作品タイトル不明
第9話「帰る場所」
辺境に向かう馬車の中で、ミレーユは自分の心臓がうるさいことに気づいた。
街道の景色が、王都の石造りから木造の農村に変わり、やがて森と丘陵になっていく。
十日前にも通った道だった。
王都へ向かう時は、枢密院のことで頭がいっぱいだった。
今は違う。
馬車が辺境に近づくたびに、胸の奥が騒ぐ。
戻って来てくださいますか。
あの夜の声が、また蘇る。
馬車の揺れに合わせて、何度も。
ミレーユは窓の外に目を向けた。
初夏の風が、森の梢を揺らしている。
王都での用事は全て済んだ。
補償は認められ、名誉は回復された。
父は「そうか」とだけ言って、娘を送り出した。
もう、王都に自分を縛るものはない。
では、なぜ辺境に戻るのか。
孤児院の経営はまだ途上だ。子どもたちが待っている。それは事実。
けれど、本当にそれだけだろうか。
ミレーユは自分の手を見た。
膝の上で、指が落ち着きなく動いている。
十年間、こんなことはなかった。
どこに向かう時も、何をする時も、手は静かだった。
やるべきことをやる。それだけだった。
今は、やるべきことの先に、会いたい人がいる。
その認識が胸を叩いた瞬間、ミレーユは窓の外に顔を向けたまま、唇を引き結んだ。
ベルフォンテーヌの街が見えてきた。
低い城壁。気さくな門番。
馬車が辺境公爵領に入る。
孤児院の前を通り過ぎた時、子どもたちの声が聞こえた。
馬車が辺境公爵邸の門の前で止まった。
護衛騎士が扉を開ける。
ミレーユが馬車を降りた。
門の前に、セドリックが立っていた。
簡素な上着に、いつもの穏やかな佇まい。
風が栗色の髪を揺らしている。
ミレーユの心臓が、大きく鳴った。
セドリックが一歩、前に出かけた。
そして、止まった。
足が、途中で止まっていた。
ミレーユは自分から歩み寄った。
護衛騎士の前を通り過ぎ、門をくぐり、セドリックの前に立った。
深く、一礼した。
「ただいま戻りました、殿下」
声は穏やかだった。
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。
セドリックの唇が開いた。
「──おかえりなさい」
声が震えていた。
小さく、けれどはっきりと。
ミレーユは顔を上げた。
セドリックの目が、潤んでいた。
泣いてはいない。けれど、ぎりぎりの目だった。
ミレーユの胸が、締まった。
この人は、待っていてくれたのだ。
門の前で、ずっと。
孤児院に向かうと、子どもたちが走って出てきた。
「おかあさん!」
「おかあさんおかえり!」
小さな手が、次々とミレーユに伸びる。
腕に、腰に、スカートに。
ミレーユは子どもたちの頭を撫でながら、答えた。
「ただいま」
その声が、十年間で一番穏やかだったことに、自分で気づいた。
王都の書斎で徹夜していた夜も、夜会で微笑みを保っていた時も、婚約破棄を告げられた広間でも、こんな声は出なかった。
ここが、自分の場所なのだ。
孤児院のためでも、セドリックのためでもなく。
自分がここにいたいから。
初めて、そう思えた。
翌朝。
辺境公爵邸の書斎で、ミレーユは一通の書簡を受け取った。
差出人は、王太子府。
封蝋にルヴェリア王家の紋章が押されている。
ミレーユは封を切った。
エドワールの筆跡だった。
力任せで、読みにくい字。十年間、何度も見た筆跡。
「ミレーユ。戻って来い。お前の能力が必要だ」
それだけだった。
宛名に敬称はなく、依頼の体裁すら整っていない。
命令だった。一方的な、いつもの口調。
ミレーユは書簡を机の上に置いた。
胸の奥で、古い習慣が囁いた。
応じるべきだ。要請があったのだから。
十年間、その声に従ってきた。
エドワールが求めれば、応じた。それが婚約者の務めだと思っていた。
ミレーユは息を吸い、吐いた。
もう終わったことだ。
ペンを取った。
便箋を一枚、引き出す。
迷いはなかった。
「殿下
殿下のお望み通り、十年分はお返しいたしました。 わたくしが殿下に差し上げるものは、もうございません。
ミレーユ・ブランシャール」
短い返信だった。
封をして、机の端に置いた。
手に、震えはなかった。
十年間の最後の糸が、静かに切れた。
ミレーユは椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
孤児院の方角から、子どもたちの声が聞こえる。
もう振り返らない。
返信を出した後、孤児院の庭に出た。
子どもたちが駆け寄ってくる。
「おかあさん、あのね、菜園のかぶがこんなに大きくなったの!」
「まあ、本当。立派に育ちましたね」
ミレーユが微笑むと、子どもたちが嬉しそうに笑った。
少し離れた場所で、セドリックが庭を見ていた。
ミレーユが来たことに気づいて、穏やかに微笑んだ。
ミレーユはその笑顔を見た。
胸の奥が、温かかった。
ここにいる。
この場所で、この人たちと。
それが、自分の選んだ答えだった。
その夜。
ミレーユは辺境公爵邸の書斎で、一人だった。
帳簿を閉じ、ペンを置いた。
窓の外に、辺境の夜空が広がっている。
星が見えた。王都に戻っている間、見られなかった空。
ミレーユは頬杖をついた。
セドリックの横顔が浮かんだ。
門の前で待っていた姿。震えた声。潤んだ目。
庭で子どもたちを見ていた穏やかな笑顔。
指先が、無意識に唇に触れた。
ミレーユはその手の動きに気づいて、止めた。
「……これは」
呟きが、静かな書斎に落ちた。
胸の奥にある名前のない感覚。
ずっと、名前をつけずにいた。
業務上の信頼だと思った。依頼主への敬意だと処理した。
けれど、信頼や敬意では説明のつかないものが、ここにある。
馬車の中で心臓が騒いだこと。門の前で一歩目を自分から踏み出したこと。震えた声を聞いた時に胸が締まったこと。
ミレーユは目を閉じた。
名前をつけかけて、やめた。
まだ、もう少しだけ。
この感覚を、このまま抱えていたかった。
翌朝。
朝食の席で、セドリックがミレーユに声をかけた。
「ブランシャール嬢。少し、二人で話したいことがあります」
穏やかな声だった。いつもと変わらない。
けれど、目が少しだけ真剣だった。
ミレーユの心臓が、大きく鳴った。
「……はい、殿下」
声は平坦に保った。
保てたと、思った。
王都。王太子府。
エドワールの机の上に、ミレーユからの返信が届いた。
封を切る。
短い文面を読み、エドワールの手が止まった。
わたくしが殿下に差し上げるものは、もうございません。
エドワールは書簡を握りしめた。
紙が皺になり、インクが掌に移った。
その時、執務室の扉が叩かれた。
リゼットが入ってきた。
いつもの明るい表情ではなかった。
「殿下、わたし、少し実家に帰ります」
エドワールの手が、止まった。
「なぜだ」
声が硬かった。
リゼットは微笑もうとした。うまくいかなかった。
「少し、考えたいことがあるのです」
「何を考えるんだ。ここにいればいい」
リゼットは答えなかった。
ただ深く頭を下げて、部屋を出ていった。
エドワールは握りつぶした書簡を見下ろした。
ミレーユの筆跡。丁寧で、簡潔で、一字の乱れもない字。
十年間、自分の名前の下に隠れていた字だった。
執務室に、誰もいなくなった。