軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

おとうと②

「それでも」

と、ようやくフィリクスは言った。

「俺は彼に会いたいんだ」

もはやたった一人の家族なのだから。

ヴァルシャード将軍は沈黙したままである。彼はどうにかフィリクスを説得しようと、アミラコムに帰らせようと思案しているようだった。だが、ついに彼は諦めた。

「……あるいは、あなた様であれば若君の御心を変えることもできるやもしれませんな」

重苦しい溜息をつき、将軍はその巨大な身体で歩き出す。フィリクスは後をついていく。ごく幼少の頃、侍従や騎士を従えた皇帝グリアリスの後をこうして追ったことを思い出した。翻る父の白貂のマントはしみひとつなく、冴え冴えと整った横顔は彫刻のように綺麗だった。

一瞬だけフィリクスは息を呑んだ。その人はもうどこにもいないのだ。本当に? どうやら本当らしい。父は母と一緒に殺されて、もういない。

「ヴァルシャード将軍、教えてくれ。父上様は勇敢に戦ってお亡くなりになったのか?」

ぴたりと将軍の足が止まる。城壁の内部へさらに潜る、おそらく隠し通路の入り口だった。壁の模様に偽造された扉を半分開けたまま、皺がれた声が静かに言った。

「いいえ。――エミリオ・カヴィルの襲撃は突然でしたゆえ。謁見の間で、皇后陛下に贈り物があると奴はいい、玉座の傍近くまで勝手に歩いたのです。陛下がお止めなさいませんでしたため、衛兵も止めることなく……。私も、油断いたしました」

彼は振り返り、フィリクスへ深々と頭を下げた。

「まことに申し訳ございません。あなた様のご両親は、私の手落ちによりお亡くなりになったのです」

「いや。いいんだ」

フィリクスはそっと、大男の手を取った。彼らの手はどこか似ていた。同じ位置に剣ダコがあり、同じように皮が分厚い。大昔に剣の稽古をつけてくれたのがこの男であればよかったのに。ヴァルシャード将軍と個人的に絆を結んでみたかった、とフィリクスは思った。

「いいんだ。陛下はエミリオを咎めるまい。殺されてしまったなら仕方がないと笑っておいでだろうよ」

将軍は顔を皺くちゃにしてどうにか笑ってみせた。まだ胸が痛むのだというのが手に取るように伝わってくる。フィリクスも同じだ。見えない部分がじくじくと痛む。

「それに、皇后陛下はきっと今頃冥府の石の椅子の上でエミリオを庇っておいでだろうし」

「は、は、は。左様。違いありませんな」

それから二人は城壁の中の曲がりくねった道をもくもくと進んだ。会話はなかったが気づまりではなかった。

右に左に、道は続く。おそらく平衡感覚を狂わせる目的で坂になり、階段になり、フィリクスは自分がどこをどう歩いているかわからなくなった。思えばオルシャリムを訪れるのは初めてである。慣れている者でもこれで道を覚えるのはきついだろう。彼は腹を括って将軍の背中をひたすら追う。

時間の感覚が麻痺した頃、ようやく隠し通路は終わった。ヴァルシャード将軍が壁の一部を押すと、がたりと音を立てて開いた。老いてたるんだ瞼の目に促され、フィリクスはその向こうへ踏み出す。

ごく簡素な広い部屋だった。ドレフ帝国の建国神話が描かれた丸い絨毯が一枚きり敷かれているだけで、窓には木の板が打ち付けられ、申し訳程度にしなびたカーテンが垂れ下がっている。石づくりの壁を飾るタペストリーはなく、柱にも天井にも装飾はない。天蓋のかかった寝台があり、その中に人の気配があった。

部屋じゅうに色濃く淀んだ空気のにおいが充満していた。埃と古くなった食べ物、燃え残りの薪と煙、それからフィリクスには懐かしい水煙草と心地よくなる薬草の香り。足元から冷えがしんしんと身体を這い昇る。彼はゆっくりと歩を進めた。

「エリシアス?」

天蓋のカーテンの向こうで、誰かがびくりと顔を上げる気配があった。朱色の絹布に金糸で鹿の刺繍を施した、豪華だが古く埃の色に染まったカーテンに手をかける。布団の山の中に誰かは逃げ込んだ。

「エリシアス、――覚えているか? フィリクスだ。フィリクス……お前の兄上だよ」

しばしの沈黙。

枕が飛んできた。

「槍をもてェー! 衛兵! 衛兵エエエ!!」

「エリシアス、」

フィリクスは一歩下がる。残酷な現実が幾重にも重ねられた絹の敷布の上に埋もれていた。

血走った目。がりがりの手足。こけた頬。まだ少年の年頃なのにあどけなさや素直さは残っていない。顔立ちが父に似ているかどうかさえ判別つかない。フィリクスのことを覚えていてくれたのかどうかも。彼の声に反応してくれたのかも。

「誰ぞーッ、誰ぞ、刺客じゃ! 刺客じゃああああ! 助けて、助けてェェエ……」

少年はか細い悲鳴を上げ、たくさんある枕を自分の前に積み上げた。盾で防御する陣形の真似事だと、フィリクスにはわかった。

「エリシアス……落ち着け」

彼は片膝をついてその場に小さくなったが、少年は猜疑心と不安に満ちた目で睨みつけてくるばかり。ひたすら奥に奥に、ただようばかりに広い寝台の上でできる限りフィリクスから距離を取ろうとしている。アー、アー、と声にならない悲鳴がその薄い、色をなくした唇から漏れ続ける。

「エリシアス殿下、あなたのお兄上ですぞ」

と遠くからヴァルシャード将軍の声がして、ようやく、少年は枕を抱きしめる手を緩めた。悲鳴が止んだ。

「……嘘をつけ。兄上は死んだ」

フィリクスの胸に鋭い痛みが走った。

肺がぎうっと収縮し、もし胸や背中の筋肉がなければ咳が飛び出ていたに違いない。

「エリシアス、俺は生きている」

なるべく感情を抑えた平坦な声でフィリクスは言う。にっこり笑ってみせる。かつてのように笑えているのか自信はないが、それでも。

「お前の兄が戻ってきたんだ、エリシアス。お前のためになりたくて」

少年はぎょろりと目を見張り、首だけ伸ばしてフィリクスを見つめた。彼の目にフィリクスはどう映っているのだろう? 傭兵そのもののような恰好をして、貴族らしく話そうと努力する黒髪の男のことを。

フィリクスが少年にかつて天真爛漫に笑ってくれた男の子の面影を見いだせないように、少年の方も彼が兄だと認められないのだろう。黒髪をぱさぱさ振り乱し、エリシアスは枕に顔を埋めた。

「違う。そちは偽物じゃ。兄上などではない」

「信じてくれないのか? 昔、子供の頃、一緒に測量をしただろう。なあ、思い出してくれ。紐を張って、門までの距離を測っただろう……」

星、星座、神話、ひときわ輝く【始祖王の目】、シンクレア先生、忍び込んできてくれたエリシアス、喜びで構成された学問と遊びの日々。

フィリクスは幸せではなかったが不幸せでもなかった。父母はいなくとも生活の質は保障され、知識を得ることができた。自らの努力で手に入れた境遇ではない。ドレフ帝国のおかげだった。生まれのおかげだった。だからそれを還元したいだけだ。父の遺した帝国と弟に。

信じてくれ、と望みをかけてフィリクスは言い募る。

「覚えているはずだ。あんなに楽しかったのに。わかってくれ、エリシアス。もう一度俺の顔を見てくれ」

少年がぱっと顔を上げると、この世のすべての怨嗟を詰め込んだかのような形相がそこにある。もっとも場末の劇団が村祭りの演劇で被る粗悪な仮面のような顔。口の周りには絶叫によってついた細かな皺があった。まだほんの少年の年なのに。

「おれは何度も殺されかけた」

「エリシアス……」

「あんたは逃げた。おれは殺されかけた。次期皇帝だから。皇太子殿下、だから。母上様はあの男に狂って、狂って、――あの男が皇帝に斬りかかったとき、あの女は止めもしなかった。それから、至福の表情で斬られて死んだよ。エミリオ・カヴィルに」

「エリシアス!」

フィリクスは立ち上がりかける。

「すまなかった。すまなかった。俺が逃げたことで、お前に負担がかかった……」

――俺だって殺されかけたことがあるよ、母上様からの刺客によってね、とは、言いたくとも言えなかった。とんでもない。これ以上弟に何を知らせるというのだ?

殺されかかる恐怖は誰だって同じだ。母親に邪魔者扱いされてそうなるのと、宮廷でライバルの皇子の派閥につけ狙われるのと、どちらが辛いとかそうじゃないとかではない。

フィリクスはあるときから自分の命を自分で守れるようになったが、エリシアスはそうではなかった。

これはそういう話だ。

「おれは……一人で。一人で。頑張って」

「ごめん……」

「おれは星を見上げる余裕なんてなかったよ」

エリシアスの声は地獄から届く赤い炎の熱のようにフィリクスの心を焼く。

「おれは――おれは一度も。あんたがいなくなってから一度も……」

そうして少年は黙り込んだ、かと思うと、朝いちばんに歌う鳥のように朗々とした声を響かせる。

「――アミラコム分領公!」

「は」

フィリクスは反射的に膝をつき、胸の前に右手を当てた。エリシアスの声には確かに皇帝の威厳があり、この子が決して壊れ切っていないことを示した。

(まだ間に合う)

それがわかって、ほのかな安堵が生まれる。

きっと、エリシアスには味方がいるのだ。彼は一人だったと言ったが、ヴァルシャード将軍がいる、その配下たちもいる。決してひとりぼっちではない。

「そなたは許可なく正統なる皇帝たる我が私室に踏み入り、挙句寝台の前に蹲った。これは反逆である!」

うぬうううう、とヴァルシャード将軍が唸った。悲しげに。檻に囚われたことに気づいた獣のように。

「アミラコム、またその領地に属するあらゆる帝国の財産、名誉、契約およびそれらに類するあらゆる権限を没収する。その上で、帝国法に則り追放刑に処す! 投獄せぬだけありがたく思うがよい」

でたらめな響きだった。でたらめな物言いだった。フィリクスの知る限り、反逆罪の罰は斬首か首吊りであって追放ではない。

だが。

彼はそれが弟の示してくれた最後の情愛だと思うことにした。

「しかと承りました、エリシアス……皇帝陛下」

「ううう、ううううー」

少年はひきつけを起こしたようにびくびく痙攣する。口の端にあぶくを乗せながら、ぎらぎらと部屋の扉を指差した。

入ってきたのとは違う、正攻法で出ていける鉄の扉である。

フィリクスはそうっと立ち上がった。衣擦れひとつ立てないよう注意した。少年のか細いカン高い喘ぎが断続的に彼を追ってくる。将軍はしばし迷って、音もなく扉を閉めフィリクスを追った。

「弟についていてやってくれ」

「私が近づきますと尚更ひどくおなりになるのです。侍女どもがすぐに気づくでしょう」

「そうか」

それは嘘ではなく、向こうから色彩溢れる群れが走って来て彼らを追い越していった。まあ皇子様どうされたのですか、また発作ですか……息はできていますか。おかわいそうに。お労しゅうございます。なんて……まあ……。お労しや……。なんてかわいそうな子!

隠し通路ではない普通の道のりは、やけに長く感じられる。人払いが命じられているのか、たんに使用人の質がいいのか。道中誰ともすれ違うことはなかった。

ぽつり、ヴァルシャード将軍はこぼした。

「幼少のみぎり、エリシアス様をあなた様がお住まいの離宮へおやりになりましたのは、グリアリス陛下でございました」

「そうか」

「お二人の間に絆が、せめても面識だけでもあれば、身内同士帝位を争い食い合う宮廷の通例も、破られるのではないかとのお考えでした」

「そうなったらよかったな」

ごく軽い口調で言えたのがフィリクスにとっては救いだった。おそらく将軍にとってもそうだったろう。

「そうなったらよかったのに」