作品タイトル不明
65.試練の回廊
グレンダリング公爵の城館は、奥へ進むごとに空気が異様に重くなっていった。
厚い絨毯、黒々と鈍く光る調度。ひんやりと冷たい石壁。
すべてが丁寧に整いすぎていて、不自然なほど整然としている。
人の生活感がなく、まるで死者のための館だ。
「どこからか、見られてるみたいでキモチワリィな……」
チャールズの声が、静かな廊下に沈んだ。
ダレンの歩みが、ふと止まった。足取りに力が入らず、身体がゆっくりと沈んでいく。
「……あ、歩けねぇ……」
突然のつぶやきに、皆が振り返る。
だが、何も異常は見えない。
ただダレンだけが、何かと闘っていた。
「な、なんだ……これは……俺の、身体が……っ!」
ダレンの背には汗がにじみ、目は虚空をさまよっている。
両腕を抱くように震え、ぶつぶつと独り言を繰り返していた。
彼の目に映るのは、四肢を失った自分だった。
見るも無残で、辛うじて這うことしかできない姿は芋虫のよう。
耳に響くのは、誰かの嘲りだった。
『でかいだけで何も守れねえ』『太ってきたんじゃねぇか?』『口もきけねえ、食うのも排泄も誰かの世話。情けねえな、ダレン』
『元々は冒険者だったのに』『こんな姿になって、可哀そうね』
好奇の目を隠そうともせず、口先だけで同情する声も耳障りだ。
「やめろ……俺は、こんな……俺は……!」
震える声に、幻が重なった。婚約者の声で。
『守っていただけると信じておりました。しかし、もう……歩けもしない貴方と添い遂げる必要は感じません』
「いっそ、殺してくれ……」
その呻きに、ようやく周囲の仲間たちが顔を見合わせた。
「ダレン……どうかしたのか?」
チャールズが駆け寄ろうとすると、ダレンは身体をこわばらせて後ずさった。
冷や汗に濡れ、肩がひくついている。
「……俺は……もう、要らねえんだ……」
その異様さに、皆がざわめく。
次に異変が訪れたのは、テレンスだった。
青緑の瞳が宙を泳ぎ、焦点が合っていない。
彼の手が震え、やがて肩を抱くように身体を丸めた。
脳裏にまず浮かんだのは、父の険しい目だった。
『家の名に傷がつく。今すぐ出ていけ』
屋敷を追われたあの日。
心の奥に押し込めていた記憶が、炎のように広がる。
隠し通してきたはずだった。
それなのに、なぜ……。
次に響くのは、かつての仲間たちの声だった。
『裏切られた気分だよ』『気持ち悪い。まさかお前が、そんな目で見てたなんてな』
『男のくせに何のつもりだ?』『前から気持ち悪かったぞ』
笑い声がこだまする。
親しかった仲間の顔が歪み、拒絶と軽蔑を投げつけてくる。
「僕が、僕であることが、そんなに悪いのか……」
声にならない声が喉の奥で詰まる。
肩を震わせ、両手で頭を抱えたままテレンスはその場に座り込んだ。
そしてローワン。
彼はしばらく沈黙していたが、次第にその額に玉のような汗が浮かび始めた。
「……っ……嘘だ、こんな……はずじゃ……」
見えていたのは、血に塗れた床。
そして、そこに倒れ伏した乳兄弟の姿。
「お前が……殺したんだろう?また、あの時みたいに……力が暴走して」
幻の彼は、恨めしげにこちらを見つめている。
「違う……俺は……!」
それでも止まらない。
ふと、ローワンの目の前にヴァイオレットが現れる。
湯浴みの後なのか、いつになくしどけない恰好だ。
湧き上がるのは、理性では抑えてきた微かな欲望――彼女に触れたいという、汚れた感情。
「やめろ……やめてくれ……!」
次の瞬間、彼女の瞳に宿るのは恐怖。
そしてその身には、無残な痕跡――彼の暴走の結果が、あまりにもはっきりと刻まれていた。
その混濁が、幻の中で一つに溶け合い、現実と幻の境を曖昧にする。
ローワンの両手が震える。
膝をつき、唇をかみ締め、幻と現実のはざまで崩れそうになる。
その姿を見て、ヴァイオレットの目が見開かれた。
(……もしかして、これは……精神干渉……?)
彼女の中で何かが繋がる。
「この屋敷そのものが、私たちの心に入り込んでいる……グレンダリング公爵のスキルは【精神支配】……!」
ヴァイオレットは杖を構え、魔力を練った。
(このままじゃ、全員やられる……)
地をなぞるように魔法陣が広がり、柔らかな光が仲間たちを包む。
「【精神障壁】!」
霧のような幻が拡散し、重苦しい空気が弾かれた。
光の中で、ダレンが息を呑む。
近くにいたヘンリーがそっと支え、ダレンを座らせる。
彼はまだ呆然としながらも、ヘンリーの肩に身を預け、かすかに震える声を漏らした。
「悪ぃ……少しだけ、こうさせてくれ……」
普段の粗野な態度とは裏腹に、どこか少年のような声音。
男臭い彼が見せるその脆さに、ヘンリーは無言で背を撫でた。
テレンスのそばにはチャールズが寄り添い、優しく背を支える。
彼はチャールズの胸元に顔をうずめ、小さな声で呟いた。
「……こわかった……また全部失うのかと思った……」
彼の柔らかな髪が小刻みに震え、普段の礼儀正しさと凛とした姿からは想像もつかない年相応の弱さがそこにあった。
チャールズは言葉を返さず、ただ彼の背に手を添えていた。
ローワンはうつむいたまま唇をかみ締め、必死に感情を抑えていたが、ヴァイオレットがそっと頬に手を添え、額を寄せると、押し殺していた涙が溢れた。
「……ごめん、ヴァイオレット。俺……俺は……最低だ……」
「何も言わなくていい」
ヴァイオレットは囁き、彼の肩をそっと抱く。
息をつきながら視線を前方へと向けると、漆黒の扉が、彼女たちを待っていた。