軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話「名前を呼ぶ声」

辺境の空に、夏の入道雲が白く立ち上がっている。

馬車が街道を進むたびに、窓の外の景色が王都の石造りから森と丘陵に変わっていった。十日間の旅路。見慣れた道だった。

ベルフォンテーヌの城壁が見えた時、ミレーユは自分の手が膝の上で握られていることに気づいた。

馬車が辺境公爵邸の門の前で止まった。

護衛騎士が扉を開ける。

ミレーユが降りた。

門の前に、セドリックが立っていた。

簡素な上着。穏やかな佇まい。風が栗色の髪を揺らしている。

以前と同じ構図だった。

枢密院の審議を終えて辺境に戻った時も、セドリックはここに立っていた。

けれど、今のミレーユの心臓は、あの時とは違う速さで鳴っていた。

父の前で、大切な方だと言った。

母の肖像画の前で、自分が笑えるようになったことを知った。

そしてセドリックの問いへの答えを、胸の中に持って帰ってきた。

ミレーユは門をくぐり、セドリックの前に立った。

セドリックの顔色が目に入った。

白かった。

出発前より、さらに白い。唇の色が薄く、目の下にうっすらと影がある。

暑さが続いている。この人にとって、夏は一番堪える季節だ。

ミレーユの胸に、不安が刺さった。

けれど、今は先に言わなければならないことがある。

「ただいま戻りました」

声は穏やかだった。

セドリックが微笑んだ。

「おかえりなさい」

その声は静かで、温かかった。

ミレーユは息を吸った。

「セドリックさま。お返事をお伝えしてもよろしいですか」

セドリックの目が、わずかに見開かれた。

門の前で訊いた問い。名前で呼んでいいか、と。

覚えている。忘れるはずがない。

ミレーユの喉が、詰まった。

声が出ない。

心臓が喉の奥で暴れている。

公爵令嬢が王族に対して「さま」を外す。それは、この世界の礼節を自分から崩す行為だった。

対等な関係を、自分から望むということだった。

十七年間、誰にも対等を求めなかった。

婚約者だったエドワールに対してすら、「殿下」と呼び続けた。距離を保ち、義務を果たし、感情を閉じた。

今、自分からその壁を越えようとしている。

ミレーユは口を開いた。

「"ミレーユ"とお呼びください」

声が震えた。

「ただし、わたくしも」

セドリックの目が見開かれた。

耳が、赤くなった。

唇が開いたが、声が出ていなかった。

ミレーユは続けた。

「──セドリック」

さまが、ない。

ただの名前だった。

声に出す直前、喉が詰まった。それでも、押し出した。

その名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが外れた。

十七年間閉じていた蓋ではない。もうあの蓋は、あの日の告白で軋み、涙で緩んでいた。

今外れたのは、もっと奥にあったもの。

自分から求めることへの恐怖。

対等でいたいと望むことへの躊躇。

それが、名前と一緒に声になって出ていった。

セドリックは数秒、動かなかった。

耳が赤いまま、目が大きく開いたまま、ミレーユを見つめていた。

やがて、口が動いた。

「……ミレーユ、嬢」

声がかすれていた。

ミレーユの口元が、微かにほころんだ。

「"嬢"がつきましたね」

セドリックの耳がさらに赤くなった。

「もう少しだけ、お時間をください」

それは、あの告白の日にミレーユが言った言葉だった。

「さま」を外すのに時間が要ったように、「嬢」を外すにも時間が要る。

ミレーユにはそれがわかった。

二人で笑った。

門の前で、夏の風に吹かれながら。

ミレーユは笑いながら、無意識にセドリックの袖を掴んでいた。

指先が布を握っている。

気づいて、手を離そうとした。

「そのままで」

セドリックが小さく言った。

ミレーユの手が止まった。

指先が布を握ったまま、二人は門の前に立っていた。

孤児院に向かうと、子どもたちが走り出てきた。

「おかあさん!」

「おかえり!」

小さな手が次々と伸びてくる。腕に、腰に、スカートの裾に。

ミレーユは子どもたちの頭を撫でながら、「ただいま」と答えた。

最年少の男の子がミレーユの手を握った。

「おかあさん、あのね、セドリックさまがね、おやすみしないで荷物をいっぱい見てたんだよ」

ミレーユの手が止まった。

男の子を見下ろし、それからセドリックを見た。

セドリックは子どもたちに囲まれたまま、視線を逸らした。

午後。孤児院の庭に、荷馬車が到着した。

モンフォール伯爵領からの最初の物資だった。

木材。穀物。鉄製品。

荷が下ろされるたびに、世話役の女性が目を丸くした。

「こんなに……」

「伯爵との契約が正式に成立しました。今後は定期的に届きます」

ミレーユは荷の目録と実際の数量を照合しながら、一つずつ確認していった。

木材の品質は良好。穀物の量は契約通り。鉄製品も農具の修繕に使えるものが揃っている。

辺境領の冬支度に、見通しが立った。

孤児院の屋根の修繕も、これで始められる。

子どもたちが荷馬車の周りに集まってきた。

「すごい! いっぱいある!」

「これで屋根なおせるの?」

「ええ。もう桶を並べなくてよくなりますよ」

子どもたちが歓声を上げた。

その声を聞きながら、ミレーユはセドリックの方を見た。

セドリックは荷の確認を手伝おうとしていた。木材の束に手をかけ、数を数えている。

額に汗が浮いている。呼吸が浅い。

「セドリックさま」

声をかけた。呼称が戻っていた。人前では、まだ「さま」がつく。

「荷の確認はわたくしがいたします。中でお休みになってください」

セドリックは首を振った。

「大丈夫です。もう少しだけ」

その声は穏やかだったが、息が続いていなかった。

ミレーユは口を閉じた。

今は言っても聞かないだろう。この人は静かに見えて、譲らない時は譲らない。

けれど、目は離さなかった。

修繕作業が始まった。

伯爵領から届いた木材を使い、職人たちが孤児院の屋根に取りかかる。

セドリックは現場を見回っていた。

職人への指示は世話役や使用人が出しているが、セドリックは自分の目で進捗を確認したがった。辺境公爵として、この場所を守ってきた人だった。

けれど、見回りの途中で何度も立ち止まった。

木陰のベンチに座り、息を整えている。

立ち上がって数歩歩き、また止まる。

額の汗を拭う回数が増えていた。

ミレーユは書類の整理をしながら、その姿を視界の端で追っていた。

留守の間に、無理をしていた。

子どもが教えてくれた通りだった。

物資の到着を確認し、修繕の準備を進め、全てミレーユが戻った時にすぐ動けるようにしていたのだろう。

この暑さの中で。この身体で。

夕方。

空が赤く染まり始めた頃、セドリックは庭の端を歩いていた。

ミレーユは書類を閉じて、後を追った。

セドリックの足取りが、ふらついた。

右に傾き、一歩が遅れた。

ミレーユの手が、セドリックの腕を掴んだ。

手が、熱かった。

服の上からでもわかる熱さだった。

「セドリック」

さまが、抜けた。

声が硬かった。

セドリックが顔を上げた。

ミレーユの顔を見て、小さく笑おうとした。

「少し、暑さに──」

「今日はお休みになってください」

ミレーユの声は静かだったが、指はセドリックの腕を離さなかった。

セドリックは口を開きかけ、閉じた。

ミレーユの目を見た。

その目に浮かんでいるものを読み取ったのだろう。

「……わかりました」

セドリックが頷いた。

ミレーユはセドリックの腕を支えたまま、屋敷に向かって歩き出した。

セドリックの体温が、掴んだ腕から伝わってくる。

高い。

明らかに、高かった。

ミレーユの胸の奥で、不安が影を落とした。

王都。王宮の国王執務室。

エドワールは扉の前に立っていた。

呼び出しを受けたのは、今朝のことだった。

国王の執務室に入るのは、久しぶりだった。

扉を開けた。

広い部屋だった。窓から午後の光が差し込み、机の上の書類を白く照らしている。

国王が机に向かっていた。

机の上に、物流崩壊の報告書と枢密院の議事録が広げられていた。

エドワールは国王の前に立ち、一礼した。

「お呼びでしょうか、父上」

国王はペンを置いた。

エドワールを見上げた。

「お前の領地の問題が、辺境にまで影響を及ぼしている。お前はそれを知っているのか」

声は静かだった。

エドワールの喉が動いた。

「辺境のことは、兄上の──」

言いかけた瞬間、国王の手が机を叩いた。

音が、執務室に響いた。

書類が跳ね、インク壺が揺れた。

エドワールの身体が強張った。

国王の目が、息子を射抜いていた。

「お前の兄は、お前が壊したものを辺境で拾い集めているのだ。それをわかって言っているのか」

声は穏やかだった。

穏やかなまま、冷たかった。

エドワールは答えられなかった。

口が開いたが、声が出なかった。

国王は机の上の報告書に手を置いた。

「外交書簡の問題。物資供給の崩壊。社交界の混乱。全てが枢密院を通じて報告されている」

一つずつ、事実が並べられた。

「王家の名に傷をつけたのは、お前自身だ」

エドワールの顔が蒼白になった。

唇が震えていた。

国王は立ち上がらなかった。座ったまま、息子を見上げていた。

「お前が捨てた者の能力を、今さら求めるな。まず自分の足で立て」

その言葉が、エドワールの胸に落ちた。

反論は出なかった。

怒鳴ることもできなかった。

父王から直接、こう言われたのは初めてだった。

エドワールは深く頭を下げた。

声は出なかった。

頭を下げたまま、退室した。

廊下に出た。

足が重かった。

窓から、夏の光が差し込んでいる。

明るい廊下に、エドワールの影だけが長く伸びていた。