軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七話 産気づく妻、走る夫

信長様が動いた。

その知らせを受けた時、勝家は、やはりかと思った。

清洲城での酒席から、ずっと胸の奥にあった予感。

今川の大軍を前にして、信長様がただ守るはずがない。

大高も、鳴海も、丸根も、鷲津も。

地図の上に置かれた城と砦を、信長様は楽しげに眺めていた。

あれは、守る者の目ではなかった。

獲物を狙う者の目だった。

今川義元を喰う。

おそらく、それしか見ていない。

そして今、その信長様が、ほとんどの家臣に告げぬまま出た。

早すぎる。

あまりにも早い。

だが、信長様らしい。

「兄上は、やはり行かれたか」

早馬で届いた文を手に、信行様はそう言ったという。

その文を勝家へ届けた使者は、息を切らしながら膝をついていた。

信行様からの文は短かった。

『兄上が動いた。鳴海を抑える。権六、来い』

それだけで十分だった。

勝家は文を握りしめる。

鳴海城。

岡部元信。

今川方の堅き城将。

信長様が義元へ向かうならば、鳴海を自由に動かしてはならぬ。

兄の道へ、横槍を入れさせぬ。

それが信行様の役目。

そして、その信行様の刃となるのが勝家の役目だった。

「馬を」

勝家は立ち上がった。

控えていた者たちが、一斉に動く。

鎧。

槍。

馬。

兵の呼集。

柴田家の屋敷は、瞬く間に戦支度の空気へ変わった。

その動きは早い。

この四年で、柴田家は変わった。

八右衛門が整えた帳面。

藤乃が教えた計算。

於光が回した人の動き。

勝豊が補佐する実務。

すべてが積み重なって、今の柴田家の速さになっている。

勝家は、そのことをよく知っていた。

武だけではない。

柴田家は、戦の前に走れる家になった。

それを作ったのは、藤乃だ。

ふと、奥の方へ意識が向く。

藤乃。

腹の子は、もういつ生まれてもおかしくない。

あのぺたんこだった腹は、今では大きく丸くなっている。

藤乃は、時折その腹を撫でて笑う。

少し不安そうに。

けれど、とても愛おしそうに。

勝家は、奥へ向かいかけた。

ひと目だけでも、顔を見てから出るべきか。

そう思った、その時だった。

屋敷の奥が騒がしくなった。

女中の足音。

於光の声。

低く抑えられた慌て声。

そして、こちらへ駆けてきた女中が、青ざめた顔で膝をついた。

「勝家様!」

「何だ」

「藤の方様が……産気づかれました!」

一瞬、すべての音が遠のいた。

産気。

藤乃が。

今、この時に。

勝家は、手の中の文を見る。

信行様の文。

兄上が動いた。

鳴海を抑える。

権六、来い。

その言葉が重い。

信長様が走る。

信行様がその道を守ろうとしている。

勝家は行かねばならぬ。

だが。

藤乃が、子を産もうとしている。

四年待った子。

藤乃が泣きながら、自分を責めながら、それでもようやく宿した命。

その子が今、生まれようとしている。

勝家の足は、奥へ向いていた。

行かねばならぬ。

藤乃のもとへ。

「馬は用意しておけ」

「はっ!」

勝家は短く命じ、奥へ向かった。

廊下を進む間にも、胸の奥が重く沈んでいく。

戦場に出る前に、迷いは不要だ。

そう教えられてきた。

そうしてきた。

だが、この迷いは、今までのどれとも違った。

妻が子を産もうとしている。

その時に、夫が戦へ行く。

これほど己の足が重くなるとは思わなかった。

部屋の前では、於光が女中たちに指示を出していた。

「湯を絶やさないで。布を多めに。医師と産婆はまだですか」

「間もなく!」

「勝豊、八右衛門殿を呼びなさい。奥の出入りを整えて」

「はい!」

勝豊が顔を真っ青にしながらも走る。

その横を抜け、勝家は部屋へ入った。

藤乃は、布団の上で息を荒くしていた。

顔は青ざめ、額には汗が浮かんでいる。

それでも、勝家を見ると、笑おうとした。

その顔を見た瞬間、胸が痛んだ。

「勝家様」

「藤乃」

勝家は膝をつく。

藤乃の手を取る。

熱い。

指先に力が入っている。

痛みを堪えている手だった。

「信行様から、文が来た」

勝家は言った。

言わねばならぬと思った。

隠して出ることはできなかった。

藤乃は苦しそうに息を吸い、それから小さく頷いた。

「信長様が、動かれたのですね」

勝家は息を呑んだ。

「なぜ分かる」

「勝家様のお顔で、分かります」

藤乃は、少しだけ笑った。

痛みに歪んだ、けれど強い笑みだった。

「信長様は、今川義元を喰いに行かれたのでしょう?」

勝家は答えなかった。

答えずとも、藤乃は分かっている顔だった。

「信行様は、鳴海を抑えるおつもりですか」

「……そうだ」

「勝家様も、行かれるのですね」

勝家は、藤乃の手を握る力を強めた。

「行かねばならぬ」

「はい」

藤乃は、すぐに頷いた。

その早さが、余計に苦しかった。

「でも」

勝家は言いかけた。

だが、その先が出ない。

今だけは、そばにいたい。

そう言ってしまいそうだった。

言ってはならぬ。

自分は柴田勝家だ。

信長様の家臣であり、信行様に託された刃であり、柴田家の主である。

行かねばならぬ。

だが、同時に、藤乃の夫でもある。

藤乃が、勝家の手を握り返した。

「勝家様」

「何だ」

「行ってください」

胸が、突き刺されたように痛んだ。

「藤乃」

「信長様を守ってください」

藤乃は、痛みを堪えながら、はっきりと言った。

「私は、この子を守ります」

その言葉に、勝家は何も言えなくなった。

藤乃の手が腹へ添えられる。

もうぺたんこではない腹。

そこに、勝家と藤乃の子がいる。

今まさに、生まれようとしている。

「信長様が走られるなら、誰かがその道を守らねばなりません。信行様が鳴海を見るなら、勝家様がそばにいなければ」

藤乃の声は震えていた。

痛みのせいか。

恐怖のせいか。

それでも、言葉は折れなかった。

「だから、行ってください」

「お前は」

「私は大丈夫です」

「大丈夫な顔ではない」

「そういう時に大丈夫と言うのが、妻の役目です」

「違う」

勝家は低く言った。

藤乃は少しだけ目を丸くした。

「違いますか」

「違う」

「では、何と言えば」

「……無理なら無理と言え」

藤乃は一瞬だけ黙った。

それから、泣きそうに笑った。

「無理です」

勝家の胸が詰まる。

「怖いです。痛いです。勝家様にそばにいてほしいです」

藤乃の目に涙が滲む。

だが、それでも藤乃は勝家を見る。

「でも、それでも、行ってください」

勝家は、奥歯を噛んだ。

この女は、いつもそうだ。

守られるだけではない。

自分の場所で、必ず何かを守ろうとする。

飢えた甥を守った。

燃える屋敷で千若を抱き締めた。

柴田家の実務を支えた。

勝家を支えた。

そして今、子を産む痛みの中で、信長様を守れと言う。

「勝家様」

「何だ」

「必ず、お戻りください」

藤乃は、勝家の手を強く握った。

「信長様も、信行様も、義銀も、皆で」

義銀。

そうだ。

義銀は信長様のそばにいる。

あの酒席で、義経公の逸話を口にした若武者。

信長様が、きっと連れて行く。

あの若者もまた、危うい道へ向かうのだろう。

藤乃は、それも分かっているのかもしれなかった。

「戻る」

勝家は言った。

「必ず戻る」

「はい」

「お前も、子も」

「はい」

「待っていろ」

藤乃は、涙をこぼしながら笑った。

「待っています」

勝家は、藤乃の手を両手で包んだ。

この手を離したくない。

そう思った。

だが、離さねばならぬ。

勝家は額を藤乃の手に軽く触れた。

祈るような仕草だった。

自分でも、そんなことをするとは思わなかった。

藤乃の息が止まった気配がした。

「勝家様」

「必ず戻る」

もう一度、そう言う。

そして勝家は立ち上がった。

於光が部屋の入口に立っていた。

「藤乃姫は、私が」

「頼む」

「はい」

於光の声は、静かだった。

だが、その目には強いものがあった。

「勝家」

「何だ」

「藤乃姫と御子を置いて行くのです。必ず勝ってお戻りなさい」

「分かっておる」

「その返事は半分です」

「……戻る」

於光は、少しだけ微笑んだ。

「それなら、よろしい」

勝家は頷き、部屋を出た。

廊下には八右衛門がいた。

顔色は悪い。

だが、いつものように胃を押さえてはいなかった。

「勝家殿、馬は整っております」

「信行様の兵と合流する道は」

「すでに。鳴海へ向かうなら、北から回る方が早うございます。伝令も出しました。留守の兵の配置も変えてあります」

「早いな」

「藤の方様が、こういう時のために手順を整えておられましたので」

勝家は、一瞬だけ奥を振り返った。

藤乃。

お前は、ここまで考えていたのか。

八右衛門は続けた。

「勝豊には奥の雑事を手伝わせます。義冬殿は……」

「義冬は」

勝家が言いかけた時、廊下の向こうから義冬が駆けてきた。

顔を青ざめさせている。

「勝家叔父上!」

「義冬」

「叔母上は」

「於光がついている」

「私も」

「お前は屋敷に残れ」

義冬の顔が強張る。

「ですが」

「藤乃を守れ」

その一言で、義冬は息を呑んだ。

勝家は義冬の肩に手を置く。

「お前の役目だ」

義冬の目が揺れる。

まだ十三の少年。

だが、もう元服した若武者でもある。

義冬は、歯を食いしばり、深く頭を下げた。

「承知いたしました」

「頼む」

「はい!」

勝家は八右衛門へ向き直った。

「八右衛門」

「はい」

「留守居、頼んだ」

八右衛門の顔が、わずかに引き締まった。

それは、家令へ向けた命であり、義兄へ向けた信頼でもあった。

この屋敷を。

於光を。

藤乃を。

生まれてくる子を。

そして、義冬や勝豊たちを。

すべて任せる、という意味だった。

八右衛門は深く頭を下げた。

「承知いたしました」

いつものように胃を押さえることもなく、八右衛門はまっすぐに言った。

「柴田の屋敷は、私が守ります。藤の方様も、御子も、必ず」

勝家は頷いた。

「頼む」

「勝家殿」

「何だ」

「必ず、お戻りください」

勝家は短く答えた。

「戻る」

その一言に、迷いはなかった。

外へ出る。

馬が待っていた。

兵たちもすでに集まり始めている。

夜の空気は重く、湿っていた。

遠くで、今川の大軍が尾張へ迫っている。

信長様は、おそらくもう走り出している。

信行様は、鳴海を抑えるために動いている。

義銀は、信長様のそばにいるだろう。

藤乃は、奥で子を産むために戦っている。

それぞれの戦が、同じ夜に始まっていた。

勝家は馬に乗った。

手綱を握る。

その時、奥から藤乃の声が聞こえた気がした。

苦しげな息遣い。

それでも、確かに送り出す声。

勝家様。

行ってください。

私は、この子を守ります。

勝家は目を閉じ、すぐに開いた。

迷いは置いていく。

だが、藤乃を置いていくわけではない。

藤乃と子が生きる明日を守るために行く。

「出るぞ」

勝家の声に、兵たちが応じる。

馬が走り出す。

夜の風が頬を打つ。

桶狭間の前夜。

信長様は、今川義元を喰うために走る。

信行様は、その道に横槍を入れさせぬために動く。

勝家は、鳴海を抑えるために駆ける。

そして藤乃は。

柴田家で、命を産むために戦っている。

勝家は、夜の向こうを睨んだ。

「必ず戻る」

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

馬蹄の音が、闇を裂いた。