた。

止めてしまって、止めたことが、自分で、分かった。分かったから、すぐに、もう一度、動かした。動かしてから、ほんの少しだけ、指先が、震えた。

震えたことを、ハンネスさんは、見ていた。見ていたけれど、笑わなかった。

「俺のときも、震えたっすよ」

「……震えましたか」

「震えた。奥様が、俺の指の震え、見てたと思うんですよね。見ないふり、してくれてたけど」

ハンネスさんは、笑った。いつもの、人懐っこい笑い方。わたしも、少しだけ、笑い返した。

笑い返した自分の、頬のあたりの、筋肉の動かし方が、一年前、ヴァイス領に来たばかりの頃の動かし方より、楽だった。ハンネスさんの、笑いの受け方に、自分が、慣れていた。慣れていることに、今朝、気づいた。

オスカーさんが、少し遅れて、入ってきた。

地元青年のオスカーさんは、春から、ご自分の湯呑みを、持ってくるようになった。「自分の分は、自分で淹れてきます」と、自分から仰って、毎朝、厨房から、湯呑みを、運んでくる。──だから、今朝の茶碗も、机の上には、三つ、だった。セレナ様のぶんと、ハンネスさんのぶんと、わたしのぶん。オスカーさんは、自分の湯呑みを、机の、少しだけ、端のほうに、置く。

「おはようございます。今日のぶん、一式、厨房から、いただいてきました」

「ありがとうございます、オスカーさん」

「あと、廊下で、マッテオ叔父さんの使いの方と、すれ違いました。シャルロットさんに、手紙、と」

差し出された封筒の、紐の絞り方に、見慣れた癖が、あった。──叔父の、店の、帯封。

帯封を見て、胸の奥が、ひとつ、小さく、鳴った。叔父からの手紙は、わたしを、ヴァイス領に送り出したときから、月に一度、届いている。叔父は、商会連合の、マッテオの弟、で、わたしの、母方の、兄にあたる。父が早く亡くなったあと、わたしに、文字の読み方と、帳面のつけ方を、教えてくれた人、だった。

封筒を、今朝は、開けなかった。夜、自室で、ゆっくり、読もう、と決めた。仕事の前に読むと、叔父の字が、今日の帳面の、わたしの字の引き方に、混ざってしまう。──混ざるのは、まだ、少し、早かった。

午前中、シャルロットは、港湾使用料の、先月分の確認を、進めた。

頁の、最後の欄に、管理者の署名を、入れる場所が、あった。

そこを、セレナ様は、ご自分で、書いておられた。春までは。今は、その欄に、ハンネスさんの字、と、わたしの字が、半々で、入るようになっている。今日の頁の、その欄に、わたしは、少しだけ、ペンを、止めて、それから、自分の字で、署名を、下ろした。

『シャルロット・エッカート』

下ろして、墨が、乾くのを、待った。

待っている間、自分の、下ろしたばかりの、字の、線の、太さを、見ていた。

春までは、遠慮の、線の、細さ、だった。今朝の線は、昨日より、ほんの少しだけ、まっすぐだった。まっすぐさは、勇気とは、少し、違う。──ただ、「この頁は、自分が、ちゃんと、読んで、締めた」という、静かな、自信の、太さ、だった。その太さは、セレナ様の字の太さとは、違う。違っていて、いい、と、はじめて、今朝、思えた。

夕方、午後の仕事が、ひと区切り、ついた頃、経理室の扉が、ノックされた。

軽いノック。

セレナ様、だった。

戸口の、少し、手前に、立ってくださっていた。入ってくる前に、ひと息、置いてくださるのが、最近の、セレナ様の、経理室への、入り方、だった。──わたしたちの仕事の、流れを、切らないように、と、お気遣いになる。

「お邪魔します」

「セレナ様、どうぞ」

セレナ様は、ゆっくり、奥の、ご自分の机のほうへ、歩かれた。お腹が、上着の、前の折り目で、今朝より、もう一段、目立って、見えた。──歩き方も、昨日より、もう一段、ゆっくり、だった。

机の上に、わたしの、朝、締めた頁が、置いてあった。

セレナ様は、両手で、持ち上げて、目を、通された。目の動きの、早さが、以前、ご自分で、頁を、お書きになっていた頃の、早さと、同じだった。──変わっていないのは、読む、という動作の、速度、だった。

頁の、最後の欄の、わたしの署名のところで、目が、一瞬、止まった。

「……合っています」

セレナ様は、ひと言、仰った。

それだけ、だった。

ほかのことは、何も、仰らなかった。頁を、元の位置に、そっと、戻された。──戻し方の、角度が、春までの、セレナ様の頁の、戻し方と、同じだった。

わたしは、返事を、返せなかった。

返事の、代わりに、「はい」と、いう、ひと言を、喉の奥に、押し込んだ。押し込んだら、そのまま、そこに、ほんの少しだけ、温かく、残った。──その温かさを、あとで、夜、自室で、叔父の手紙と一緒に、ゆっくり、開けてみよう、と、決めた。

セレナ様が、机の前で、少しだけ、休まれてから、廊下のほうへ、歩いて行かれた。

扉が、閉まった。

閉まった扉のほうを、ハンネスさんが、一度だけ、見た。

見てから、こちらを、振り返った。

「シャルロット」

「はい」

「伯爵様は、あとで、執務室で、迎えに来るって」

「はい」

「俺らは、このまま、あと、二刻くらい、回してよし、だって、奥様から」

「……はい」

「頑張りますかー」

ハンネスさんは、自分の湯呑みを、持ち上げた。中身は、とっくに、冷めていた。それでも、口をつけた。冷めたぶんを、最後まで、飲み干した。

その飲み方を、わたしは、横目で、見ていた。

(……ハンネスさんの、字は、大きくて、少し、不揃いで、読みやすい)

心の中で、そう、呟いた。

呟いてから、自分で、少しだけ、頬が、熱くなった。熱くなったことを、オスカーさんに、気づかれなかったふりで、頁の、次の束に、目を、戻した。

夜、自室で、叔父の手紙を、開いた。

便箋は、短かった。いつもの、叔父の、端的な筆。

『シャルロットへ。

王都の商会連合の、朝の集まりで、ヴァイス領の書式の話が、また、出ました。

王家通商方が、先月、正式に、導入の、ひとつ目の儀を、終えたそうだ。

お前の、署名の入った頁も、マッテオの兄さん経由で、何枚か、こちらに、回ってきています。

──兄さんが、「うちの倅でも読める」と、笑っていた。

笑われるのは、いいことだ。お前の頁は、「倅でも読める」という、その、ひとつの基準を、ちゃんと、満たしている。

ヴァイス領で、学べるだけ、学びなさい。

来年以降、お前が、どちらに行くかは、お前の判断で、いい。

叔父は、ただ、ヴァイス領での、お前の、今を、応援している。

マッテオ叔父』

便箋を、膝の上に、置いた。

置いた手を、しばらく、どけられなかった。

「どちらに行くかは、お前の判断で、いい」。その一行を、わたしは、二度、読み直した。読み直した自分の、頬のあたりが、静かだった。

来月の、引き継ぎの儀が、終わったあと、わたしは、この経理室に、まだ、しばらく、いる。いる、と、いうことは、自分で、決めた。決めたことを、叔父の手紙は、今日、応援してくれていた。

窓の外で、秋の夜風が、遠くの、白い花壇の、少し残った花弁を、揺らしていた。

明日も、わたしは、朝の、いちばん早い鍵を、開ける。

開けたあと、セレナ様の、空いた席の、左の、茶碗の位置に、レモンバームを、量って、置く。量りながら、わたしは、ひと月後の、自分の指先の震えのことを、少しだけ、想像する。震えたら、ハンネスさんが、見ないふりを、してくれる。見ないふりで、笑ってくれる。──それで、たぶん、明日も、朝は、明けていく。