軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 副官の、秘密のノート

副官という職業の人は、時々、隠しごとが下手になる。

いや、本当は下手ではないのだと思う。戦場でも、交渉の席でも、ハンネスさんはきっと上手に隠せる側の人だ。ただ、経理室という場所に来ると、この人の引き出しは少しだけ緩む。数字を見ている時間が長いと、神経の別の場所が疲れるのかもしれない。

雪解けから、何日か経った朝だった。

石畳の継ぎ目を細く走っていた水の筋は、もう見えない。代わりに、路面の乾いた匂いが戻ってきていた。冬の湿りが引いたあとの、少しだけ軽い匂い。窓を細く開けて、私は昨日の続きの書類に向かっていた。

「セレナ殿ー、おはようございまーす!」

扉の開き方で、もう何も心配しなくていいのが分かる。毎朝のこれが、この人の開け方だった。両手に書類の束、外套の裾からまだ朝の冷気を連れてきている。副官って朝型の人がいいのかしら、と、どうでもいいことをふと考えた。

「今日の取り急ぎですね、港のマッテオの兄さんのとこの──」

ハンネスさんが、机の手前に書類を置こうとして──束の下から、何かが、すべり落ちた。

小さな、薄い、革表紙の帳面だった。

床の上でくるりと半回転して、こちらに表紙の裏側を見せた格好で止まった。

止まった瞬間、ハンネスさんの動きも、止まった。

「……セレナ殿、それ、ちょっと、待ってください」

普段、滅多に聞かない声色だった。速くも遅くもない、中間の、なんというか──「見られたら困るやつを見られた瞬間の」声色だ。軍人という職業の人でもこういう声を出すのか、と、少しだけ感心してしまった。

私の足元に落ちたそれを、ハンネスさんが慌てて手を伸ばした。伸ばしたけれど、私のほうが机に近かった。膝を落とすのが、偶然、私のほうがわずかに早かった。

「あの、それ、俺の、ええと」

「落ちましたよ」

「落ちました、はい、落ちました、落ちたんですけど、それは、その、アレです、アレ」

ハンネスさんの語彙が、急に貧しくなった。

帳面の表紙に、インクで題字が書いてあった。大きくて、少しだけ不揃いな字。ああ、この字は、よく知っている。

『セレナ殿 語録 並びに 符丁の翻訳について(私案)』

読み上げそうになって、飲み込んだ。飲み込んで、もう一度、今度は心の中で読み直した。

(──語録)

(私の、語録)

「……ハンネスさん」

「はい」

「これ、開けても、よろしいですか」

「えー……ちょっとだけ、心の準備を、いただいてもいいですか、セレナ殿」

「どうぞ」

「……数えてから、お願いします」

数えるふりだけ、した。本当は数えていない。

帳面を、開いた。

一頁目。几帳面に区切られた欄。左の欄に日付。右の欄に、私の書いた符丁が、そのまま写されていた。頭に点のあるもの、ないもの。横の小さな星。そしてその下に、鉛筆で、ハンネスさんの字。

『点あり→たぶん「急ぐ」の意。セレナ殿は急ぐと点を打つ気がする(仮説)』

『点なし→たぶん「普通」。でもたまに「重要だけど急がない」のときも点なし(要確認)』

『星ひとつ→優先。星ふたつ→……本人に聞くこと』

次の頁。交易路関税の欄の、四捨五入の扱いについて、ハンネスさんなりの解釈が並んでいた。間違ってはいなかった。半分くらい、合っていた。残りの半分は、私の書き方が悪い部分だった。

さらに次の頁。冬の在庫分類について。マッテオさんの声まで、鉛筆で書き起こしてあった。「うちの倅でも読めるようにしてほしい、と兄さん言ってた」の、短い一行。

息を、ゆっくり吐いた。吐いてから、自分が呼吸を止めていたことに、ようやく気づいた。

(……この人)

(一年、こんなことを)

顔を上げた。ハンネスさんは、机の向こうで、普段の倍くらい姿勢がよかった。副官の基本姿勢、らしい、たぶん、それは。でも、耳の先が、少しだけ赤かった。

「……怒りました?」

「いいえ」

「怒りますよね」

「怒ってません」

「怒ってないんですね」

「怒ってません」

同じ言葉を繰り返している時点で、ハンネスさんはたぶん、私の顔を見ていない。視線が、帳面の表紙に落ちたまま、上がってこなかった。

「……俺、帳簿、苦手なんですよ。知ってるでしょう。足し算のたびに頭痛がする人間で。でも、セレナ殿の書くもの、毎日見てると、なんか、分からないまま、『分かる日が来るかもしれない』って、思えてきて」

ハンネスさんは、ゆっくり息を整えた。

「分からないまま『分かる日が来るかも』って思えるのは、たぶん、書いてる人が信用できる時だけなんです。で、俺は、そういう時は、メモを取るしか、できないんで」

声の、いつもの軽さは、戻っていなかった。

帳面を、閉じた。

閉じて、しばらく、手の甲で表紙を撫でていた。革の、少し擦れた手触り。副官が一年、外套の内側に入れて持ち歩いた手触りだった。毎日、誰にも見られないように、そっと抱えていたのだろう。

(……私、知らなかった)

(知ろうとも、していなかった)

一年、私は「自分にしか読めない書式」を作り続けていた。その隣で、「読めるようになりたい」と思っている人が、毎日こっそりノートを取っていた。昨日の朝、箱の中で見た符丁の欄外の鉛筆の跡は、ハンネスさんの「?」だった。あれは「分からない」の印ではなかった。「分かろうとしている途中」の印だった。

同じ鉛筆の跡でも、昨日と今朝で、ずいぶん違って見えた。

「ハンネスさん」

「……はい」

「これ、お借りしてもいいですか」

「あー、それは、ちょっと、恥ずかしいんで」

「恥ずかしい?」

「字が汚いんですよ。あと、仮説のところ、半分くらい間違ってるので」

「間違っているところを、教えてください」

ハンネスさんが、初めて、顔を上げた。

「……教える、って」

「正解を、お伝えします。あなたの仮説の隣に、私が、書き足します」

言ってから、自分で、少しだけ、驚いた。

一年、渡さずにいたもの。渡せないと思い込んでいたもの。その半分くらいは、相手がすでに、自分の側から、こちらへ橋を架けてくれていた。私は、向こう側からの橋に、気づいていなかっただけだった。

昼前に、一度だけ、ルーカス様の執務室に寄った。

昨日のうちに頼まれていた関税率の試算を、届けるためだった。扉を叩いて、「入れ」の返事を聞いて、いつも通りに中へ入った。

入って、一歩で、止まった。

壁の地図の横。あの最初の分析報告書の額の、すぐ隣。

──新しく、額がひとつ、増えていた。

近づいて、中を見た。白い紙に、細い字で、ひと言だけ。見覚えのある筆跡だった。冬の夜の、筆談の紙。涙の跡が、乾いて薄い輪になっている、あの一枚だった。

(……いつの間に)

ルーカス様は、机の向こうで、ペンを動かしていた。こちらの気配には気づいているはずなのに、顔を上げなかった。上げない、というよりは、上げられない、という種類の背中だった。

「……ルーカス様」

「ああ」

「これ、飾られたんですね」

「……ああ」

短い返事だった。短いけれど、今朝のハンネスさんの耳の先と、同じ色の返事だった。

私は、試算の紙を机の上に置いた。ルーカス様は受け取って、相変わらず、数字の部分は飛ばしていた。その飛ばし方が、もう、愛嬌のようなものに見え始めていた。

額のことは、それ以上は、訊かなかった。訊かなかったのは、たぶん、私のほうが先に、耳の先が赤くなりそうだったからだ。

午後。

経理室に戻ると、ハンネスさんが、机の向こう側に、例の帳面を広げて待っていた。

いつもの、慌ただしい姿勢ではなかった。軍人の基本姿勢でもなかった。副官としての、少しだけかしこまった姿勢だった。

「セレナ殿」

「はい」

「ひとつ、お願いがあります」

帳面の、ある頁の一か所を、指で押さえていた。港湾使用料の、逓減の欄。先日マッテオさんから「倅でも読めるように」と言われた、あの草稿の場所だった。

「この頁、ひとつだけ、俺に締めさせてもらえませんか」

一瞬、息が、止まった。

止まった、というよりは、吸うのを、うっかり忘れた、が近かった。

「締める、って」

「最初から最後まで。セレナ殿に渡さずに、俺が、俺の字で、俺の判断で。一回だけでいいんです。間違ってたら、あとで、いくらでも直してもらっていいので」

ハンネスさんの目は、机の上を、見ていた。見ていたけれど、逃げてはいなかった。

私は、少しだけ、考えた。

考えるというよりは、胸の中で、昨日の朝、自分に言い聞かせたことを、もう一度、確かめていた。──ほどくのだ。自分で結んだ結び目を、自分の指で、ひとつずつ。

ひとつずつ、というのは、たぶん、一人で、という意味ではなかった。

「……お願いします」

声は、平坦だった。平坦だったけれど、震えてはいなかった。

ハンネスさんが、顔を上げた。耳の先の赤みは、もう消えていた。代わりに、普段のあの、人懐っこい笑顔が、少しだけ、戻っていた。

「了解です」

机の上で、帳面が、静かに開かれた。

窓の外で、雪解けの水は、もう走っていなかった。石畳は乾いていて、午後の光が、その上に薄く、落ちていた。