作品タイトル不明
第一話 私のお腹は今日もぺたんこです
私、柴田勝家の奥さんになって四年が経ちました。
……が。
私は、今日もぺたんこです。
ちょっと、今、胸を想像した人は正座ね!
そっちもぺったんこだけれども、そっちじゃない!
今問題にしているのは、お腹です。
お腹。
柴田勝家の妻となって四年。
四年である。
四年もあれば、普通は一人や二人、子が生まれていてもおかしくない。
いや、この時代なら、なおさらだ。
戦国時代の正妻である。
家を繋ぐ。
子を産む。
後継ぎを育てる。
それが当然の役目として見られる。
にもかかわらず、私のお腹は今日もぺたんこだった。
「……ぺたんこ」
思わず、ぽそりと呟いた。
湯浴みの後、薄衣の上から自分の腹を撫でる。
うん。
見事に平らである。
いや、前世基準で言えば、痩せているとかそういう話ではない。
むしろこの四年で、柴田家のご飯のおかげでようやく人間らしい肉がついた。
守護邸にいた頃の私は、本当に痩せていた。
米櫃の底を覗き、葱に助けられ、義銀と千若に自分の膳を譲り、気づけば自分の身体を後回しにしていた。
あの頃よりは、ずっと健康になったと思う。
於光様にも、顔色が良くなったと言われる。
八右衛門殿にも、倒れそうな細さではなくなったと遠回しに言われる。
勝家様には、相変わらず「軽い」と言われる。
いや、最後は納得していない。
四年も経ったのだから、そろそろ「軽い」以外の感想が欲しい。
……いや、そういう話ではない。
問題は、お腹である。
子ができない。
それが、この四年、私の胸の奥にずっと沈んでいる石だった。
柴田勝家の妻。
柴田のお藤の方。
そう呼ばれることには、もう少し慣れた。
最初は、自分が「お藤の方」と呼ばれるたびに心臓が変な動きをしていた。
でも、人間とは慣れる生き物である。
いまでは、そう呼ばれても返事くらいはできる。
たぶん。
たまに勝家様に「お藤」と呼ばれると、いまだに心臓が跳ねるけれど。
それは仕方ない。
夫がかっこいいのが悪い。
私は悪くない。
柴田家での暮らしも、すっかり日常になった。
帳面を見る。
兵糧の確認をする。
蔵の出入りを見る。
人手の足りないところへ回す。
炊き出しの手順を整える。
怪我人が出た時のために布や薬を分けておく。
計算の仕方を、女中や文官たちへ少しずつ教える。
最初は「姫君が帳面を」と驚かれた。
次に「お藤の方様の計算は早い」と言われた。
今では「この帳面、お藤の方様にも見ていただいた方が早いのでは」と言われる。
うん。
ありがたい。
ありがたいけれど、私の扱い、姫から帳面確認係になっていませんか?
いや、いい。
役目があるのはありがたい。
何もしないで座っているより、ずっといい。
前世知識も、少しずつ周りに伝えるようになった。
もちろん、全部をそのまま出せるわけではない。
令和の知識です、などと言えるはずがない。
だから、守護邸にあった燃えた文書で覚えたことにしている。
燃えた文書、本当に便利。
もう確認できないからね。
ただし、そのたびに八右衛門殿が痛ましそうな顔をするので、少しだけ罪悪感がある。
でも、仕方ない。
前世の小学校で習いました、とは言えない。
私が教えた筆算や検算の方法は、柴田家の中でかなり役に立った。
帳面の間違いが減った。
蔵の出入りが見やすくなった。
兵糧の計算も早くなった。
八右衛門殿は、一時期、ものすごい勢いで私のところへ来た。
「お藤の方様、この割り算というものですが」
「お藤の方様、人数と日数を掛け合わせる場合は」
「お藤の方様、兵糧の消費見込みを」
あの時期の八右衛門殿の目は、少し怖かった。
実務の人が便利な道具を見つけた時の目だった。
その代わり、八右衛門殿は私の知識を柴田家の実務へ落とし込むのがとても上手だった。
私は思いつく。
八右衛門殿が形にする。
於光様が屋敷内へ広げる。
勝家様が必要な場面で使う。
そんな流れが、この四年でできた。
おかげで柴田家は、織田家中でもかなり重要な家になりつつある。
いや、勝家様がもともと強いからでもある。
それは間違いない。
鬼柴田。
そう呼ばれる夫は、戦場では本当に強い。
私は戦場を直接見たわけではないけれど、帰ってくる家臣たちの顔を見れば分かる。
勝家様がいるだけで、場が締まるのだ。
強い武将。
信長様と信行様双方から信頼される家臣。
そして、内政面でも動ける柴田家。
こうして見れば、柴田家は順調だった。
とても順調だった。
義銀も、立派になった。
もう二十一歳である。
いや、嘘でしょ。
この前まで魚籠を抱えて走っていた十四歳だったのに。
今では信長様の側で学び、時に意見を求められ、奇妙丸様の兄分のような立場になっている。
奇妙丸様。
信長様の御子である。
まだ幼い。
けれど、目が強い。
あの目、絶対信長様の血だと思う。
義銀と義冬は、名目上は「教育の補佐」として信長様の側へ出入りしている。
だが、実際にはもっと重い役目なのだと思う。
奇妙丸様のそばに、若いが信長様に認められた者たちを置く。
しかも、片方は斯波の名を持つ義銀。
もう片方は義銀の弟で、勝家様を烏帽子親に持つ義冬。
信長様、絶対いろいろ考えている。
あの人が何も考えずにそんな配置をするはずがない。
義銀は、奇妙丸様に対して兄分らしく接している。
礼を教え、書を読み、時に子供らしいわがままを受け止める。
義冬は、もう少し距離が近い。
奇妙丸様と一緒に走り回って、勝家様にまとめて叱られることもある。
いや、義冬。
あなた、元服したんだから少し落ち着こう?
そう。
千若は元服した。
名を、義冬と改めた。
十三歳。
早い。
まだ私の中では、台所で葱を抜いてきてくれた六歳の千若なのに。
元服の烏帽子親は、勝家様が務めた。
あの日の義冬は、緊張で顔が強張っていた。
でも、勝家様に烏帽子を戴いた瞬間、目が潤んでいた。
私も泣きそうになった。
というか、少し泣いた。
於光様に手拭いを差し出された。
さすが於光様。
準備がよすぎる。
義冬にとって、勝家様は命の恩人であり、義理の叔父であり、武の師であり、烏帽子親になった。
もはや、ほぼ父である。
義冬は勝家様を「勝家叔父上」と呼ぶ。
義銀も同じように呼ぶ。
その声を聞くたび、勝家様の目元が少しだけ柔らかくなる。
本人は気づいていないかもしれないが、私は気づいている。
この人、甥っ子たちにめちゃくちゃ甘い。
ただし鍛錬では容赦がない。
義冬は、義銀の背を追いながら、本当にまっすぐ育ってくれた。
十三歳とは思えないほど、周囲を見ている。
昔から我慢強い子だった。
お腹が空いても泣かなかった子。
怖くても、私の袖を掴んで黙っていた子。
その子が今、勝家様の前で木槍を振り、信長様の側で奇妙丸様に付き、義銀に叱られながらも笑っている。
ありがたい。
本当に、ありがたい。
そして、もう一人。
勝豊。
八右衛門殿と於光様の息子である。
義冬より二つ年上。
つまり、今は十五歳。
この勝豊が、また良い子なのだ。
父親譲りで現実を見る目がある。
母親譲りで度胸もある。
ただし、勝家様の後継ぎという話になると、顔を真っ青にして全力で首を横に振る。
「無理です! 勝家叔父上の跡継ぎなんて、私には無理です!」
最初にそれを聞いた時、私は少し驚いた。
でも、勝豊は本気だった。
「私は帳面や家のことなら手伝えます。でも柴田の旗を背負って、織田家中で戦うとか、本当に無理です。義銀殿や義冬殿の方が絶対に向いています」
勝豊は、義冬より二つ年上だ。
普通なら、年下に負けたくないと思ってもおかしくない。
でも勝豊は、義冬の凄さを本気で認めている。
「あの子、私より二つ下なのに、覚悟があるんです。義冬殿は、自分が誰に助けられて、何を背負っているか分かっている顔をします」
勝豊はそう言った。
その言葉を聞いた時、私は胸が熱くなった。
義冬がすごいのも嬉しい。
でも、それを認められる勝豊もすごい。
柴田家の若い子たちは、本当に良い子に育っている。
だからこそ。
余計に、私のお腹がぺたんこであることが重かった。
「お藤の方様」
女中の声で、私は我に返った。
「あ、ごめんなさい。少し考え事をしていたわ」
「お疲れではございませんか?」
「大丈夫よ」
そう答えたけれど、女中の目が私のお腹へ向いた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、最近はそういう視線に敏感になっている。
四年。
子ができない。
その事実は、私だけの問題ではない。
柴田家の問題になりつつある。
勝家様は、何も言わない。
本当に何も言わない。
子ができないことについて、私を責めたことは一度もない。
むしろ、私が気にしていると分かると、少し不機嫌そうな顔で「気にするな」と言う。
でも、気にするなと言われて気にしなくなるなら、人間は苦労しない。
私は柴田勝家の正妻だ。
ならば、後継ぎを産むことを期待される。
当然だ。
分かっている。
分かっているから、苦しい。
私の身体が悪いのかもしれない。
守護邸にいた頃、ろくに食べられなかった。
長い間、栄養が足りなかった。
自分の膳を義銀や千若に回したことも、何度もある。
そのせいで、身体が子を宿せる状態ではなくなっていたのではないか。
そんなことを考えてしまう。
もちろん、原因なんて分からない。
この時代に、詳しく調べる術などない。
でも、責める相手がいない時、人は自分を責める。
私は、自分の腹をそっと押さえた。
今日もぺたんこ。
何もいない。
そこが、どうしようもなく寂しかった。
「お藤の方様?」
「あ、何でもないわ」
私は笑った。
いつものように。
大丈夫、と。
でも、その笑顔はたぶん、少しだけ下手だった。
その日の夕方。
私は帳面の確認を終え、八右衛門殿に渡す文を届けに向かった。
本来なら女中に頼めばよい。
でも、じっとしていると余計なことを考えてしまうので、つい自分で動いてしまった。
廊下を歩き、奥の部屋の近くまで来た時だった。
中から、八右衛門殿の声が聞こえた。
「……勝家殿」
足が止まった。
声が、いつもより低い。
軽い話ではない。
そう分かった。
私は引き返すべきだった。
ここで聞いてはいけない。
そう思った。
けれど、次の言葉で、足が動かなくなった。
「側室や、最悪、子だけでも考えていただけませぬか」
息が止まった。
視界が揺れる。
側室。
子だけでも。
その言葉は、いつか聞くかもしれないと思っていた。
いつか誰かが言うと思っていた。
でも、実際に聞くと、思っていたよりずっと痛かった。
胸の奥を、冷たい刃で撫でられたようだった。
私は、文を持つ手に力を込める。
逃げたい。
でも、逃げられない。
部屋の中で、勝家様の声がした。
低く。
怒りを押し殺したような声だった。
「八右衛門」
私は、廊下の影で息を詰めた。
その声を聞いた瞬間、涙が出そうになった。
でも、まだ泣いてはいけない。
中で、何が話されるのか。
聞いてはいけない。
そう思いながら。
私はその場から、動けなくなっていた。