軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第38話 "迷宮流し"

オフィスビルが林立する街の一角。

その中でもひと際そびえる高層ビルの最上階に、その部屋はあった。

分厚い防音ドアをくぐると、視界いっぱいに広がるのは豪奢な空間。

深紅の絨毯は柔らかな沈み込みで足音を吸い込み、壁には金縁の油絵や清代の磁器が規則正しく並んでいる。

天井から吊るされた大型のクリスタルシャンデリアは、温かい黄金色の光を放ち、部屋全体を静かな威圧感で包み込んでいた。

部屋の奥、重厚なマホガニーの執務机。

その後ろに据えられた革張りの椅子に、一人の女が腰掛けている。

三十代か四十代、年齢の境目を感じさせない艶やかさを持つ顔立ち。化粧は必要最低限、だが生来の美貌を見事に引き出しており、視線を向けられた者の多くは反射的に息を呑むだろう。

ゆるく波打つ黒髪は後ろでまとめられ、首元には翡翠のペンダント。わずかに視線を向けられるだけで、相手は無意識に背筋を伸ばしてしまうだろう。

その容姿は妖艶という言葉がふさわしいが、今はその艶を曇らせるように眉間に皺が寄っている。

机の上のクラシカルな黒電話からは、怒声が途切れなく響いていた。

「……で、結局あんた、失敗したってことかい?」

受話器越しに響く罵声は、まるで硝子を割るように鋭く耳を刺す。唾が電線を伝って飛んでくるのではないかと錯覚するほどだ。

女は小さくため息をつき、人差し指と中指で眉間を押さえた。

「喧しいね……」

その声色には、相手を下に見ていることを隠そうともしない冷ややかさがあった。

「仕留め損ねたのは事実だろうが。おまけに、保険として持たせた虎の子のカードまで使いやがって。……あれがいくら劣化コピー品だとしても、量産できるシロモノじゃないんだ。簡単に切っていい札じゃない」

『……!! ……!!』

受話器の向こうで、さらに相手の声が荒れ狂う。

女は耳を少し離し、窓の外の夜景へ視線を移した。

街の灯りが彼女の黒い瞳に映り込み、その輝きが冷たい光に変わってゆく。

「はいはい、わかった、わかったよ」

ひらりと片手を振るような口調で、相手の言葉を切る。

「だが、昇格の話は一旦ナシだ。 老大(ラオター) に報告せにゃならん。……あの人が、こんな不始末を聞いて機嫌よく頷くとでも思ってるのか?」

受話器の向こうで、相手の声が急に低くなる。沈黙が数秒。

やがて、短く諦めたような声が返ってきた。

「……そうだ。一旦戻ってきな。しばらくは三層の連中を連れて、大人しく地固めでもしてな」

その言葉で会話は終わった。

女は受話器を置くと同時に、指先で机を軽く叩く。

低く乾いた音が、部屋の中でやけに大きく響いた。

再び静まり返った室内に、分厚い書類をめくる紙の擦れる音がかすかに響く。

豪奢な執務机の前、深く沈み込むソファに腰を下ろしているのは、二十代半ばほどの青年だった。

黒髪を短く刈り込み、動きやすさを優先したカジュアルなスーツをきっちりと着こなしている。

整った顔立ちに掛けられた細縁の眼鏡が、知的な印象を与えるはずなのに、口元に浮かぶ薄い笑みがどこか軽薄さを漂わせていた。

だが、その軽さは表向きの仮面にすぎない。

姿勢こそ崩しているが、周囲の空気を読む視線は鋭く、うかつに踏み込めない近寄りがたさを纏っている。

彼は膝上に置かれた分厚い冊子をぱらぱらとめくりながら、先ほどまで受話器越しの怒声に眉をひそめていた女へ問いかけた。

「……日本に向かわせていた、 黄(ホアン) のやつですか?」

視線は資料から外さないまま、軽い調子の声を投げる。

彼女は一瞬だけむすっとした表情を見せたが、すぐに眉間の皺を薄くし、椅子の背にもたれた。

「ああ、そうさ」

艶のある声が、シャンデリアの下で低く響く。

「妙に“やる”奴がいてね……商売の邪魔になるから、今のうちに“処分”しておけとさ」

その言葉に、青年の手がぴたりと止まる。

眼鏡の奥の視線が、ゆっくりと資料から外れて女に向けられた。

「──で、それがうまくいかなかった、と?」

今度は軽い響きが消え、わずかに温度を失った声色が室内に落ちる。

女はゆったりとした動きで脚を組み替え、肘掛けに腕を預けながら答えた。

「……いや、一応はうまくいったさ。ただ、 黄(ホアン) が先走りやがった。危うく返り討ちのところを何とかしたとさ──“迷宮流し”でね」

低く、湿り気を帯びた声が室内に落ちる。

「あれで、少なくとも、今まで帰ってきたやつはいない」

その言葉を受けて、青年の眼鏡の奥の瞳がわずかに光った。

資料を閉じ、指先で表紙を軽く叩きながら呟く。

「なるほど……こないだも、 龍(ロン) のところのやつを“流した”ばかりでしょう」

ずい、と青年がソファの背から腰を浮かせ、わずかに身を乗り出す。

その動きは柔らかくも、相手の反応を探る肉食獣のような間合いだった。

女は眉尻をわずかに下げ、苦笑にも似た表情で応じる。

「……あっちは必要経費さね。なんたって護衛連中が五万といる中だから」

机の引き出しを探り、漆黒のキセルを取り出す。

「鉄砲玉したって、たかが知れてるさ」

短く吐き出された言葉のあと、彼女は火皿に種火を落とし、ゆるやかに煙草葉を炙った。

紫煙がふわりと立ち上り、シャンデリアの灯りをぼんやりと霞ませる。

その煙を、青年は視線だけで追った。

「……ですか」

間を置き、声色を低く落として続ける。

「とはいえ、こうも毎回だと困りますよ、 大姐大(タージエダー) 」

目を細め、凄みを帯びた視線を投げる。

だが、女は煙をゆったりと吐き出し、まるでその視線を煙ごと受け流すかのように言った。

「わかってるさ。──最近は外も騒がしいからね。無茶はほどほどにしておくよ」

青年はしばし黙し、その言葉の裏を測るように女の表情を探った。

やがて、一応の納得を得たのか、小さく頷く。

再び分厚い資料を膝に乗せ、無言でページをめくり始めた。

* * *

──目が覚める、というより、ほんの一瞬、視界を覆い尽くした白い閃光がすっと引いていった感覚だった。

まぶたを開けた時、そこにあったのは──さっきまでの鬱蒼とした森じゃなかった。

目の前にいたはずの、あの怪しいフード姿の人物も消えている。

宝箱も、影も形もない。

あまりの変わりように、思わず瞬きを繰り返し、チカチカとまだ残る残光を指先でこすった。

「……海?」

言葉が、自分でも驚くほど間抜けに漏れる。

そこには、見渡す限りの白い砂浜が広がっていた。

真昼の太陽が照りつけ、砂の一粒一粒が光を反射して目を刺す。

ゆったりと押し寄せては返す波が、規則正しい音を奏で、足元の砂をさらっていく。

潮の香りが鼻をつき、湿った風が髪を乱した。

振り返ると、背後には森──いや、先ほどの鬱蒼とした針葉樹の森ではない。

葉の形が大きく、色も濃く、南国の絵葉書で見たような植生の木々がこんもりと生い茂っている。

幹の間を縫うように、何本ものツタが垂れ下がっていた。

波風にあたり続けていると、肌に塩気がまとわりつくような、べたついた感覚がじわじわ広がる。

思わず袖口で頬をぬぐった。

──何がどうなってる?

ひとまず、この眩しい砂浜のど真ん中に立ち尽くしていても仕方がない。

近くの木陰を見つけ、足を向けた。

まずは、ここがどこなのか──そして、どうやってここに来たのか、頭を整理しないと。

幸い──背負っていたバックパックは無事だった。

中身をざっと確認する。水筒、保存食、ロープ……ひと通り揃っている。

武器も腰に収まっており、刃こぼれもない。

どうやら、あの光でどこかに飛ばされたとしても、装備や荷はそのままらしい。

先の戦闘で受けた切り傷や打撲が、まだ体のあちこちに残っている。

じんわりと鈍い痛みが脈打つたび、意識がそこに引き戻された。

このままでは動きが鈍る──そう判断し、掌を患部にあて、治癒魔法を発動する。

微かな温もりが皮膚の奥へと染み込んでいき、痛みが霧のように薄れていった。

完全回復とはいかないが、これで十分動ける。

一応回復薬もあるが、この先どんな状況になるか分からない。使わずに温存しておく方がいい。

ふう、と息をつき、改めて周囲に目をやる。

正面には、どこまでも続く蒼い水平線。

陽炎の向こうに陸地らしき影は一切見えない。

ただ波音だけが、規則正しく耳に届く。

──ふと、思いたつ。

足に力を込め、試しに軽く跳んでみた。

次の瞬間、身体が大きく浮き上がり、視界が一気に高くなる。

着地の衝撃を吸収しながら見あげると、飛び上がった高さはざっと三メートル。

「……やっぱり、ステータスはそのままか」

つまり、この場所は迷宮の影響下にあるということだ。

モンスターが出てくる可能性も十分にある。

浮つきかけた気持ちを押さえ込み、進むべき方向を考える。

森の方に向かうのは躊躇われた。

密集した木々に視界を奪われた瞬間、何が潜んでいるか分かったもんじゃない。

ならば、まずは海岸線沿いに歩いてみよう。

ぐるりと回れば、ここが島なのかどうか、ある程度は見えてくるはずだ。

もしも完全な孤島なら、それはそれで対策を立てなきゃならない。

──もちろん、食料の確保も頭に入れておく。

迷宮内だから、普通の海産物や果実がある保証はない。

あったとしても、食べられるかどうかは未知数だ。

まあ、最悪はポイント交換で携帯食料(最下級)を出せばいいが……あれは、正直、味に期待はできない。

腹は満たせても、心は一ミリも満たされない。

歩く前に、着ていた長袖シャツを脱いでバックパックにしまい込む。

潮風でほんのり湿った生地が肌に貼りつくのが煩わしかった。

深呼吸して気持ちを切り替える。

「よし」

小さく声を出し、木陰から一歩踏み出す。

瞬間──、じわり、と肌を焼くような熱が降り注いだ。

太陽は真上に近く、光は白く、砂浜の反射が容赦なく目を刺す。

額に汗が浮き、鼻の奥に潮と熱砂の匂いが混ざってくる。

「……迷宮内で日焼けとかしたら、笑い話にもならんな」

ぼやきつつ、手のひらで額を覆い、日差しを睨む。

「南の方の連中は、日焼けしないように長袖を着るって聞くけど……この暑さじゃ、長袖の方が先に俺を殺しそうだ」

波音とよくわからない虫の声が混ざり合う中、俺は足跡を残しながら海岸を歩き始めた。