軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

モルセリア④

香炉から立ち昇る煙に魅入ったふりをするアレクシアへ、バルドリック王は静かな声で言った。

「演技せずともよい、ヤーヴェ・クラックはどうであった?」

アレクシアは目を細める。小手先の技は効かない、まあそうだろう。

紫色の煙が広く開け放たれた全面窓から庭園に消えていく。庭園の垣根の向こうには、都モルセリアの街並みが遠く望める。王宮ルム・ランデ王宮は山岳地帯の始まりの丘にある。いざ敵が攻め込んできたとき、騎士たちは【大氷河】を背中にすべてを捨てて戦うのだ。

「ジョードメル協会は陛下の間諜でしたか」

呟くアレクシアの指に煙はまとわりつく。王は椅子の上で足を組み、カーテンを持ち上げて我が子が遊ぶのを眺めた。

「いいや。予が抱き込めたのはクラックだけだ。ジョードメルめ、元は南大陸の狂信者どもの出のくせに、我こそは自由の民だなぞと嘯きよる」

「左様でございましたか。クラック様は、よいお方でしたよ」

「あなたの勧誘には失敗したようだがな。やれやれ、塩を売るのに一枚噛ませてやれとまで言ったのだが。やはりあれはまだ若い」

王は考え込む様子である。アレクシアは微笑の影で、頭を回転させる。

塩の専売はリュイスにおいて軍事を司るレイヴンクール公爵家が代々守り伝えた特権であるが、ここテトラスでは王の手の中にある。

王は子飼いの商人にだけ塩を売らせ、人々は塩がなければ死んでしまうから、それを買うしかない。価格は一定に保たれ、租税はジョードメル協会の面子に賭けて正しく国庫に入金される。といえど、おそらく末端には悪知恵の働く者もいて、価格を吊り上げたり砂を混ぜたりして小金を稼いでいるだろう。だがそんなのは些末な小悪党だ。

リュイスにおいてタリオン前王が成し遂げようとして果たせなかった、塩の専売権の国有化。テトラスのバルドリック王がその特権を父祖代々より受け継いでいたことが、彼をして王権の強化を急がせた一因なのかもしれなかった。

「フュルスト商会のような新参者が国家にお仕えする塩商人の地位に、とは。恐れ多いことでございます」

「いや何、何。お父上のご高名は我が国にも轟いておる。あなたが末娘の友人でなければ、ぜひ予の部屋に長逗留して商売の話をしてもらいたいものだ」

ぞっとするようなことを言う、中年男である。アレクシアは背筋がぞわぞわするのをこらえる。エドレッドの嬌声がキンキン響いたかと思うと、ぴたりと止んだ。

「魅力的なお話ですが、陛下。それでは私は貴族の方々に嫌われてしまいますわ」

「なるほど、そうだな! わはははは」

王は哄笑した。第二王子が興奮した様子で同じ音程の大声を上げた。カーテンが揺れた。

アレクシアは煙を弄ぶ。小さな白亜の香炉は沈黙した美人の横顔のように愛らしい。

バルドリック王は話し始めた。

「娘から聞いた。リュイスでは世話になったそうだな。礼を言おう。ヴィヴィエンヌにはよい婚姻を結んでほしかったのだが、裏目に出てしまったことを苦く思う。リュイスがドレフ帝国に頼り、蛮族の軍を借りるなどという愚行を取るとは思いもよらなんだ予の落ち度である」

ピクリ、アレクシアは自分の肩が跳ねかけたのを感じる。根性でこらえる。動揺を誘われている。乗ってはならない。

「リュイス、ドレフ二国が交易路を遡り侵略を試みるのであれば、我らも【大氷河】を背に国を死守せねばならん。我が娘が防衛線の構築前に祖国に帰還できたのは僥倖であった」

――じゃあなんで迎えを寄越さなかったのだ? などとは、間違っても思ってはならない。アレクシアはヴィヴィエンヌとなんの関係もない、赤の他人である。

もしバルドリック王がリュイス国内の部下に命じてヴィヴィエンヌを国境まで護送させた場合、リュイスとの国交断絶の意志を表明したとみなされただろう。戦争の前準備をしていると。それこそヴィヴィエンヌの身は危険に晒されたに違いない。

人質にする価値があると思われれば、トンムーク侯爵のような輩が湧いて出ただろうし、上品に口説いてくれるばかりではなかっただろう。

「ゆえに、予はそなたには感謝しておるのだ、アレクシア殿。よくぞ娘にあの時点で国に帰るよう諫言してくれた。あと一歩遅れていれば、交渉が大変だったわい」

にかり、王は氷のように笑う。大きく開いた口から覗く雪のように白い歯。

「ようやく会えて嬉しく思う」

その歯が言っている。目的はなんだ? わざわざ敵国になるかもしれない隣国に乗り込んできて、王宮にまで立ち入った。まさかただですむとは思っていまい?

アレクシアは覚悟を決めた。他ならぬ一国の王がこうも開けっ広げに話してくれているのだ、乗らなければならない波だ。

「申し上げても?」

「許そう」

「すでにクラック様よりお聞き及びでしょうが――我が商会はテトラスの皆様方へ南方の文物をご紹介すべく、カーミエールに拠点を構えたところでした。このたびの情勢の変化により連絡が途絶え、一番身軽な私が様子見に参ったのです。拠点はもぬけの殻でした」

「ふむ」

王はぽりぽりと顎をかく。顔はヴィヴィエンヌに似ているところの方が少なかった。がっしりした顎や鼻は男性的で、少しだけ耳が尖っているのが全体の印象を吊り上げて見える。

「決して、テトラスの法律や慣習に反して強引にことを進めたのではありません。王陛下ならびカーミエールのご領主のご許可をいただいての商いの予定でございました。そして二日もしないうちに、彼らの遺体がアルバ河に上がりました」

煙はそろそろ終わる。貴重な香木が燃え尽きていく。キラキラと輝く【大氷河】の光が、煙をより一層繊細に見せた。

「他殺だったか」

「はい。我が商会員はいったいどんな咎で殺されたのでしょう、陛下? 私はもう、悔しくて悔しくて……こうして恥知らずにも、ヴィヴィエンヌ王女殿下を頼りモルセリアへ参上した次第でございます」

アレクシアは腰のポシェットに手をかける。中にある指輪に指が届く。それを取り出す直前、ぱしっと手首が掴まれた。

なんの気配もしなかった。

首を上げると、無表情な男が一人、いた。銀色の髪と黒い目、少しだけ浅黒い肌。無機質な印象の美貌と詰襟のお仕着せが恐ろしくよく似合っている。

「シュカルム、やめよ」

バルドリック王は困ったように眉を下げる。

「我が娘の客人であるぞ」

男はアレクシアの手首を離すと、静かに一礼をしてカーテンから出て行った。途端、エドレッド王子が歓声を上げて走り寄ってくる。足音と、抱き着く音、呼びかける声、シュカルム、シュカルム!

「失礼した」

「――いいえ。王家の影の方ですか。素晴らしいですわ。なんの音も匂いもいたしませんでした」

香炉から上る燃え残りの煙は、まだ紫色である。よい香りは複雑に変化して、今は麝香とひときわ澄んだ雪解け水を合わせたように香る。

アレクシアはころんとテーブルの上に指輪を置く。重たい金指輪は揃えられた細い指の輪の中で燦然と輝いた。

「これが、我が商会の使っていた拠点にありました。王家のお印ではないかと思い、お持ちしたのです」

エヴレン王家の紋章がついた指輪。

バルドリック王はそれを、見つめる。完璧に制御された表情と手つきから、何の感情をも読み取ることはできない。

「王陛下、これほど貴重なものがこの世に二つとあるはずないのは、私ごときでもわかります。魔法的に保護され、決して複製などできないことも。これはエヴレン王家のおんかたの持ち物なのでしょうか? それとも?」

「――まごうことなき、我が国の王族の指輪である」

バルドリック王は指を伸ばし、指輪をつまみ、そして手の中に抱え込む。まるで抱きしめるようにゆっくりと。カーテンの向こうから騒がしい声がして、足音も高くエドレッド王子が走り込んできた。分厚い生地をかき分けたことに息を切らしながら、父親に抱き着く。

「ねえ父上、父上! シュカルム、シュカルム。遊ぶ!」

「おお、エドレッド……ご覧、お前の兄上の指輪だよ」

「あに?」

アレクシアは香炉を撫でる。灯火に温められた陶器のつるりとした熱さが、動揺を鎮めてくれる。

「お前の亡き兄上……おお、憎きオストン・ミストヴェルに殺された、予の最初の子供の指輪が返ってきたのだ!」