作品タイトル不明
第二十話 清洲評議
清洲城の広間は、朝の光に満ちていた。
けれど、その場に集う者たちの顔は、晴れているとは言い難かった。
織田家の古参家臣であるその老臣もまた、胸の内に重いものを抱えて座していた。
昨夜、勘十郎信行様が兵を挙げた。
そう聞いた時、老臣は覚悟した。
ついに来てしまったのだ、と。
信長様と信行様。
兄と弟。
どちらも、織田の血を引く若君である。
信長様は鋭すぎた。
見ている先が遠すぎる。
動く足が速すぎる。
家臣たちが一つ理解する頃には、すでに三つ先へ進んでいる。
その速さについていけぬ者は多かった。
一方で、信行様は穏やかだった。
礼を重んじ、家臣の言葉を聞き、母君にもよく仕える。
信長様を恐れる者たちにとって、信行様は安心できる若君だったのだろう。
だからこそ、恐ろしかった。
安心できる若君を旗にして、信長様を排そうとする者が出る。
そうなることは、老臣にも見えていた。
見えていたのに、止めきれなかった。
織田家は、また血を流すのか。
兄弟で争うのか。
それを思うと、胸が痛んだ。
だが、今朝の広間で老臣が見たものは、予想していたものとは違っていた。
上座には、信長様がいる。
いつも通り、恐ろしいほどに涼しい顔で座している。
口元には薄く笑みさえ浮かべていた。
そして、その隣。
少しだけ後ろに控えるように、信行様が座していた。
後ろすぎない。
けれど、信長様と同じ位置ではない。
兄を押しのける場所ではなく、兄を支えるための場所。
その姿を見た瞬間、老臣は息を呑んだ。
ああ。
これは、降った姿ではない。
屈した姿でもない。
信行様は、信長様の隣にいる。
兄と争うためではなく、兄を支えるためにそこにいる。
そのことが、老臣には分かった。
分かってしまった。
視界が滲みかける。
泣くな。
この年で、若君方の前で涙をこぼすなど、みっともない。
そう思い、老臣は必死に目を伏せた。
だが、胸の奥は熱かった。
兄弟は、まだ終わっていない。
信長様と信行様は、まだ同じ場所に立てる。
それだけで、老臣には十分すぎた。
広間には、昨夜捕らえられた者たちの名が並べられていた。
信行様の周囲に集まった者たち。
その中には、三つの色があった。
ひとつは、本気で信行様を案じていた者たち。
信長様の速さを恐れ、信行様がいずれ討たれるのではと案じ、けれど兄弟が争うことまでは望まなかった者たちである。
彼らは昨夜、信行様が信長様の隣に立った時、迷わず不穏分子を打ち破る側に回った。
ひとつは、流された者たち。
どちらにつくべきかを見極められず、空気に押され、あるいは保身のために身を寄せた者たちである。
そして、最後のひとつ。
信長様でもなく。
信行様でもなく。
織田家でもなく。
ただ兄弟を争わせ、その混乱で己の立場を上げようとした者たち。
昨夜、釣り上げられた鼠ども。
評議の場に並べられた名を見ながら、老臣は奥歯を噛んだ。
この者たちが、兄弟を殺し合わせようとした。
信行様を旗にし、信長様を討てと囁いた。
許し難い。
だが、信長様は怒鳴らなかった。
ただ、楽しげに笑っていた。
それが逆に恐ろしい。
「さて」
信長様の声が、広間に響く。
「昨夜の騒ぎ、よう釣れた」
誰も笑わなかった。
笑えなかった。
信長様だけが、愉快そうだった。
「まず、第一の功」
その言葉に、広間の者たちが姿勢を正す。
誰の名が呼ばれるのか。
誰もが、柴田勝家の名を思い浮かべたのではないか。
信行様を止め、信長様のもとへ連れて行き、さらに昨夜の芝居を支えた男。
鬼柴田。
その功は明らかである。
だが、信長様が口にした名は違った。
「勘十郎」
広間が揺れた。
信行様が、静かに顔を上げる。
信長様は弟を見た。
「お前が第一の功だ」
「……兄上」
「己を餌にして鼠を釣った。怖いと認めながら逃げず、儂の隣に立った。ならば、第一の功はお前だ」
老臣は、今度こそ涙がこぼれそうになった。
信行様の顔が、ほんの少しだけ歪む。
だが、泣かなかった。
信行様は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
そして、顔を上げた時には、少しだけ笑っていた。
「では、ありがたく」
信行様は、ほんのわずかに冗談めかして言った。
「兄上の後ろを追いかける早馬が欲しいところですね」
広間に、かすかな笑いが走った。
緊張しきっていた空気が、少しだけ緩む。
信長様の口元が上がる。
「早馬か」
「はい。兄上は速すぎますゆえ」
信行様は続けた。
「私が兄上の道を舗装する前に、兄上が次の山を越えておられそうで」
今度は、確かに笑いが起きた。
小さなものだったが、温かい笑いだった。
信長様は愉快そうに弟を見る。
「言うようになったな、勘十郎」
「兄上の隣に立つなら、このくらい申せねば胃がもちませぬ」
「胃か」
信長様が笑う。
「柴田の家令のようになるつもりか」
信行様は、少しだけ真面目な顔で答えた。
「それも役目ならば」
その言葉に、老臣は胸を打たれた。
信行様は、自分の役目を見つけたのだ。
信長様の代わりになるのではない。
信長様を討つのでもない。
信長様が切り開いた道を、堅実に踏み固め、後続の大軍を進ませる。
その役目を、自ら選んだ。
信長様は満足げに頷いた。
「よかろう。早馬をやる」
「ありがとうございます」
「ただし、馬だけで追いつけると思うなよ」
「承知しております」
信行様が深く頭を下げる。
その姿は、昨日まで担がれていた若君とは違って見えた。
次に、信長様の視線が動く。
「第二の功」
広間が再び静まる。
今度こそ、誰もが分かっていた。
「柴田権六」
勝家が頭を下げる。
「はっ」
「勘十郎を止め、儂のもとへ連れてきた。さらに昨夜、勘十郎の側に立ち、鼠どもを釣り上げた」
信長様の声は軽い。
けれど、その評価は重い。
「よくやった」
「ありがたき幸せにございます」
勝家は短く答えた。
いつも通り、余計なことは言わない。
信長様は続ける。
「金子を与える。馬も一頭。槍も新たに用意させる」
「はっ」
「それから」
信長様が、少しだけ面白そうに目を細めた。
「他に欲しいものはあるか」
その問いに、勝家は一瞬だけ止まった。
老臣は首を傾げる。
鬼柴田が褒美をねだる姿など、想像しにくい。
金子か。
馬か。
槍か。
それとも兵か。
そう思った次の瞬間だった。
勝家の口が、ぽつりと動いた。
「藤乃殿……」
広間が、止まった。
勝家自身も止まった。
信長様の目が、愉快そうに光る。
「ほう」
勝家の顔が、見る間に強張った。
「あっ、いえ」
珍しく、声が乱れた。
「何でもございませぬ」
広間がざわついた。
藤乃殿。
藤乃殿と言ったか。
斯波の姫君か。
柴田家に預けられている、あの姫君か。
義銀様と千若丸様の叔母にあたる、あの藤乃姫か。
あの武芸一辺倒の鬼柴田が。
姫を?
老臣もまた、思わず目を丸くした。
柴田勝家といえば、武骨な男である。
槍を持たせれば鬼。
戦場では頼もしく、平時では言葉が足りず、説明を省き、家令の胃を痛める男。
その勝家が、褒美を問われて、よりにもよって姫君の名を漏らした。
広間の空気が、戦とは別の意味でざわめく。
信行様が、口元を押さえている。
笑いを堪えているのが分かった。
信長様は、もはや隠す気もなく笑っていた。
「権六」
「はっ」
「何でもない、とは聞こえなんだが」
「……何でもございませぬ」
「斯波の姫が欲しいと聞こえたが」
「申し上げておりませぬ」
「名は呼んだな」
勝家は黙った。
完全に詰んでいた。
老臣は、胸中でそっと思った。
これは戦場よりも逃げ場がない。
信長様は楽しそうに笑う。
「勘十郎」
「はい、兄上」
「お前は聞いたか」
信行様は、きわめて真面目な顔を作った。
だが、目が笑っている。
「はい。藤乃殿、と」
「だそうだ」
勝家の肩が、わずかに強張る。
広間のざわめきはますます大きくなる。
信長様はそのざわめきを楽しむように聞いた後、ふっと笑みを薄くした。
「静まれ」
一言で、広間が静まった。
信長様は勝家を見る。
「権六。斯波の姫は、ただの褒美にできる女ではない」
その声に、場の空気が変わる。
軽い茶化しから、評議の重みに戻った。
勝家は深く頭を下げる。
「承知しております」
「義銀と千若丸の叔母。斯波の血を引く姫。さらに、あの義銀を育てた女だ」
信長様は、少しだけ目を細めた。
「あれを望むなら、褒美ではなく、筋を通せ」
勝家は、顔を上げなかった。
けれど、その声ははっきりしていた。
「……はっ」
老臣は、その返事を聞いて思った。
これは、ただの口の滑りでは終わらない。
鬼柴田は、己で気づいているかどうかはともかく、あの姫を望んでいる。
そして信長様は、それを見逃すつもりがない。
信行様が、小さく咳払いをした。
「兄上」
「何だ」
「権六には、早馬よりもまず言葉の稽古が必要かと」
今度こそ、広間に笑いが起きた。
勝家は黙っている。
信長様は愉快そうに笑った。
「それは於光に任せる」
「於光殿でも手に余るのでは?」
「なら、斯波の姫に任せればよかろう」
勝家の顔が、さらに固まった。
広間がまたざわつく。
老臣は、思わず口元を緩めた。
今朝の清洲評議は、血なまぐさい仕置の場になるはずだった。
実際、これから厳しい処分が下される。
兄弟を争わせようとした者たちは、軽くは済まない。
信行様を旗にして己の欲を遂げようとした者たちは、その報いを受けるだろう。
けれど、この場には確かに別のものもあった。
信長様と信行様が並ぶ姿。
信行様が己の役目を得た姿。
勝家が姫君の名をうっかり漏らし、広間をざわつかせる姿。
それらは、織田家がまだ立て直せることを示しているように思えた。
信長様が立ち上がる。
空気が変わる。
笑いは消え、家臣たちが姿勢を正した。
「さて、褒賞はここまでだ」
信長様の声が、清洲城の広間に響く。
「次は、仕置を決める」
その瞬間、場の空気が凍った。
老臣は背筋を伸ばした。
ここからが、本当の評議である。
だが、老臣の胸には、先ほど見た光景が残っていた。
信長様の隣に、少し後ろで座る信行様。
信長様を支えると決めた弟の姿。
その姿だけで、老臣はもう一度、泣きそうになった。
織田家は、まだ終わらない。
兄弟が並ぶ限り。
そして、その道を支える者たちがいる限り。