軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

理髪師

その夜夢を見た。世界のてっぺんにひときわ冴え冴えと冷たく光る【始祖王の目】がフィリクスを見つけて、どこまでもどこまでも追ってくるのだ。どこまでも。

星の光はまっすぐに彼の胸を貫く。季節は春、あるいは夏だっけ? まだ、ぜいぜいヒュウヒュウが激しくなる時期ではないのに、どうしてもその気配を感じてしまうのだ。

病からは逃れられない。それは彼自身の身体から湧き上がるものだから。

でも、いつかこれが消えてくれることを願ってしまう。きっとそんな日がくるって。護衛騎士が言っていたではないか。彼の妹も幼い頃は喘息まみれで死にかけていたのに、大人になった今では結婚して子供も三人いるんだって。

そんな日が。そんなまっとうな大人になれる日が、きっと。

母は息子の喘息こそが己の罪の証だと恐れていた。

「なんて忌々しい……」

と言った声は、なにもわざとじゃない、フィリクスが寝ていると思って、ついつい本音で喋ってしまっただけ。そうでしょう、母上様?

フィリクスは目を開ける。耳たぶのところに涙が溜まっている。情けない。俺はもっと強くならなきゃいけないのに。

起き上がって布団を片付けて、床を掃いて水で顔を洗って。そうこうしていると、朝食が到着した気配がする。取りに行って、食べる。新鮮な素材と贅沢なスパイスを使った味気ない料理だった。

そうして時間が来て、シンクレア先生がやってくる。フィリクスは正座して先生を待った。

やってきた老人は、いつもと違って少し浮足立っていた。

「先生?」

と首を傾げるフィリクスの前に、たっぷりした袖からさっと何かを取り出して、見せる。

「これは?」

「お誕生日おめでとうございます、フィリクス様」

老人は優しく、闊達に笑った。

フィリクスは交互に、先生の顔とその手の中のお菓子を見た。小さな籠に入った焼き菓子が三つ。ごく素朴で、形はいびつ。少なくとも後宮の厨房で料理女がこしらえたものではないだろう。そのくらい素人じみている。

「まさか……あの、先生、これ」

「今日でしょう? お誕生日は」

「ハイ」

フィリクスの黒い目にじわりと涙が滲んだ。彼は手の甲で顔を拭いながら、何度も頷く。

「はい、今日です。俺の誕生日」

「では、お祝いをしませんとな。さあどうぞ。おあがりなさい」

つぶらな群青色の目が、たるんだ瞼の奥から彼を優しく見つめる。フィリクスは鼻の奥がつんとするのを感じた。同時に、畏れが心臓を縮こませる。

――このことで先生は罰せられないだろうか? あるいは、彼がこれを望んだということにされていやしないだろうか? そのせいで罰が降り注いだらどうすればいい? 次の罰は鞭だろうか、鎖だろうか。

自分が鞭打たれるのはともかく、先生のような老齢の人がそんな目に遭ったら死んでしまうのでは?

だが。

フィリクスはシンクレア先生に微笑みかけた。

「ありがとうございます、先生。誕生日を祝われるのは……久しぶりです」

老人が目を細めて喜び、フィリクスは両手で菓子を掴んで食べた。かつて皇太子と呼ばれた者にはありえないお行儀の悪さだった。

これを焼いてくれたのは、先生の十五歳になる孫娘なのだという。食べ終えて一服し、宿題の確認を終えたあと、少しだけ話をした。他人と個人的なことを話し合うだなんて、フィリクスが覚えている限り初めてだ。

彼はいつ、どこのお茶会でも母の横で大人しくしていた。あとで余計な攻撃のきっかけにされるような言動を取らないよう、気を張るのが精一杯だったから。

授業中も、少しだけ雑談が混じった。その日から先生と、これまでしなかったような話をするようになった。フィリクスは先生の出自を知った。

皇帝、つまりフィリクスの父親……ということになっている男の専属奴隷だった父親から生まれた解放奴隷で、れっきとした市民階級であるのにそのことが原因で【星見の座】への入会を拒まれたのだという。長年、市井で子供たちや学生たち、あるいは【星見の座】を目指す若者へ勉強を教えることで生計を立てていた。

息子夫婦を事故で亡くしたあと、皇帝と帝国に忠実であることを見込まれて、一人残された孫娘を知人に預け、宮廷へやってきたのだという。

「リュイスの王立魔法学院は皆の憧れでした」

髭を撫でながら先生は重々しく言ったものだ。

「あそこには古代の魔法がいまだ息づいていると聞きます。この世のすべての英知が、そう、この離宮に集められた古書の十倍以上の数の本があるのだと。もし私に魔力があったら、若いときに入学していましたわい」

「今もまだ入りたい?」

「ほほほ」

笑って答えてくれないということは、まだ先生自身の中でも整理ができていないのだろうとフィリクスは思う。大人って、そういうものだ。大人になるって、そういうことだ。

フィリクスは少しずつ、伸びやかになっていった。

先生から焼き菓子をもらったことで、夜中に侍従に叩き起こされ鞭打たれることはなかったからだ。その背後に怖い顔をした母が控えていて、次期皇帝としてあるまじきこと、毒見も済ませていない怪しげなものを口にするなんて――と怒鳴りつけられ、それからごろんと先生の首が大理石の上に転がる、なんてこともなかったからだ。

フィリクスは忘れ去られたのだ。弟が、エリシアスがいるから! もう母上様に彼は必要ない!

「エリシアス、もしいつか、会えたらいっぱい遊ぼうな」

一人きりの北の離宮でフィリクスは幸福にくるまれて微笑む。上等の寝具に全身をくるまれ、暖かく幸せで、解放された喜びに満ち満ちている。頭の中には数式と星空、神話と航路の話が詰め込まれ、眠って見る夢は悪夢ではなく冒険譚だ。

フィリクスは解放された。もう二度と、怖い思いをすることはない。

そんな認識が半ば確信として彼の中に根付いたのは、季節が一巡し、十二歳になった頃。護衛騎士が三人、やってきた。理髪師を連れていた。フィリクスに身なりを整えさせるためだった。二、三か月に一回はあることだったから、彼は大人しく、その初めて見る男に身を任せることにした。

丸椅子に座って、池のほとりで。シャキシャキと音を立てながら髪の毛が周囲に落ちていく。身体に巻かれた大きな白い布の上、彼の黒髪の残骸は虫の死骸のようだ。

理髪師は瘦せぎすだが口髭ばかりは立派な男だった。威圧感はなかったが、背が高いのでシンクレア先生を連想することはない。先生とは似ても似つかない。

無駄口を叩かず仕事をする理髪師の手元を、護衛騎士たちは油断なく見つめている。仮にも皇太子……仮に偽りだったとはいえ……ともかくそう呼ばれていたことがある男の子を相手するにあたって、警戒は必要だった。

それはフィリクスのためではない。ドレフ帝国のためだ。帝国の威信と、皇帝の名誉のためだ。

理髪師が冷や汗をかいていることは、後ろを振り向かずともわかった。

「はい。終わりでございます。ご確認お願い致します」

と、震える声でやっと言えたとき、彼は心底自分がやり遂げたことに安堵したことだろう。ともかく、これで家に帰れると思ったはずである。

おそらく――とフィリクスは考える。この理髪師は街の人間で、実入りの良い出張の仕事だと告げられ、目隠しされてここまで連れてこられたのだ。やってきた先がまさか宮殿だとは気づいていないだろう、ましてや男子禁制の後宮を越えた先にある離宮だとは、思いもよらないはずだ。

我知らず、ほのかな微笑みがフィリクスの唇の端に乗った。彼は家に戻ったら子供たちにこの冒険譚を語るのだろうか? いいや、きっと語らない。身の安全のために。

そのこと自体が、フィリクスにとってはある種の物語のように思われる。

彼は目を閉じて首を左右に振り、どうしても残ってしまう細かな髪の粉を落とした。パサパサ音が鳴る。騎士たちは油断なく身構えている。器具をあらかたしまって、フィリクスから布を取り払った理髪師がようやく笑顔を見せる。

瞬間、護衛騎士の一人が目にも止まらぬ速さで剣を抜き、踏み込み、フィリクスの頭蓋骨へ向かって大きく振り下ろした。

悲鳴はひとつ。哀れな痩せた理髪師の男は尻もちついてひいひい震え、フィリクスは振り返った姿勢のまま硬直し、そして彼を襲撃した護衛騎士は殺された。残り四人の同胞の剣が、喉笛、胸、腹、そして背中側からみぞおちを刺し貫いた。

刃が引き抜かれると、血が噴水のように吹き出した。理髪師が四つん這いになってしゃかしゃかと逃げ出そうとするが、腰が抜けたのか果たせない。その様子を見ていると、フィリクスは逆に落ち着いて身体の力が抜けた。

「失礼をいたしました。若様」

と、騎士の一人が跪いて頭を下げるのに、自分が思った以上に冷淡な声が出た。

「我が身を守るのがお前たちの役目ではないのか?」

「面目次第もございません」

「もういい、下がれ」

と、言うしかない。フィリクスはすでに皇太子でも皇帝の子でもないから、こんなことを言う資格も、騎士たちを従わせる立場も持たないのに。苦笑してしまう。

寝台に入って布団が温まった頃、ようやく震えが出た。血の匂いを嗅ぐのは三年ぶりだった。母や父を狙った暗殺者は、ごく普通の顔をしてあらゆる時と所に現れた。式典にも、合議にも、あるいは入浴中にだって。フィリクスは一度、目の前で母が刺されたところを見たことがある、そのとき彼女は咄嗟に手近にいた侍女を掴んで引き寄せ、生きた盾にした。母は生き延びたが侍女は死んだ。まだ十三歳だった。犯人は父の側室の一人だったという。皇后たる母の命一下、側室とその父母はじめ一族郎党、それから領地の主だった役人までもが皆殺しに処刑された。父は何も言わず、何も行動しなかった。ドレフ帝国の皇帝たるもの、いくらでもいる側室と皇后の争いごときに顔を出してはいられなかったから。

いつか、ああして無駄死にするのだとフィリクスは思い、それからもそう信じて生きてきた。変わっていない。変わらない。宮廷は互いに暗殺者や毒入りの菓子を贈り合う美しい魔物の住む世界だった。

明け方、元皇太子を起こしに来た侍女が彼が発熱しているのに気づき、医者を呼んだ。医者は魔力石に魔法式が刻まれたスタンプで、子供の胸に刻印を押した。低い声で唱えられる呪文。ぱちりぱちりと稲妻が舞い、フィリクスの肌は古い文字のかたちに焼ける。身体に直接刻み込まれた、治れ、治ってまた立ち上がり、戦え、命尽きるまでと命令する古王国の死者たちの声が、願いが、フィリクスの息をこの世に戻す。

咳をするたび肋骨が折れそうに痛く、呼吸のために使う部分すべてが渇いて張り付いて、きっと指を突っ込んだらべりべり音を立てるくらいに縮んでいる。術式がそこに入り込み、フィリクスを湿らせ、膨らませた。

強引な手つきで粥を流し込まれ、薬草茶を啜り、徐々に彼は回復した。

そして誰も彼もが枕元からいなくなったあと、北の離宮のひときわ染み入るような寂しい静寂に耐えかね、這って窓辺りまで行って中庭を眺めた。何かが踊っているように錯覚した。まだ熱が下がりきっていないのかもしれなかった。

そいつは女の人のように見えた。小柄で、髪の毛が長く、肌は月光の元青白いほど白い。ステップは優雅だが教本通りに見えた。妖精のまぼろしはすぐに消え、フィリクスは絨毯の上につっぷして気絶しているところをまた起こされた。

熱で錯乱している、迎えが近いのかも……と、医者の助手の声がした。うむ、と医者は応えた。まだ新しい、冷たい魔力がフィリクスの胸に押し当てられた。

――きっとその方が、ドレフ帝国のためにはいいだろう。

起き上がれるようになり、さらに念入りに一日の休暇があった。

次の日、やってきたシンクレア先生は涙目だった。

「私のこの前の贈り物が、誰かによからぬ気持ちを抱かせたのでしょうか。そのせいであなたが……」

「えっ。違う違う。宮廷ではよくあることだよ。みんな殺し合いをしてるんだ。普通だよ」

フィリクスがけろりとしていること自体、先生には信じられないらしい。

当時はそれが、傷ましい、という表情だと知らなかった。まだ子供なのにと戸惑っているのだとは、まさか思わなかった。皇帝の子としての立場を持って生まれた以上、フィリクスは常に狙われる身だった。

その日の授業はなんだかしんみりしていた。星の回転について学びながらフィリクスは、遠い先生の人生に思いをはせた。

――解放奴隷の子として産まれるのはどんな気持ちなのだろう? 人の目はどういったものになるのだろう? そして宮廷を抜け、市井で暮らすというのは。

見ても見果てぬ夢である。

元気になったフィリクスはいつもと変わらず、朝の日課を丁寧にこなす。一つ一つの動作は毎日続けるうちにより繊細に、意図的になり、まるで一つの儀式を執り行っているようだった。顔を洗い、歯を磨き、水を飲み、床を掃き、棚を磨き、――何しろここにはそんな動作をしてくれる使用人はいないので、彼が自分でやらなければならない。さすがに便器の中身を捨てるくらいは誰かがやってくれているようだったが、それでもいつか自分でやる必要が出てくるのかもしれなかった。

フィリクスの存在がもっとたくさんの人に忘れられるようになった頃には。掃除をやればやるほど、まだ満足できない部分が見えた。雑巾が黒くなり、棚がこっくりと飴色に光るようになってようやく手を止めることを自分に許した。

彼は徐々に偏執的に、病的な気配を帯び始めたが、それに気づくのはシンクレア先生以外おらず。

ときは流れ、彼は十五歳になった。