軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ドレフ帝国

北上するごとに山脈の気配が大きくなっていった。中央大陸の北部に壁のようにそびえる【大氷河】から降りてくる、刺すような、身を切るような、そしてときには爽やかで清涼な冷気がファルナッテ湖周辺の盆地に溜まって老人と子供たちを病気にする。かつて子供だった頃、あれほど広大に見えた丘陵地帯ラズガルは、馬で麓の街道を駆ければすぐだった。西にはヴァリフィア山が伏せられた椀のように鎮座して、それ以外はごく単調な平原の景色である。

「大将、どこに行くってんだ? この先は都だ。都ナルザク。お高級な宿しかねえとこだぞ!」

と誰かの声が叫んで彼を止めようとした。たぶんラディールだ。

「大丈夫だ!」

フィリクスは肩越しに叫び返す。

「泊めてくれる宛はあるから」

事実、それはあった。

まだ後宮で暮らしていた幼少期、彼には乳母がいた。母たる皇后陛下があまり彼によくしてくれなかったので――もとい、故意ではないふうを装った暗殺さえ仕掛けられていた頃だったので、彼女はフィリクスを守ることに全力を尽くしてくれた。

ミハルデ一族の傍系の娘だった乳母の父親は、宮廷の近衛騎士である。都ナルザクには近衛騎士たちの家が寄り集まった一画がある。

一同を従え家を訪れたフィリクスを見て、年老いた乳母は言葉を失い立ち尽くした。その後ろから顔をのぞかせたのは、食事を抜かれたのを見兼ねてこっそりナッツをくれた侍女である。

「……久しぶり」

とフィリクスは言う。言葉を続けられず、そっと家の中を指し示した。

「入ってもいいかな?」

「――おやめくださいませ」

乳母はゆるゆると首を横に振り、彼は頷いた。

「バシュリムとイラフは?」

と、乳兄弟である彼女の子供たちの名前を呼ぶと、乳母はカタカタ震え出した。

「あの子たちは結婚して、家族が。孫がいるんです。どうやおやめください、若様!」

「わかってる。ごめん。悪かった。ご夫君が帰るまで庭で待たせてもらっても?」

頭を抱えながら乳母は身体を丸めた。すっかり年老いた侍女がその背中を撫で、フィリクスを胡散臭そうに見る。きっと彼女はフィリクスを覚えていない。フィリクスは彼女を覚えている。たびたび食べるものをくれた彼女を、なんとか今後も味方につけよう、いいように動かそうと必死に考えていた時期があったから。

夕暮れ時の庭は小さいがよく手入れされていた。ブドウの木と、ベリーをつける垣根があり水溜りのような池がある。

「隊長ってひょっとして、いいとこの坊ちゃんだったんですか?」

とバリフがまだ子供っぽい目を見開いて言うのを、二歳上のジャンがこづく。

「やめろよ」

「別に、いいよ。――ああ、昔、皇太子だったんだ。フュルスト商会の女にアティフの小刀をもらったので、宮殿に返しに来た。ここは乳母の家だが彼女は俺を……俺ともう関わりたくないらしいな」

タディールがピュウと口笛をふく。イシュリードが興味なさげに頭上の木の枝を見上げ、カフィールとドゥミルは顔を見合わせる。

「まあ、たとえそうだとしても僕らがついていくことに変わりはないんですけれど……」

とバリフが呟いたのに、全員がうんうん頷いた。フィリクスは苦笑を浮かべて足元の小石を蹴る。

「嘘をついていたつもりはなかったんだ。巻き込んですまない。が、お前たちならたとえ命を狙われても自力で切り抜けられると思って」

ため息が全員から洩れた。笑おうかどうしようか迷って結局労力を使わない方を選んだ、そんな温度だった。

「そりゃあ、まあ。そうですね」

「仰る通りで」

「ついてくって決めちまったからなあ」

思い思いに言い合っては、深刻そうな顔と仕草を作った互いの顔を見て吹き出している。

フィリクスは畑を囲む柵に腰かけて言った。故郷の香りの風が吹いていた。

「お前たちは俺のせいで死ぬなよ」

彼らは笑って、もちろんと応える。

***

それから一週間近く待たされた。ありとあらゆる肩書の人間の保護下を彼らは転々とした。

まずは、乳母の夫、近衛騎士のカルザミール・バルシャク。その主君であるミルザ湾領総督トゥルハーン。その縁戚であるジャルカディ家、さらにその主筋であるヴァリフィア家のトゥルシェフィール・ドゥラフィアンの息子。ナルフィアン家の美しき未亡人ラズカフィール、そのサロンに出入りする新進気鋭の学者アル=ファルザミン家のトゥルリド。

そのあたりでようやく宮廷内へ招かれた。彼らを賓客、あるいは詐欺師として扱かわれるかは招待者次第だった。幸いなことにというべきか仲間たちは不条理な扱いに慣れており、癇癪を破裂させて話し合いを台無しにする者は誰もいない。

フィリクスの要求はただひとつ。

「皇帝グリアリスへの謁見を申し込む。その息子イ・シュファフリード・フィリクスアル・ミハルデティアン・セァ・ヴァン・ラズミールの名に於いて。フィリクスが会いたがっていると伝えてくれ」

それだけである。

そだけのことが伝わるのに一週間は、宮廷では早い方だった。

ようやく内宮の一室招かれたとき、フィリクスはアティフの小刀をドゥミルに預けた。会計係の彼ならば誰にも見せない秘密の金庫なり魔法具なりを持っているだろうし、一度任されたものは死んでも手放さない男だからだ。

「俺、荷が重いよ」

うへえ、と口をひん曲げしぶしぶ布に包まれたかたまりを受け取ったドゥミルに、フィリクスは笑顔で親指を立ててみせた。

「俺が戻らなかったら殺されたと思ってフュルスト商会に返しに行ってくれ」

「うへええ」

それで、そのようになった。

おそらく出入り商人か徴税官吏を待たせておくためだろう部屋は、彼の知る後宮のどの部屋よりも狭かった。もっとも、傭兵として寝泊まりしたどんな宿屋の部屋より広い。天井は高く、丸みを帯びたドーム状になっている。――懐かしい。

懐かしさのあまり、眩暈がするようだった。壁を覆うタイルは青と白が単調な幾何学文様を描き、つやつやした輝きを舐めてみた幼い頃の記憶、味、冷たさ、叱られた思い出までもが脳裏を駆け巡る。

高い所にある細長い窓は、庭から桟を乗り越えて侵入する暗殺者を防ぐため。カーテンは繻子で端には金糸の刺繍、緋色の絨毯の縁取りも金。それからたくさんのクッションにはそれぞれ別の衣装の金の刺繍。金、金、金に目がくらむ。ここで待つ者の目線を、光を辿る道筋に誘導するよう考え抜かれた装飾である。

礼儀作法に則って両足を揃え、両手を上にして目いっぱい伸ばし、頭を下げる。この姿勢、こんなに頭に血が上るのか。それじゃ乳母たちも昔はきっと大変だったのだろう……そんなことを考え、時間が過ぎるのを待った。

豊かな絹の衣擦れがする。複数人の足音、おそらく男ではない。

(ああ……)

会いたいような、会いたくないような。その人が目の前に来ていることをフィリクスは悟る。

(エリシアス、叶うことならお前に会いたかったのに)

無意識に奥歯が噛みあわさり、さり、と音が彼の耳の奥だけに響いた。

侍女の一人が小型の香炉を灯す。ほのかな沈香の煙が立ち上り、空気は甘くなる。その人は侍女たちが積み上げたクッションにもたれかかり、出された肘掛けに左腕を乗せ、しばらくフィリクスのつむじを観察しているようだった。体重などないかのような動作、息などしていないかのような佇まい。フィリクスはその人のことを知っている。

「顔を」

とかかった声までも、記憶の中そのままである。

彼は顔を上げ、皇后レニノアと対面した。

おぞましいほどに老けることのない絶世の美貌と、金と銀のあわいの色に光るまっすぐな髪の毛。まだめりはりのある身体つきを際立たせるようなぴったりした上下揃いのドレスの上に、薄い絹のベールをくるりと巻き付けている。

彼女は目を瞬いた。今回もそうだった。フィリクスは彼女が彼女であるとすぐにわかったが、彼女はフィリクスが我が子であると確信できないのだった。

「母上様」

だから、彼は言った。せめてこれでわかってくれたらと期待を込めて。

「ご無沙汰しております、皇后陛下。帝国の星、明けの明星、この世に並ぶ者なき美の化身たるあなた様よ」

それでも彼女はまだ、動かない。ぽってりした肉感的な唇と、少女のまま時を止めたまなざしでぼんやりフィリクスを見つめるだけ。

「――困ったわ」

とだけ、言う。

「この子がフィリクスだってわからないわ。だってあたくし、皇帝陛下に様子見をしろと言われただけなんですもの」

フィリクスはまばたきする。交渉相手を油断させるための満面の笑みが勝手に浮かび、ああ――俺はこの人が何を言い何をしようと、もう何も思わないのだな、と理解した。

悲しいことなのだろうか? 悔しがるべきなのだろうか?

「俺はあなたの息子ですよ」

と優しく声を掛けると、まるで野犬の子犬が懐く前のような用心深い目をして母は指先を顎に当てた。

「ほんとうに?」

「ええ、フィリクスです。母上様」

「ふうん……」

侍女の一人が薔薇水をガラスのコップに、もといここでは玻璃杯と呼ばれているが、細かな装飾のついたそれに入れて、母とフィリクスの前までもってきた。しずしずとした遅々として進まない動きが終わるまで、彼は感じたことのないほどの苛立ちを覚えた。

後宮ではあらゆる物事に裁可がいり、決済を待つ必要がある。忘れていた。どうしてガキの俺はこのゆっくりさに我慢できたんだろう?

「なんで帰ってきたの?」

ドレフ帝国の皇后はあどけなく問う。

「なにがしたくて帰ってきたの?」

アティフの小刀を預けてきたのは正解だった、とフィリクスは業務用の笑顔の下で思った。