軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

商人の娘

ラズナディア騎士団は解散した。ハルサディル・ミルザシャンは妻子とこれ以上の放浪を望まない仲間たちを連れ、ドレフ帝国南西の静かな土地に移り住んだ。田畑を耕し、牛と豚を飼い、軍馬ではなく農耕馬を使う生活が始まるのだ――かつてそうだったように。

フィリクスとしては意外なことに、その道を選ばなかった者たちもいた。主に若者たちで、自由騎士として旅立った者、目星を付けた傭兵団に入隊した者、そしてフィリクスについてくることを決めた者たちがいた。彼に惚れこんだのだ、という。

フィリクスは一人で放浪の旅に出るつもりだった。だが彼らはフィリクスの行く先々についてきて、何くれとなく世話を焼いてくれる。

「隊長!」

と呼ばれるのに、

「もうラズナディア騎士団はないぞ」

と応えていると、そのうち、

「大将」

と呼ばれるようになった。彼は折れた。

見習い騎士のバリフ。騎士のカフィール・ディアン。会計係兼弓兵のドゥミル。リュイスの貴族庶子のジャン=ヴァンフィリア。かっぱらい孤児だったイシュリード・ナラザディ。ドレフ帝国正規軍から入隊したラディール・サリア。以上六名。フィリクスも入れて、七人で各地をうろつき回る。

次第に彼らは息の合ったひとつの群れとなった。ささいな揉め事、夜を徹して飲み明かした次の日の二日酔い、合同で護衛任務にあたったと思った傭兵団に財布をちょろまかされたこと、イシュリードが凝りもせず人妻を口説いて村人総出で追いかけ回された夏、冬山で遭難しかけて洞窟でぎゅうぎゅうづめになったこと。

時折、ラズナディア騎士団が入植した土地サリナカルを訪れた。そこに残る面々は顔が一気に穏やかに、別人のようになり、ハルサディルをはじめ年長の者は急速に老けていった。畑を耕し、租税の米を納めるべく水田開発に四苦八苦する日々。ぽつぽつと、ラズナディア騎士団を抜けた男女も戻ってきているそうだ。ハルサディルはその者たちに何も言うことなく受け入れていると。

(団長らしいや)

とフィリクスは思う。

きっと、ここに受け入れてもらえることが何より嬉しい者がきっといるに違いない。かつてフィリクスがそうしてもらえたように。人殺しでも、元奴隷でも、なんだって。ここが彼らの新しい故郷になる日がくる――いや、もう来ている。

(今度こそ、ここまで奪われることがないように。もしそんなことになるなら、俺が戦おう)

彼はそう決意した。

「フィリクス、いつ帰って来てもいいんだよ? 君はここの子なんだからねえ」

というハルサディルの頬には見慣れない縦皺が刻まれ、瞼が垂れさがって眼光を覆い隠す。心なしか弱々しくなった足取りからフィリクスは目を逸らす。

「ええ、そうしますよ団長。次の年の瀬の祭りには来ます」

「その前にも、あとにだって来ていいんだからね?」

「わかってます」

よろめきながら頑丈な丸太でできた家の壁にすがって笑う恩人の顔を、フィリクスはもう見ていられない。最後に会ったシンクレア先生の様相に、あまりにもよく似すぎていて。

七人で結成された小さな傭兵団に、フィリクスは名前をつけなかった。そんなものに意味はない。

命を顧みない単騎突撃がフィリクスをフィリクスたらしめた。あまりに危険なその特技を彼は手放す気はない。正気の沙汰じゃないと言われても、むしろ名誉なことだと思っている。自分がいるこの場所が、選択したあり方が、果たしてハシルの言った通り踏みとどまった側なのか、それとも。答えはないままだ。

彼はそろそろ二十五歳になる。傭兵としては脂ののった働き盛りである。戦場に、彼の名声は轟く。斬り込み隊長フィリクス。放浪皇子フィリクス。本人以上に大きくなった二つ名で知られる傭兵には、さまざまな噂と憶測と憧憬がつきまとう。場合によっては、敵に彼がいると知って兵を退く相手まで現れた。もちろん敵も多ければ、不必要なトラブルの原因になることもある。大きな傭兵団や騎士団と雇用関係を結び、そのまた上にいる雇用主の都合次第に動かされる立場が辛くないと言えば嘘になる。

だがそれもこれも、都仕えの苦労に比べればだいぶんマシ、と思うフィリクスだった。

皇帝グリアリスは東方の戦争に終止符を打った。大陸中央に溢れる帰還兵は正しい支援なしには野盗に落ち、治安が悪化する。これからも傭兵の出番は多いだろう。

――東方司令官エミリオ・カヴィルが都ナルザクのイ・シュド宮殿への停戦合意を祝う宴に招かれ、酒杯を投げ捨て皇帝を罵った、という事件が起きた。皇帝が腰の剣に手をかけると、横に座る皇后がその膝に取り縋り慈悲を乞うたという。やれやれ。

ジャン=ヴァンフィリアが奇妙な話を持ってきたのは、そんな愁嘆場の噂話に上も下も明け暮れている、そのときだった。

「単独潜入任務の依頼が来た? それも女から?」

「ハイ。リュイス人で……あー、変な色合いの茶髪で、目が青い女です。元々は貴族の正夫人の子供だったんですけど、そいつが浮気してできた子だったことがわかったんで父親に追ン出されて。母親ともども商人に身請けされて育ったらしいです。ま、ちゃんとした教育を受けた女じゃあないでしょうね」

「そういうことが知りたいんじゃねえよ。具体的に俺をどこに行かせて何をさせたがってるんだ、その女」

「さあ?」

ジャンは首を傾げた。フィリクスは天井を仰いだ。

「そいつは俺を呼んでるのか?」

「あっ、はい」

「目的も知らないのに、俺はなんのためにわざわざその女のとこに出向くんだよ?」

「えっ。まあ……なんで、ですかね」

フィリクスは年若いジャンの顔をねめつける。シュンと項垂れた青年がまだ十七歳だと知っていなければ、グラスのひとつも投げつけてやったかもしれない。

「つまりだ、お前うまいこと言いくるめられたんだな? 俺にまで妙な話が来ないようにするのが侍従の仕事だぞ。ったく」

「すんません、大将……」

「いいぜ。会ってやるよ。そう言ってこい」

と言い放ったのは、もう飽き飽きしていたからに他ならない。

テトラスの一都市、カーミエール。この規模の街ではありがちなことに、街道が詰まっていた。夏の季節風が吹くと、南国ファーテバの貿易港にはさまざまな地域からの文物がどっと押し寄せる。秋口である今、テトラスの都モルセリアへ至る道は大混雑だった。交易物を届ける商人、租税を納める地主や貴族たち、はたまたそのお供として都へ上り、あるいは下ってくる使用人の一群、傭兵団に騎士団、旅芸人一座、配置換えを受けたギルド所属の職人たち、見習い奉公に赴くべく生まれて初めて親元を離れた若者の集団。

窓の外を見ればそのつど違う言葉、違う肌色、顔立ちが見えるありさまである。前の仕事でラディール・サリアが肩に怪我をしたこともあって、一行はいったんカーミエールに腰を据え、次の仕事を探していた。騒がしい時期である。仕事は、ある。だが今、ここで、我々が、受けなければならないたぐいの仕事はそうそうない。

ほっとしたような、不思議そうな顔でジャンが行ってしまうと、フィリクスはため息をついて椅子の背もたれにずるずると体重をかけた。片手で小机の上の米でできた菓子を弄ぶ。数年前に見たものより粒が小さく、形もまばらだった。

ここ数年、ドレフ帝国は冷害にみまわれている。広大な国土と肥沃な大地を持つ帝国が、たかだか異民族との小競り合いに打ち勝てなくなった理由がそれだった。ドレフ人は米を食べるが、他国に輸出するのはもっぱら小麦である。米が育たない北方地方では小麦を売った金で米を買って食べることもある。

――もしも、冷害が国庫備蓄を解放せねばならないほどの打撃を与えたら、ラズナディア騎士団は、彼らが苦労して手に入れた土地サリナカルはどうなるだろう?

(もしものときは、俺が)

サリナカルを借金の形にした奴、買収しようとした奴、あるいはハルサディルたちを農奴として売ろうとした奴を、全員、殺す。

フィリクスはそう思う。故郷とは、人が生きていく上で必要不可欠なものなのだ。誰かが守らねばならない。ハルサディルは老いた。彼にこれ以上やらせるわけにはいかない。

見ようによっては悲痛な決意である。だがフィリクスはやるつもりだ。それが彼なりの精いっぱいの恩返しになるだろうから。

そうして彼は彼女と出会った。土色の髪、青い目、白い肌。背は小さかったが、つんとすました人形のような顔立ちとざっくばらんな物言いに好感を持った。

潜入任務はごく簡単なもので、短期間に終わった。仲間の元へ帰る頃には、一般的な短期任務以上の報酬が手に入った。おそらくは、口止め料が含まれているのは誰しもわかった。

予想通り、サリナカルは隣の領地の領主へと売り払われつつあった。フィリクスたちは満場一致でその報酬を用い、袖の下を駆使してラズナディア騎士団の故郷が再び失われることを防いだ。

「おお、フィリクス……」

と言ったきり、もの言えない状態に陥るハルサディルをフィリクスは抱きしめる。年老いた男の背中はもう隆々としていない。どんどん痩せて、これから肉が落ちていくばかりである。白髪が混じった藍色の髪の彼の妻が、フィリクスの頬を何度も撫でて礼を言う。

「何も。俺は何もしてません。ただ、前の任務の払いがよかったんです。それだけです」

と、フィリクスは言う。

実際、リュイスのとある貴族家へ潜入するその仕事はあまりに簡単だった。使用人たちは凡愚そのもの、その主たちもまた愚鈍そのものだった。命の危険どころか正体がバレる危険すらなく、十分以上の金がもらえた。

(いい依頼人だったな)

それだけ。

フィリクスからアレクシアへの最初の感情は、ただそれだけだった。

うつくしい女だったと思う。青い目をした、賢い女だった。だが憎悪の感情に振り回されすぎているのはいただけない。あのままでは、したたかでありながら情に流されて終わるだろう。いい女だから、ひどい死に方をしてほしくない。

そう思った。

だが。

(もし、次も会えるなら)

また、会いたい。

次はあんなとげとげしい会話ばかりではなく、仕事だってもう少し時間がかかるもので構わない。フィリクスはアレクシアと話がしたかった。何か、もっと――直接的でなく、情緒的でもない、もう少しだけ個人的な会話を。

(不思議だ……)

こんな気持ちを感じたことはこれまでの人生で一度もなかったので、彼は顎をなで物思いぬふける。

明日には、一行はカーミエールの街を立つ。もしも彼の望む次の機会が訪れるとしても、先のことになるだろう。買い出しに出かけた仲間たち帰ってくるまで、少しだけ一人の時間があった。彼は肘掛け椅子に座り、暮れていく窓の外を眺めていた。リュイスから戻ったのはつい先日のことだったが、一晩寝れば体の疲れは取れていた。なにしろ朝飯前の仕事だったので。

(俺の働きぶりを彼女は気に入ったか?)

そう考えたっ瞬間、窓の外から聞こえるありとあらゆる声と音が一気に遠くなる。耳の奥がきゅっと縮まったような感触。首の後ろの産毛が逆立つ。

彼は椅子を倒して立ち上がった。小さな旅館の小さな一室に、その音はひどく乾いて響いた。

だがそこには誰もいないし、フィリクス自身、どうして自分がそんなことをしたのか説明できない。彼は黙ったまま椅子を起こし、落ちた傷よけの布をまたかけた。

夕暮れどきである。じわじわと部屋の中は赤く染まり、次第に夜の喧噪がやってくる。娼婦たちの奇声と男たちのダミ声、夕飯の支度を始めた家庭から漂う香り、部屋の片隅でネズミが蠢く。

(アレクシアもこんなふうに――)

やめだ。

(考えるな)

そんなことを考えてなんになる? 信じられない。そんなことをする意味はなんなんだ? 彼は自身に問う。

――どうかしてる。お前が何かを望むなんて?

だがその考えは取れなかった。染みついたシミやカビの汚れのように、フィリクスの心には彼女の形の取れない跡がついた。吊り目がちな瞼が伏せられ、土色の睫毛が青い目を覆ったその瞬間のことを、彼は何度か夢に見た。わけがわからない。

この俺が? いったいどうして、リュイス人の小娘なんかを?

彼はこの先、何度もそう自問するはめになるのだが……これはまだほんの、序の口の話である。