軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話「十年の返却」

「お前に費やした十年を返せ」

王太子エドワールの声が、夜会の広間に響き渡った。

シャンデリアの灯りが揺れる。 百を超える貴族たちの視線が、一斉にミレーユへ集まった。

グラスを置く音すら消えていた。 楽団の演奏も、いつの間にか止まっている。

エドワールは玉座に近い壇上から、ミレーユを見下ろしていた。 その傍らに、淡い金髪の令嬢がひとり。 リゼット・ノワール。 ノワール公爵家の次女は、困惑した顔でエドワールの袖を掴んでいた。

「殿下、こんな場所で──」

リゼットの小さな声は、エドワールに届いていない。

「十年だぞ、ミレーユ」

エドワールは階段を一段降りた。 近衛騎士が影のように従う。

「俺がお前にどれだけの時間を使ったと思っている。婚約の準備、社交界への紹介、王妃教育の手配──全てが無駄だった」

広間の空気が、冷えていく。

ミレーユは壇の下に立っていた。 背筋は真っ直ぐだった。 両手は、スカートの前で重ねたまま動かない。

エドワールの目が、怒りで細くなる。

「本日をもって、お前との婚約を破棄する」

ざわめきが走った。 扇で口元を隠す夫人。目配せを交わす侯爵たち。 壇上のリゼットが、唇を噛んで顔を伏せた。

そして──笑い声。

エドワールの取り巻きの貴族たちが、追従するように口元を歪めた。

「十年も殿下のお傍にいて、お気に召されなかったとは」 「ブランシャール家の令嬢ともあろう方が、よほどの落ち度が──」

囁きが、毒のように広間を満たしていく。

ミレーユは、微笑んだ。

いつもと同じ、完璧な微笑みだった。 頬の角度も、唇の弧も、十年間で一度も崩れたことのないそれ。

「──わかりました、殿下」

声は静かだった。 震えてはいなかった。

ミレーユは深く、しかし過不足のない角度で頭を下げた。 公爵令嬢が王太子に対して取るべき、正確な礼。

「十年分、確かにお返しいたします」

顔を上げたとき、微笑みは変わらなかった。

エドワールが一瞬、眉をひそめた。 何かが引っかかったような顔だった。 だが、すぐにリゼットの方を向いた。

ミレーユはそれ以上、何も言わなかった。 踵を返し、広間を出た。

背中に視線が刺さる。 同情、蔑み、好奇心。 どれも等しく、肌の上を滑っていった。

夜会場の廊下を、護衛騎士が二人、無言で付き従う。

馬車に乗り込み、扉が閉まった。 車輪が石畳を叩き始める。

ミレーユは背もたれに身を預けた。 窓の外を、街灯が流れていく。

胸の奥に、何がある。 怒りではない。 悲しみとも違う。

もっと冷たくて、広くて、底のないもの。

五歳のあの夜と同じだ、と思った。

母の手が冷たくなっていくのを握りながら、泣かなかった夜。 泣いても仕方がない。 泣いても母は戻らない。 だから泣かない。

馬車が揺れる。 ミレーユは目を閉じた。

泣かない。 今日も泣かない。 やるべきことをやる。

ブランシャール公爵邸に着いたのは、夜半を過ぎた頃だった。

玄関広間に、父が立っていた。

ギヨーム・ブランシャール。 四十八の顔に刻まれた皺は、今夜さらに深くなったように見えた。

ミレーユは父の前で足を止め、いつもと変わらない声で告げた。

「お父様。殿下がわたくしとの婚約を破棄なさいました」

ギヨームの表情は動かなかった。 だが、組んでいた腕がわずかに強張った。

「……聞いている。使いの者が先に戻った」

「補償交渉の件は、お父様にお任せしてよろしいですか」

ギヨームは娘を見つめた。 静かで、乱れのない目。 妻を亡くした翌朝にも、この子はこうだった。 五歳の小さな手で自分の服を畳みながら、「お父様、朝ごはんはどうするの」と訊いた。

喉の奥が詰まるのを、ギヨームは飲み込んだ。

「当然だ。枢密院に正式な請求を出す。婚約準備費用の返還、逸失利益、名誉回復措置──全てだ」

「ありがとうございます」

ミレーユは一礼した。 そして、少しだけ間を置いて続けた。

「わたくしは、殿下のお望み通りにいたします」

ギヨームの眉が動いた。

「望み通り、とは」

「十年分をお返しするのです」

その声に、初めてかすかな温度が混じった。 怒りではない。 決意だった。

「おやすみなさいませ、お父様」

ミレーユは微笑んで、階段を上がっていった。

ギヨームはしばらく、娘の背中を見送っていた。 やがて、誰もいなくなった玄関広間で、低く呟いた。

「……あの男は、取り返しのつかないことをした」

書斎の扉を閉めると、ミレーユは微笑みを解いた。

ランプに火を入れる。 椅子には座らず、まず棚に向かった。

十年分の記録が、そこにあった。

社交人脈の管理台帳。 ミレーユが仲介し、維持してきた貴族間の関係図。 誰と誰を引き合わせ、どの夫人にどの時期に書簡を送り、どの茶会に誰を招くべきか。全てがミレーユの筆跡で記されている。

外交書簡の控え。 エドワールの名義で各国に送られた書簡の下書き。 文面を起草したのは、全てミレーユだった。 エドワールは署名するだけだった。

物資供給契約の仲介記録。 王太子領の穀物・木材・鉄の供給を支える契約群。 ブランシャール家の信用と人脈を使い、ミレーユが交渉し、維持してきたもの。

十年間。 誰にも気づかれず。 婚約者として当然の義務だと、自分でもそう思い込んで。

ミレーユは台帳を開き、白紙の便箋を引き出した。

まず、社交人脈への通知。 ミレーユが仲介していた貴族夫人たちへ、婚約解消に伴い今後の連絡窓口が変更される旨を伝える書簡。丁寧で簡潔な文面。個別に宛名を変え、それぞれの夫人との関係性に合わせた一文を添える。

次に、外交書簡の代筆停止通知。 王太子府の書記官宛。今後、ブランシャール家からの書簡起草の協力は行わない旨を、事務的に記す。

最後に、物資供給契約の解除通知。 関係する商会と仲介元への連絡。ブランシャール家の信用保証を撤回する手続き。

ペンが紙の上を走る。 淀みなく、止まることなく。

前世──桐島美鈴としての十五年間が、指先を動かしていた。 国際NGOの事務局長として、紛争地の物資調達を組み、各国政府との交渉書簡を何百と起草し、撤退時の引き継ぎ文書を幾度も作った。

撤退の段取りなら、誰よりも知っている。

窓の外が白み始める頃、最後の一通に封をした。

机の上に、発送用の書簡が整然と並んでいる。 二十三通。

ミレーユはその隣に、もう一つの束を置いた。 十年分の業務目録。 自分が何をしてきたか、全ての記録。

書簡は今朝、使用人に託して一括で発送する。 業務目録だけが、自分の手元に残る。

ミレーユは椅子に深く腰を下ろした。 ランプの灯が揺れている。

十年間、わたくしがしていたこと。 殿下はご存じないでしょうね。

指先が、少しだけ冷えていた。

泣かない。 今日も、泣かない。

やるべきことは、やった。

朝の光が書斎に差し込む頃、使用人が書簡の束を受け取り、出ていった。

ミレーユは窓辺に立ち、屋敷の門を出る使用人の背中を見送った。

あれが届けば、全てが動き出す。 殿下の周りから、わたくしの十年間が静かに消えていく。

わたくしは何もしない。 ただ、していたことをやめるだけ。

視線を下ろすと、机の上に業務目録が残されていた。 十年間の、誰にも知られなかった仕事の全記録。

ミレーユはそれに軽く指を置いて、離した。

夜会の帰路。

ある侯爵夫人の馬車が、石畳の道をゆっくりと進んでいた。

隣に座る娘に、夫人は扇を畳みながら言った。

「ブランシャール家の令嬢に、あのような場で恥をかかせるとは」

娘が首を傾げる。

「殿下のご判断ですもの、何かお考えが──」

「考えがあるなら、なおのこと」

夫人は窓の外に目を向けた。

「公爵家を公の場で辱めて、何の得がある。あの殿下は、ご自分が何をなさったかお分かりでないのよ」

馬車が角を曲がる。 夜会場の灯りが、闇に遠ざかっていった。

その夜、ミレーユの書斎の机に、一通の手紙が置かれていた。

封蝋はない。 差出人の名もない。

使用人に訊ねると、「夕刻に、見知らぬ使いの者が門番に預けていった」という。

ミレーユは手紙を手に取り、紙を透かした。 紙質は上等だが、王都の主流とは異なる。 インクの色がわずかに赤みを帯びている。 便箋の隅に、小さな透かし模様。

辺境公爵領の紋章だった。

ミレーユは封を切り、文面に目を通した。

短い依頼文だった。

辺境の孤児院の経営を立て直してほしい、と。

差出人の名はない。 だが、この紋章を使える人物は一人しかいない。

ミレーユは手紙を机に置いた。

書簡は、今朝全て発送した。 王都に留まる理由は、もうない。

指先が、便箋の端に触れていた。

発送からわずか半日。まるで、それを待っていたかのような手紙だった。