軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 筆談の夜、八年前と同じように

三日ぶりに帰ってきた人が、声を連れて帰ってこなかった。

雪混じりの風が、玄関先で渦を巻いていた。視察隊が門から戻ってきたのは、夕方に差し掛かる頃だった。先頭の馬に乗っていたハンネスさんが、普段の三倍は早口で、何かを叫んでいた。「セレナ殿ッ! 伯爵が、伯爵が」

早口の意味を理解する前に、馬車の扉が開いた。

中から降りてきたルーカス様の顔色を、一目見て、全部が分かった。

青白い、というより、灰色だった。唇が乾いて割れている。外套の襟を、帰りの馬の中でもきつく立てていたのが、凍った布の硬さで分かった。喉を守ろうとしていたのだ。視察の最初から、ずっと。

「ルーカス様」

駆け寄った。ルーカス様がこちらを見て、何か言おうとして、口元が、動いた。

音は、出なかった。

掠れた息だけが、冬の空気に白く散った。

(……ああ)

頭のどこかで、冷たい確信が落ちた。毛布の温度、朝の咳払い、触れた時に冷たかった指先。全部、ここに繋がっていた。私はずっと見ていたのに、ずっと正解に手が届かなかった。

「お部屋に運びます。ハンネスさん、手伝ってください」

ハンネスさんは、頷く前に、もう動いていた。

寝室に運んで、外套を脱がせた。襟の内側まで、布が凍って硬くなっていた。喉のすぐそばの生地を外した瞬間、古い傷跡が、首の横に、薄く見えた。マリーカさんが、自分の喉を指で示した、あの位置と、寸分違わなかった。

ルーカス様は、寝台に横になるまで、一度も言葉を出さなかった。出せない、というのが正確だった。唇は動いた。でも、音にはならなかった。

ハンネスさんが、廊下で、足を止めた。

「……セレナ殿、すぐ、魔法鳥を飛ばします。マリーカさんのところへ」

「お願いします。王都の軍医局に、直接届くように」

「了解です。馬車は今夜のうちには無理です。でも、処方箋だけなら、魔法鳥で夜明け前には」

「お願いします」

ハンネスさんは、頷いて、駆けていった。普段の軽口は、一度も出なかった。

寝室に戻ると、ルーカス様は、天井を見ていた。まだ肩で呼吸していた。外の寒さから、体の中がまだ戻っていない。

火を強くした。毛布を重ねた。見覚えのある毛布が、枕元の棚に、畳まれて置いてあった。今朝まで私の経理室の椅子にかかっていた、あれだった。いつの間に運ばれたのだろう。たぶん、ハンネスさんの気遣いだ。

ルーカス様の指先が、毛布の端に触れた。触れて、動かなかった。疲れていた。

(……今夜は、喋らないで)

声に出さなかった。たぶん、出さなくても、伝わっていた。

魔法鳥がマリーカさんの処方箋を運んできたのは、翌朝の明け方だった。

封筒には、処方箋のほかに、便箋が一枚、同封されていた。マリーカさんの字で、急いで書かれたのが分かる。

『セレナ様。

お変わりはありませんか、などとご挨拶している時間はないので、本題から。

処方箋の通りに従ってください。七日間の絶対安静、発話禁止。八年前の師匠が出したものと、ほぼ同じ内容です。あの頃より体力はお強いので、回復は早いはずです。ご心配なさらず。

それから、お知らせしておきたいことが一つ。

八年前の治療中、ルーカス様は師匠に一度だけ、頼みごとをしたそうです。「手紙を代筆してほしい」と。師匠は「自分の手で書け」と断ったそうです。だから、八年間、あの人の手紙は、一通も送られませんでした。

当時、私は見習いで、それを横で見ていました。誰宛の手紙かまでは、師匠も私も知りませんでした。今になって、ようやく、宛先が分かりました。

お二人を、お大事に。 マリーカ』

便箋を膝の上に置いて、しばらく動けなかった。

八年前の、春。声を出せない男が、筆で書こうとして、書けなくて、そのまま一通も送れずにいた。書けなかったのは、字が書けないからではない。書いたものが、自分の中で整わなかったからだ。

(……あなたは、不器用な人ですね)

声に出さなかった。出したら、奥の寝室で休んでいる彼が、目を覚ましてしまう気がした。

夜。

寝室の壁に、燭台の灯りが揺れていた。外では風が鳴っていた。雪は、しっかり降り始めていた。

ルーカス様は、寝台の上で、半身を起こしていた。体は温まっていた。でも、喉はまだ回復していない。声を出させてはいけない期間が、始まったばかりだった。

私は、椅子を寝台の横に寄せて座っていた。小さな机を寝台の端に寄せて、紙と筆を置いていた。

ルーカス様が、ゆっくり、筆を取った。

まだ指先が少しだけ冷たかった。でも、今朝のような凍った冷たさではなかった。これは、もう回復に向かう方の冷たさだ。

筆が、紙の上に下りた。

『すまない』

その一行が、細い字で出た。普段の彼の字より、線が少しだけ細い。疲れている時の筆だ。

「謝らないでください」

私は、声に出した。

ルーカス様は、小さく頷いた。それから、また、筆を動かした。

『八年前も、こうだった』

紙の上に、もう一行。

分かっていた。マリーカさんが教えてくれた、あの春の話。長い発話禁止。軍医に厳命されて、声を出せなかった冬と春。

筆を取った。

今度は、私の番だった。同じ紙の上、ルーカス様の字の下に、続けて書いた。

『八年前、この筆談を、私にしてくれていたら』

ルーカス様の目が、紙の上で、止まった。

しばらく、動かなかった。

それから、筆を取り直した。少し、迷う手つきだった。書き出そうとしてためらって、一度紙から離して、それから、覚悟を決めたように、下ろされた。

『……できなかった』

一呼吸、置いて、もう一行。

『怖かった』

怖かった。

この人の口から、いや、手から、「怖かった」という言葉が出てきたのは、たぶん、私が知る限り、初めてのことだった。軍人が「怖かった」と書くのは、軍人が泣くのと、同じくらい重いことのはずだった。

私は、筆を取って、静かに書いた。

『何が、怖かったんですか』

ルーカス様の筆が、止まった。

長い沈黙があった。

燭台の芯が、じじっ、と小さな音を立てた。風。雪。それ以外は、何もない部屋だった。

ルーカス様の指が、ゆっくりと、動いた。

『お前に、無愛想な男だと思われたまま終わるのが』

紙の上に、その一行が、しっかりと、出た。

息。

止まった。

というより、吸い方と吐き方が、一瞬、ばらばらに散らばった。

(……それ、だけ?)

(それだけのこと? 八年も)

(八年も、それだけのことを)

(ずるい)

(ずるい、ずるい、ずるい)

言葉になっていなかった。頭の中で、「ずるい」という音だけが、ぐるぐる回っていた。ずるいのは、私のほうなのに。勝手に決めつけて、勝手に嫁いで、七年、別の男の帳簿を書き続けていた私のほうが、よほど、ずるいのに。

私は、筆を持ったまま、ルーカス様の顔を見た。ルーカス様は、紙を見ていた。顔を上げられない、というのが正しかった。今、自分が書いた一行を、自分で確認するのが怖い、というような顔だった。

涙が、先に落ちた。

筆を持っていた手が動かなくて、頬を拭えなかった。涙が一粒、紙の上に落ちた。書いたばかりの字のすぐ隣で、インクが、少しだけ滲んだ。

拭わなかった。拭けば、この一行が、これから先、滲みのない紙として残ることになる。滲んだまま、残ればいい、と思った。

筆を、握り直した。

震える手で、短く、書いた。

『終わらなかったです』

ルーカス様が、紙を見た。

その下に、もう一行、足した。

『今も、始まったばかりです』

私の字のほうが、彼の字より少し滲んでいた。涙が、まだ少しだけ、紙の上に落ちていた。

ルーカス様の指が、そっと、私の筆を持つ手に、触れた。

冷たくは、なかった。もう、冷たくなかった。

翌朝。

ルーカス様は、まだ眠っていた。昨夜の筆談の紙は、枕元の机の上に、広げたままになっていた。涙の跡が、乾いて、薄い輪になっていた。

寝室をそっと出ると、廊下でハンネスさんが待っていた。

「セレナ殿、王都から……これ、直接、王家の便で」

差し出されたのは、厚い封筒だった。紋章は、王家のもの。ただし、公式な行政の紋ではなかった。もう一つ別の小さな紋が、片隅についている。王妃陛下ご自身の、個人紋。

「……王妃陛下から?」

「はい。今朝、早便で」

封を切った。

便箋は、一枚だけだった。でも、筆跡が、印刷でも代筆でもなかった。王妃陛下ご自身のお手の字だと、上等な女性文字の癖で分かった。

文面は、短かった。

『ヴァイス伯爵夫人候補 セレナ様へ。

年末慈善会へのご出席を、個人的にお願い申し上げます。

当日、王家公式記録に関して、皆様の前でお伝え申し上げたいことがございます。ご一同、ご臨席賜れば幸いです。

王妃』

その下に、個人の封蝋。

「……ハンネスさん」

「はい」

「ルーカス様が起きたら、お見せします。でも、今は、もう少しだけ、寝かせておいて」

「了解です」

私は、招待状を胸に当てたまま、寝室のほうを見た。扉の向こうで、雪の降る音がしていた。静かに。

(……もう少しだけ、お休みになってください)

声には出さなかった。出さないのは、今日は、私も同じだった。