軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

フィリクス・ルミオンの場合①【'26.2.13改定】

大陸西方の大国テトラス。南国ファーテバの港からやってくる珍しい文物の多くは、ここカーミエールから全国に散っていく。バルドリック・エヴレン王は街道に関税をかけた。年々引き上げられるそれは、テトラス国の、ひいてはエヴレン王家の重要な財源のひとつとなっていた。

その白いなめらかな道は現代の魔法技術では再現できない、古代の道なのだという。フィリクス・ルミオンがその女と落ち会ったのは、ある日の夕暮れ時、街道沿いの小さな娼館だった。娼館では金さえ支払えば店の奥で密談ができるため、貴族も平民も多くが利用するのだ。営業許可を受けているのだろう、店構えも堂々たるものである。小さいながら門があり、看板が出ている。娼婦たちの嬌声が響き渡る店の表口を素通りして、裏口へ。訳知り顔の使用人に(おそらく逢引きだと思われた)案内された先の小さな部屋で、女は窓の外を眺めていた。

故郷を出てから長年、こうした場所を転々としてきたフィリクスである。迫る夕闇の中に佇む女などごまんと見てきた。だが。

「へえ」

と思わず声が漏れた。清楚な装いを圧倒するほど、溢れ出る生命力で肌が光を放つような溌剌【はつらつ】とした女だった。

「へえって?」

くすりと笑う顔さえも、猫の仲間のようにどこかなまめかしい。よぎる幼さがなければ盛りの美女と言えるだろう。襟の詰まったドレスと幅広の帽子、オレンジ色の光の中その美貌はよく見えずとも、たっぷりとした渦巻く土色の髪が彼女が誰かを告げた。

「フュルスト商会の女秘書か。油を塗ったように動く口で父親のため暗躍する雌猫、と呼ばれているそうだな」

「アハハ。思ったよりお口が上手だわ」

女は笑いながら帽子を取った。髪の毛はさらさらと左右に広がり、夕日を浴びて赤く光る。自分に自信がありそうな笑い方をする女だ、と席に着きながらフィリクスは思った。いやな女だ。実際、それに見合うだけの実績があると伝え聞く。厄介な相手だ。

「やり手商会長のためにしか動かないと聞いていたが。それなりの権限を持ってテトラスを動き回ってると聞いたよ。何を企んでいるんだ?」

「お耳が早いのね。――何か頼みます?」

「じゃあ遠慮なく。酒を」

フィリクスはにかりと笑った。浅黒い肌は夕日を映して黄金色に輝くが、じきに暗さに紛れてしまうかもしれない。まっすぐな黒髪を短く刈り込んでいるのも、瞼に模様を描いているのかと思われるほど濃い睫毛、その下の黒い目も、彼がテトラス人でないことを告げている。フィリクスは流れの傭兵だった。

古びているがよく手入れされた四角のテーブルと椅子。中央に飾られた質素な花瓶と一輪の薔薇。差し込む最後の夕日が終わり、夕闇が部屋に満たされる。女たちの張り上げる声、化粧と香水と饐えたドブのにおいが混ざった悪臭。その中にぼうっと発光するような白い肌のご令嬢。腕を伸ばして卓上のランプに火をつける。

「よく丸腰で平気だなあ」

と、率直に彼は言った。彼女はくすくす笑い出した。心底、おかしいらしかった――あるいはそう見せかけるのが天才的にうまいのだろう。

(上玉。上物。べっぴんさん)

ではある。少なくともこのへんをこの時間、一人で歩いていたらかどわかされるだろう。とはいえ手を出せる相手ではない。見えない背後から、斜め後ろから、果ては上の階からも誰かの殺気立った視線を感じる。

鈴を鳴らした女が注文を済ませ、メイドが酒を持ってきて並べる間、フィリクスは指一本動かそうという気になれなかった。そのくらいの監視だった。それにしたって、手を伸ばせば届く距離である。小娘が一人、大の男を前にして不気味なくらいに落ち着いているのが異様だった。

「やれやれ、やっと人心地ついた」

グラスに注がれた白ワインを彼は一気に飲み干した。くうっと喉が鳴りアルコールが香る。上物。そう、これこそが本当の上物だ。

「アレクシアと申しますわ」

女はグラスを掲げ、乾杯の仕草をした。フィリクスはまるで同年代の男に会ったように剣ダコまみれの手を挙げて応えた。いくつかの殺気がぶわりと膨らむ。

「れっきとした大商会のお嬢さんが、俺みたいな流れの傭兵になんのご用で?」

「傭兵? 暗殺者と聞いたのだけれど? 間諜、謀略、なんでもするって」

「殺したい男でもいるのか?」

遊ばれたのだろうか。まさか。やれやれ、殺気のことは強いて意識から追い出す。

窓から吹き込んでくる潮っぽい味の風が、ゆるゆると夜風に変わっていく。響き渡るカン高い声に頭が痛くなりそうだ。階下のざわめきはどんどん大きくなっていく。美女と美酒。そしてここは気兼ねする必要などない娼館の特別室。

フィリクスはふと、ここでいつになく落ち着いている自分に気づいた。何も怖いことはなく、また恐れる必要もなかった。

目の前の女は、いかにも箱入り令嬢ですと言わんばかりの身なりの女は、面白そうにくすくす笑う。怖気づきもしなければ感心した様子もない。

「お噂通り、豪胆な方ですのね」

「そりゃどうも」

「本当に殺してほしいのは私の父親なのだけど、まだ死んでもらっては困るの。とりあえず情報がほしいから、家に侵入してきてくれないかしら?」

さらり。とんでもないことを言う女だ。

「貴族家に入り込んで、ねえ……簡単に言ってくれるな」

「できなくて?」

「美人にそんなこと言われちゃできないとは言えない」

フィリクスにとっては意外なことに、アレクシアはほんのり頬を赤らめた。お、案外うぶなのかもしれない。

「その家の名は? 家族構成は?」

「リュイス王国のガイガリオン伯爵家。父ガイガリオン伯爵と、その妾エイナ、その子ザイオスとペルアがいるわ」

「そのお幸せなご家族を壊してやろうって魂胆かい? 恐ろしいことを考えるもんだ」

――にこっ。アレクシアは笑った。思わず背筋がゾクゾクするような笑い方だ。経験はないが、虎に睨まれたらこんな気持ちだろう。フィリクスは自分の喉がぐっと収縮するのを感じた。

この女のこの顔をもっと間近に見ていたい、と思った。理由も理屈も関係なく、そう思ったのだった。

思わず誤魔化すように酒を煽ってしまう。まだ俺も若いな、と苦く思った。

「その妾とやらは美人なのか?」

「さあ? 顔は知らないの。調査の一環で絵は見たことあるけれど、それだけじゃどうにも内面まで掴めないから。でもきっと、立派な内面はしていないわよ。貴族の家に上がり込むのに躊躇ないような平民女なのだもの」

アレクシアはお嬢さんらしく口に手を当てる。だがその下に隠された笑みは、どうせろくでもないだろう。彼女は目を細めて微笑みを含んだ声で言う。

「……大陸四国のあらゆるところで、あなたの活躍は耳にするわ。フィリクス・ルミオンあるところ屍【しかばね】あり、まあ、今回はあってもらっては困るのだけど。彼らを屍にするのは私の役目だからね」

フィリクスは苦笑して肩をすくめた。彼はこれまであらゆる場所であらゆる仕事をこなしてきた。それこそ諜報も暗殺も裏切りもあった。心から信頼していたキャラバンの座長に裏切られたことも、幼少期からの剣の師匠を裏切ったこともある。入れ込んだ領主の血を吐くような依頼で敵対する傭兵団の長を殺したことも、反対に気に入らない貴族を自分の一存で殺したことがある。

いずれのときも、こんなにゾクゾクしなかった。それは確かである。心の命じるままに、彼は頷いた。

「――引き受けよう。いくら払う?」

「これだけ」

と示された指の本数は、思っていたより多くも少なくもない。彼はとうに空のグラスを床に放り投げた。パリンと音を立ててそれは割れ、階下で誰かが顔を上げ、複数の気配が静かに張り詰める。

「んじゃ、前払いだ」

女は頷いた。それで契約は交わされた。

フィリクスは通常、こんな簡単に依頼を受けたりしない。金が支払われる日付や金貨の種類までけちをつけて確認する。だがフュルスト商会といえば裏社会の塵芥【ちりあくた】にもきちんと金を支払うことで有名だ。投資にかけては豪胆実直、汚い手段も問わずに利益を追求し、どんな相手でも決して義理に背くことはしない。それを積み重ねて大きくなった連中。

信用できる。

だが、信頼することはできない。決して。

しかし、好ましい連中だ。フィリクスが相手どってきた陰謀ばかりの老貴族たちよりも、よほど。アレクシアは常ににこにこと笑っていた。どこか猫を思わせる笑みは仇名に恥じなかった。

翌日、彼はテトラスの隣国リュイスへ渡った。

口入屋は金を渡すとフィリクスの身分を捏造してくれた。信用第一の商売であるということはつまり、金と伝手次第でそれを捏造もできるということだ。そして彼には口入屋が裏の方の仕事をしてくれるだけの名声があった。裏社会は信用と横のつながりが第一だ。

一流から三文までの新聞を読み、酒場の噂話、果ては議会に議席を持つ貴族家に仕える使用人と接触するなどして、フィリクスは情報を手に入れた。

リュイスにおいて百年の歴史を誇るガイガリオン伯爵家というのは、ずいぶん危うい経営をする家だった。元来、貴族というものは先祖から受け継がれた資産と人脈を用いて堅実に利益を上げるもの。去年と同じ領地収入を同じだけ、それが鉄則であった。そうでなければ使用人をはじめ領民、家人を養えない。

だがガイガリオン伯爵家当主セオドアのやり方は、奇妙だった。まず、夜会に夫人を伴わない。平民出身の奥方は正式な妻ではなく愛人だった。

戸籍に書かれた女の名前は、レイヴンクール公爵家出身のルクレツィア。なるほど、これがあのフュルスト卿を骨抜きにした希代の悪女。

レイヴンクール公爵は頑として離縁を認めず、娘の存在自体をなかったことと見做しているらしい。ひどい父親であるが、貴族としては正しい。あの家は最近、どうやら塩の専売権かそれに近しい商売を取り戻したらしく、羽振りも戻っている。格下の伯爵家に従うことなどないと断言できる。

フュルスト卿はルクレツィアを正妻として扱い、以降、ガイガリオン伯爵家との付き合いは断絶している。ガイガリオン伯爵もまた、いなくなった正妻に言及したという記録はない。

「はー、あのお嬢ちゃんもわりと修羅場っぽい育ちをしてんだなあ」

フィリクスは感心した。楚々として凛として、生活のために働いたことなどありませんと言いたげだったあの女。だが青い目はびかびか光っていた。フィリクスはそれを奇妙によく覚えている。なるほど、この奇天烈な育ちのせいか。敵に回るならお前から取って食うと言わんばかりの気迫を感じたのは。

「まあ、俺には何も関係ないかあ」

と、ひとつ伸びをして。フィリクスは仕事をすることにした。実のところ、傭兵として戦場で剣を振り回す方が好きである。とはいえ、ひそかな暗殺業の方が気楽なのも確かだった。まだ若い頃に南大陸で経験した地獄の戦乱に比べれば、なんでも天国だということもある。

どんな血生臭い仕事にも情報収集は最重要である。彼は目標の人物に接近できるまで何か月でも待つことができたし、その頸動脈を触れる位置まで近づいても危険だと思えば手を出さないでいることができた。それはひとえに、状況を理解するためにありとあらゆる情報を集めてきたからだ。

日雇い人夫をしたこともあれば使用人の仕事は一通り経験したし、書類の偽造もお手の物。落ち目の貴族の家に潜り込むなんてわけはない。まったくの別人に成り代わるため必要なのはドーランや派手な衣装ではなく、気の持ちようである。

フィリクスは書類を偽造し、別の貴族家に仕える顔見知りの執事に頼み込んでガイガリオン伯爵家への紹介状を書いてもらった。もちろんそれなりの袖の下が必要だったが、アレクシアがぽんと出してくれた。彼から彼女への評価はますます上がった。

アレクシアからの冷たい信頼、フィリクス・ルミオンのできることを見誤らないという意志が伝わってくる。彼は細い溜息をつく。

フィリクスはすんなりとガイガリオン伯爵家にフットマンとして雇われた。流れの元傭兵ですが身元は確かです、ええ、没落した貴族の息子だったんですよ……と、中らずとも遠からずな噓八百を書いてくれた執事には感謝しておこう。

そしてあっという間に家の奥に入り込めるところまで昇進した。人手不足なのだった。何でもそつなくこなせる使用人であれば、猫の手でも借りたいくらいに。あっという間に家の奥深くまで出入りできるようになり、さすがの彼も心配になる。

家の中は荒れ放題、使用人により金目のものの大半が窃盗されたあと。百年程度の浅い歴史といえど、れっきとした貴族家である。先祖伝来の家宝や、今となっては工法が失われた工芸品や美術品、あるいは家族の思い出の品など金ではどうにもできないものもあっただろうに。

「あんたなんで今更来たの? もうめぼしいもんは全部、ないよ」

とは、髭と頭髪が伸び放題の自称庭師の言だった。庭は荒れ果て、庭園は柵ごと半壊している。いったいどんな仕事をしていることやら。

「おれらの前の奴らがとってって、もうないよ」

フィリクスは庭師の口臭に辟易しながら言う。

「なあ、あの奥様って呼ばれてるのは、旦那様の妻なのか? 愛人なのか?」

「さあ? わかんね」

「俺、新入りなのに茶ぁ淹れて出す仕事まで任されてんだけど。いいのかな」

「いいじゃねえか。じゃあ客室のよ、絹のカーテンとってきてくれよぉ。おれらじゃさすがにそこまで入れねえ」

笑って会話を打ち切っても、庭師のじっとりした視線をお仕着せの背中に感じていた。ここまで荒廃した貴族の家に入ったのは、フィリクスも初めてである。

鈴の音が呼ぶので、彼は長い廊下を急いだ。不思議なことにこの家に住む家族は、ある一室をまるで居間のように使っていた。朝食室である。朝こそさんさんと差し込む光が目を覚ましてくれても、今は昼下がり。陽が入りすぎる部屋の中へ、フィリクスは一礼して踏み込む。

「お呼びですか、奥様」

往年の美貌を色濃く残した中年女が、嬉しそうにソファから振り返った。平民出身で、今は便宜上奥様と呼ばれている、ガイガリオン伯爵の愛人エイナだった。玉の輿に乗った元美少女以上でも以下でもない女というのが使用人一同の認識である。

少なくとも正妻ルクレツィアを追い出しそのまま家に居着いたからには、せめて家内の管理くらいはすべきだろうに……驚いたことにこのエイナという女は、なんの仕事もしないのだった。家の監督の仕事のやり方を知らない、という。勉強して覚える気もない、という。

「だってあたしカワイイもん」

と高く澄んだ少女のままのような声で言い放つのを、日に二度三度は聞く。

「カワイイままでいられるように頑張ってるもん。お化粧水、いっぱい使ってるもん」

フィリクスがフットマンとして彼女と家族の側に侍るまで、雇われてから二か月もかからなかった。

だらしなくソファに寝そべったまま、エイナはきゃらきゃらと無邪気に笑う。猫足の家具の下には、山のように空のガラス瓶が積まれていた。都アリネス一の薬局が出す有名な化粧水の空き瓶。そのほかにも白粉のケースや骨が折れた扇など、まともな貴族の家なら見つけ次第使用人が血相を変えて片付けるごみが見えないところに押し込まれている。誰も気にせず、香水や食べかすの残りが腐った臭いもまた気にならないようだった。

古参の使用人のほとんどは、下がった給金や自分と同じ身分の女を奥様と呼ばなければならないことなどに耐えかねて、辞めていった。エイナは庶民が使う口入屋に依頼して使用人を集め、……結果がこのざまである。

エイナはばさばさと小冊子を振って見せた。仕立て屋が持ってきたドレスカタログだ。

「あたし、あたし迷ってるの。次のシーズン何着よう? 今はね、身体にぴったり沿うのが流行ってるのね。ねえねえ、フィリクスはこれとこれならどっちが好きぃ?」

「ステキですねえ、奥様。きっとお似合いになりますよ」

平民身分の愛人は社交界に立ち入ることは許されない。万が一そんなことをしようものなら笑い者にされ、貴族社会から爪弾きにされる。だから、エイナがドレスを仕立てる意味はない。なのに何故、当たり前にカタログを読みふけるのか。

フィリクスはゆっくりと歩を進め、エイナの薄くなったつむじを眺める距離まで来た。――俺は絶対にこんな女はいやだ。たとえ昼間の公園の散歩に連れていくのであっても恥ずかしい。ガイガリオン伯爵はこれのどこがよかったのだろう?

「娘とおんなじデザインで仕立てるのォ」

「ですが奥様、旦那様がお金を出してくださいますかね?」

フィリクスはエイナを素通りしてカーテンを閉めに行く。西日が眩しい。

「あっ、そっかあ。旦那様、最近けちなんだあ……。なんでかしらね? あたしが年取ったから、もう飽きたのかな? エエーッどうしよ? あたし、あの人に捨てられたら生きていけなあい!」

とっくに四十の声を聴くというのに、小娘のような言いぐさである。室内は西日のせいで暑苦しく、オレンジ色に輝いている。そしてレースのカーテンごしに見える車寄せには、この時間にあるはずのない馬車があった。

フィリクスは内心、舌を出した。なりゆきを楽しむことにする。

どたばた、わざと足音を立てて廊下を走る足音が、薄くなった絨毯に吸収されずに響いた。

「ちょっとママァ!?」

悲鳴のような金切り声をあげて、夫人と同じ金髪碧眼の美少女が走り込んできた。オーク材の扉をバタンと力づくで押し開け、油を差されていない蝶番【ちょうつがい】が上げた軋みよりうるさい。

「ああん……」

母親は寂しそうにカタログを脇に置く。

「どうしたの、ペルアちゃん? 学校はぁ? 帰ってきちゃったの?」

「あいつらあたしのこと妾の子妾の子言ってきて許せない許せない許せない許せないイイイイイィィ‼ 殺して! 殺しちゃってよ、ママァ! 殺し屋とか、うちなら雇えるでしょ!? あいつら全員殺してよおおおおンキャアアアアアアアアア‼」

「そんなあ。無理よう。みんな貴族のお嬢さんなんだもの……あっ」

ガシャン。娘は壁際に走り寄ると花瓶を掴み、頭の上に振り上げ、棚に叩きつけて割った。破片が飛び散り、自身にも降りかかるが気にした様子もない。フウフウ肩で息をして、乱れた金髪を掻き毟る。破片を踏み躙【にじ】ると身を翻し、部屋の真ん中へ。まだ絨毯の厚みが残っているところへ来ると、赤ん坊のように寝転び、大声で泣き叫び始めた。……あーあ。

フィリクスは黙ったまま破片や水や花々を片付け始める。他の使用人たちが駆けつけてくることはない。普通の貴族家ならそうするだろうが、ここにいる無能どもはとばっちりを恐れ、主一家の持ち物を少しずつくすねるのに忙しい。

「ウギャーッ! あたしの、あたし、あたし、あたしの方が美人なああああああのにぃぃぃいいいいいい‼ なんでえ? なんでよおおおおおおおお!」

「ああん、落ち着いてペルアちゃんったら。ねっ? ねっ? んーまっ、んーまっ」

と、エイナは口を尖らせたり開閉させたりし、暴れる娘のお腹を撫でた。当然、手足が当たって殴られるのですぐ諦め、少し離れたところから呆然とその状態を眺める。まだ娘を赤ん坊と勘違いしているのだろうか?

やがて狂乱が落ち着くと、フィリクスは少し高くした猫撫で声で言った。

「さあ、メイドたちを呼んでお綺麗にいたしましょうね、お嬢様。おかわいいお顔が台無しですよ」

「ううう~っ、フィリクスぅ、うん。ひぐっ。……あいつらがねっ、悪いの!」

「ええ、そうですとも。ペルアお嬢様は悪くございませんとも」

「あいつら子爵とかの娘のくせに、あたしのこと見下して。ブスだから僻んでくるのお」

「なんとおいたわしい」

鼻水を垂らしながら抱き着いてくるペルアに、彼はげんなりした。顔には出さないまでも勘弁してくれと思う。下手をすれば自分が仕える貴族の令嬢に手を出したとしてお縄である。

エイナはにこにこその様子を眺めて手を叩く。

「わあ、ご機嫌、なおったねえ」

それから座り込んでペルアに近づいて、よしよしと頭を撫でた。

「あのね、ペルアちゃん? ママは跡取り息子の母親だからね、そんでペルアちゃんはその妹だからね。何してもいいのよ。でも別のおうちのお嬢さんに何かしちゃダメ。ママがパパに怒られちゃうから。いい?」

「うぬん……」

茶番劇にフィリクスはしらけた。エイナはのんびりした口調で続けた。

「そんなに怒ってばっかりだとぉ、くすくすっ。追い出されたルクレツィアとおんなじになっちゃうよ? イヤでしょ? あたしたちはルクレツィアに勝ったのよ。勝って、伯爵夫人と伯爵令嬢になったの。あたしたちはお貴族様なんだから、それらしくしてないと!」

――ばぎり。

と。フィリクスの耳の中で異音がした。

(いてっ)

極小の魔力石を触媒とする傍聴魔法。繊細な魔力操作を必要とする希少魔法だが、フュルスト商会の財力をもってすれば用意できないものはない。

ガイガリオン伯爵家のフットマンとして仕えて二か月半。フィリクスは常にその魔法を発動し、耳の奥に仕込んだ魔力石から中継し続けてきた。はるか遠方、大陸のあちこちを飛び回るアレクシアの元へ。

(たぶん受信の方の結晶をアレクシアが叩くかなんかしたな)

送信の方の魔力石がわずかにずれたのを、彼は首をかしげて修正した。

エイナは、元々平民の、よくある農家の娘であったという。よくある小さな村、濃密な人間関係、よくある貧乏と服従と耐久の日々。そこから逃げ出し、辻馬車の荷台に隠れて都市に向かい、ある賭博場でガイガリオン伯爵と出会った。恋に落ちたのだ、という。

ふん。フィリクスは鼻で笑ってしまう。

(世慣れぬ若き伯爵が、酒場の酌婦の手練手管にめろめろになって身持ちを崩した。とうとう妻までそのせいで失い、このままでは家までそうなる。ふん――)

夜になると父親と兄が帰ってきた。フィリクスは何食わぬ顔で給仕をする。今日が給仕当番の予定だったフットマンは、別の屋敷に面接に出かけて不在である。ガイガリオン伯爵家には、まっとうな使用人はほとんど残っていない。

ガイガリオン伯爵セオドアは、最初から怒り狂っていた。世を呪い、貴族を呪い、うまくいかない商売の責任転嫁できる先を探す。そしてそれはいる。この夕食室に、いる。

「金の燭台が見当たらない。どこへやったのだ、エイナ!」

「はあ……」

「使用人どもが盗んだに違いない、犯人を見つけ出せ!」

「だってえ……そんなあ……」

「それが貴族の妻の務めだろうが! できるできないですむと思うのか!?」

「仕事しない人が悪いんだもん。あたし注意してるもん。なのに言うこと聞かないんだもん。あの口入屋が変なのを紹介したのよ! あたし、悪くない!」

エイナは両手に顔を埋め、しくしく泣き出した。ガイガリオン伯爵はさらに怒り狂い、早口で聞こえない何かを怒鳴った。

仮にも血を分けた息子のはずなのに、長男のザイオスはどこか夢見心地で助け舟を出す様子もない。父親に次のターゲットにされ、成績が振るわないのを詰られてあたふたと言い訳する。

「エッ、でも、俺。俺もちょっとは頑張ってるんですよお? 最近、エマってかわいい男爵家の子と仲良くなって、彼女頭いいんで、勉強教えてもらってて……」

「勉学で女に負けるとは、恥を知れ! お前はこのガイガリオン伯爵家の跡取りなのだぞ! それに、ブレインフィールド伯爵家の令嬢との婚約はどうするつもりだ。エエ? ――ああ、お前たちをこの屋敷に入れるのではなかった。お前たちごときに我が家の舵取りなど務まるはずもなかったのだ……!」

すべては自分の身から出た錆なのだが、伯爵もまた、わかりたくないことに背を背けた人間の一人らしい。フィリクスはしらけた内心を表に出さないよう給仕をこなした。

――アレクシアがこの家で育つことがなく、よかったと思った。

さて、食事も終わり、一家は当然のように朝食室でごろごろして夜を過ごした。

(だからなんでだよ。朝の時間のための部屋だろ、ここ)

と思う。どうして立派な朝食用テーブルの上に所狭しとペンや花瓶やクッキーの乗った皿が置かれ、ソファや寝椅子が運び込まれ、そこで家族が集っているのか。とんとわからない。

あとになって古参の使用人に聞いた話では、関係が決定的に破綻する前、ガイガリオン伯爵とルクレツィアはともに朝食を取る時間を持つよう努力していたのだそうだ。互いに歩み寄ろうとしていた時期、かろうじて彼らが夫婦らしかったその頃のことを、彼は忘れられないのかもしれない。だが妻も娘も息子たちも、もうこの部屋で彼を待つことはない。二度と。

(馬鹿馬鹿しい。あまりにも滑稽だ)

と、フィリクスは内心、首を横に振る。なくしたものに固執する男は醜い。それ以上に、いつまでも過去の一点から動こうとしないありさまが惨めである。

翌朝、牛乳の配達人が小さな紙片を届けてきた。アレクシアの文字で、ごく簡潔にこう書かれていた。

――もう何もしないで。

――契約の早期終了。

フィリクスは目を細めて紙片を飲み込み、その日のうちに退職を願い出た。引き留められたが、家族の不幸で……としらばっくれた。

「そうなの。残念だわあ。いてほしい人こそ行っちゃうのよね」

とエイナはため息をついた。

「不義理を心苦しく思います、奥様」

「まあしょうがないよね。ご家族のことなんだもんね。あたしも家族のためならなんだってできるもん。気持ちわかるよ!」

と、にっこりする。ぞっとするほど幼くいとけない、少女のままの美貌。世の中の理不尽も悲しみも知らない無邪気さに、老いの気配が忍び寄る。たるみかけた頬と額。濃い睫毛は徐々に抜けてまばらになり、青い目の輝きは消える。自我のない綺麗なお人形。

ふと、フィリクスは聞いた。

「奥様、もし旦那様があなたに見栄を張っているのだとしたら、どうしますか」

「え?」

「旦那様がご自分で思っているほど王の御寵愛をいただいておらず、お金もないのだとしたら、あなたはどうします?」

エイナはぽかんとした。無垢な――無知なまま中年まで来てしまった者特有の、カラッポの表情だった。

ガイガリオン伯爵家にはこれといった代々の稼業がない。領地にも目立った産業はない。タリオン王の言う通りに、ただ彼の手駒となって働くのが強いて言えば事業である。新興商業への投資や貴族同士の土地の売り買いなどはあっても、家の経営を支える規模ではない。また、女主人がエイナであり、ルクレツィア母子に逃げられた醜聞から社交界での地位も切ないほど頼りない。

この家はハリボテだ。屋敷の手入れも使用人の躾もできない、人脈は王頼り。ただ見栄えがいいだけの男が力技で切りまわす、繁栄より破滅が近しい家。

「そんなの、あたしのせいじゃないもん」

エイナは柔らかく微笑んだ。

「あたし、旦那様に逆らったことないもん。何も口出ししてきてないもん。だからあたし、悪くないもん」

フィリクスは人好きのする笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。なんの価値もない、ただの女に。言い値で退職金まで出してくれるなんて、いい職場だった。

街道を歩きながら彼はコートの襟を立て、髪の毛をかき乱す。生真面目なフットマンの面影は消え、彼は瞬く間にただの男になる。少しばかり右肩上がりの姿勢で剣を使うとわかる、ただそれだけの男、おそらく傭兵だろうという印象以外の何も残さない男だ。

次の依頼は誰からくるどんなものだろう? アレクシアと同じほど金払いがよければいいが。

「ガイガリオン伯爵家……ね。来年まで家名だけでも残ってるもんだか」

自然と湧き上がってくる笑みをこらえて彼はひとりごちる。

「あの女はお前たちを自分の手で消すことに決めたようだが。さて、どうなるか」

あの女。アレクシア。貴族ではなく、まだ若く、権威も権力も王侯貴族に比べて塵ほどしか所有しておらず、それでも尚、青い目ばかりらんらんと光る彼女。誇り高いのなんて見ただけでわかる。なのに、あの連中はその虎の尾を踏んだ。嘲り笑った。おそらくは家族の中で罵る相手が必要だ、というだけの理由で。何かを貶めていないと家族とすら何を話せばいいかわからなくなるから、そんな理不尽で下等な理屈で。

アレクシアの逆鱗に、はたしてあの伯爵家が耐えられるだろうか?――答えはまだ、誰にもわからない。