作品タイトル不明
第十三話 もう一人の兄
本当に、兄弟を仲違いさせてよろしいのですか。
藤乃姫の言葉が、耳に残っていた。
柴田勝家は、口数の多い男ではない。
考えたことを、すべて口にする質でもない。
感情を表に出すことも得意ではなかった。
だが、何も感じていないわけではない。
むしろ、言葉にせぬ分、胸の奥に沈むものは重い。
藤乃姫は、不思議な女だった。
斯波の姫でありながら、姫らしく振る舞うことに慣れていない。
守られるより先に、誰かを守ろうとする。
食べるより先に、甥たちに膳を回そうとする。
休めと言われても、役目を探す。
あの日、燃える守護邸で初めて見た藤乃姫は、幼い千若丸を抱えていた。
足を痛めてもなお、自分を置いて甥たちを逃がせと言った。
あの時、勝家は腹が立った。
歩けぬ女を置いて行けるはずがない。
まして、その女は、幼い子を守るために最後まで腕を緩めなかった。
勝家は、そういう者を見捨てられない。
だから助けた。
ただ、それだけだった。
けれど、あの日から、物事は少しずつ変わっていった。
斯波義銀は、ただ守られるだけの若君ではなかった。
父を失いながらも、叔母と弟を救うために頭を下げた。
信長様の前で、名より飯を選ぶと言い切った。
今は信長様の側で学び、勝家のもとで槍を振るっている。
千若丸は、まだ幼い。
だが、兄をよく見ている。
藤乃姫の袖を掴む手にも、義銀の背を追う目にも、家族を失いたくないという必死さがある。
そして藤乃姫は。
あの姫は、時折、勝家が思いもよらぬことを言う。
本当に、兄弟を仲違いさせてよろしいのですか。
その言葉は、勝家の胸に深く残った。
兄弟。
勝家にとって、織田信長と勘十郎信行は、ただの兄弟ではない。
主筋である。
織田家の内にある、二つの柱である。
信長様は、鋭い。
荒いように見えて、誰よりも先を見る。
時に周囲が追いつけぬほど早く動き、時に人を試す。
勘十郎様は、真面目だ。
礼を重んじ、家臣の言葉を聞き、母君にもよく仕える。
周囲から見れば、織田の若君としてふさわしく映るのだろう。
だからこそ、担がれる。
勝家はそれを知っていた。
勘十郎様の周りに集う者たちの声は、日に日に甘くなっている。
信長様は粗暴である。
信長様では織田は乱れる。
勘十郎様こそ、織田を継ぐにふさわしい。
そう囁く。
それらは一見、忠言のように聞こえる。
だが違う。
あれは、毒だ。
耳に心地よい毒。
勘十郎様は優しい。
己を慕う者を、無下にできない。
己を頼る者を、突き放せない。
そして、その優しさにつけ込む者がいる。
勝家は、それを見ていた。
見ていながら、どこかで仕方がないと思っていた。
自分は勘十郎様に近い。
織田家中の力の流れから見れば、勝家が勘十郎様を支えるのは自然である。
信長様は強い。
だが、その強さを恐れる者も多い。
勘十郎様を立てたい者たちがいるのも、分からぬではない。
だが。
兄弟を争わせる者は、その兄弟のどちらの味方でもないと思います。
藤乃姫の声が、また胸の奥に響いた。
勝家は目を閉じた。
思い出すのは、あの日の義銀だった。
父を失ったばかりの少年が、泥に膝をつき、魚籠を抱えたまま頭を下げた。
『父はだめでも、叔母と千若を助けてください!』
あの少年は、父を救えぬ己を責めながらも、弟と叔母を救おうとした。
そして千若丸を抱えて、馬を走らせた。
兄弟とは、そういうものではないのか。
少なくとも、幼い千若丸は兄の腕を信じていた。
義銀は、弟を落とさぬよう必死に抱えていた。
ならば。
信長様と勘十郎様も、初めから憎み合っていたわけではあるまい。
勝家は立ち上がった。
「どちらへ」
八右衛門が問うた。
勝家は短く答えた。
「勘十郎様のもとへ」
八右衛門の眉間が寄る。
「お一人で?」
「まずは話す」
「勝家殿」
八右衛門は、胃を押さえながらも、珍しく強い声を出した。
「お気をつけください。今、勘十郎様の御側にいる者どもは、あなた様の言葉も利用しかねません」
「分かっておる」
「本当に?」
於光の声が重なった。
勝家は黙った。
姉の声は、藤乃姫とは違う意味で胸に刺さる。
於光は静かに言った。
「勝家。あなたは言葉が足りません」
「……知っておる」
「知っているだけでは足りません。勘十郎様にお話しするなら、きちんと言葉にしなさい」
「きちんと」
勝家は少し考えた。
自信はない。
槍ならば分かる。
敵との距離も、馬の足も、兵の呼吸も分かる。
だが、人の心を言葉で動かすのは、苦手だった。
於光はため息を吐く。
「藤乃姫の言葉を、そのまま借りてもよろしいのでは?」
勝家は姉を見る。
「兄弟を仲違いさせてよいのか、です」
勝家は、ゆっくり頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「……分かった」
於光はまだ疑わしそうだったが、それ以上は言わなかった。
八右衛門は小さく呟く。
「どうか、余計な血が流れませぬように」
勝家は何も答えず、屋敷を出た。
勘十郎信行の屋敷には、いつもより人が多かった。
いや、人が多いこと自体は珍しくない。
問題は、その者たちの目だった。
信行を主と仰ぐ目。
それはよい。
だが、その奥に、別の熱がある。
信長への不満。
信長への恐れ。
信長を除けば自分たちの立場が上がるという期待。
勝家は、それを見た。
屋敷に通されると、幾人かの家臣が信行のそばに控えていた。
その中には、見慣れた顔もあった。
彼らは勝家を見ると、安堵したように笑った。
「柴田殿、よくぞお越しくださいました」
「勘十郎様のため、いよいよお力添えを」
「信長様では、織田は――」
勝家は、口を挟まなかった。
ここで正すべきではない。
ここで言えば、彼らは身構える。
藤乃姫の言葉ではないが、兄弟を争わせる者がどちらの味方でもないというのなら、まずはその者たちを見極めねばならぬ。
勝家は信行を見た。
「勘十郎様」
「勝家」
信行は少しだけ安堵した顔をした。
その顔を見て、勝家は胸の奥が苦くなった。
この方は、今なお自分を頼っている。
幼い頃からそうだった。
信長様は、眩しく、遠く、恐ろしい兄だった。
勘十郎様にとって、信長様は届かぬ兄だった。
一方で、勝家はそばにいた。
稽古を見た。
叱った。
馬の乗り方を教えた。
泣き言を聞いたこともある。
信行は、勝家をただの家臣として見ていなかった。
もう一人の兄のように思っている。
勝家も、それを知っていた。
だからこそ、ここで間違えてはならない。
「勘十郎様と、二人でお話ししたき儀がございます」
周囲がざわめいた。
信行を担ぐ者たちは、勝家がいよいよ腹を決めたのだと思ったのだろう。
顔を見合わせ、期待を滲ませる。
「柴田殿」
一人が言う。
「我らも同席を――」
「不要」
勝家は短く言った。
男は言葉を詰まらせる。
勝家は信行を見た。
「勘十郎様」
信行は、しばらく勝家を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「皆、外せ」
「しかし」
「外せ」
いつになく強い声だった。
周囲の者たちは不満げだったが、信行の命に従い、部屋を出ていく。
襖が閉まる。
足音が遠ざかる。
その気配が完全に消えるまで、勝家は口を開かなかった。
二人きりになった部屋には、妙な静けさが残った。
信行が小さく息を吐く。
「勝家」
「はっ」
「お前も、私に立てと言いに来たのか」
勝家は、信行を見る。
二十になった若君。
真面目で、礼を重んじ、周囲に慕われる若君。
だが今、その顔には疲れがある。
期待と不安に挟まれ、逃げ場を失った者の顔だった。
勝家は静かに言った。
「お尋ねしたきことがございます」
「何だ」
「勘十郎様は、本当に信長様を討ちたいのでございますか」
信行の顔から、血の気が引いた。
「……勝家」
「お答えください」
信行は口を開きかけ、閉じた。
しばらく、沈黙が落ちる。
やがて、信行は俯いた。
「分からぬ」
それは、かすれた声だった。
「兄上は、恐ろしい」
勝家は黙って聞いた。
「兄上は、私には見えぬものを見ておられる。私には分からぬことを、平然となさる。周囲が止めても止まらぬ。母上も、家臣たちも、兄上を恐れている」
信行の手が、膝の上で握られる。
「皆が言うのだ。私が立たねばならぬと。私ならば、織田を穏やかに治められると。兄上では、家中が乱れると」
「勘十郎様ご自身は」
勝家は問う。
「信長様を討ちたいのですか」
信行は、顔を歪めた。
「討ちたいなどと、思ったことはない」
その言葉を聞いた瞬間、勝家の胸の奥で何かがほどけた。
やはり。
この方は、まだ戻れる。
信行は続けた。
「だが、兄上は私を疎んじておられる。いずれ私は邪魔になる。そう皆が言う。ならば、先に立たねばならぬと」
「皆とは、誰でございますか」
信行は黙った。
勝家は続けた。
「その者たちは、勘十郎様が兄君を斬った後も、あなた様に忠義を尽くす者ですか」
信行が顔を上げる。
「兄君を討てば、勘十郎様は主になれるやもしれませぬ」
勝家は、低く言った。
「ですが、その時、勘十郎様の周りに残るのは、兄弟を斬らせた者どもです」
信行の目が揺れた。
「その者らを、勘十郎様は信じられますか」
信行は答えなかった。
答えられなかったのだろう。
勝家は、深く息を吸った。
ここから先は、言葉が要る。
姉に言われた。
藤乃姫の言葉を借りてもよいと。
だから、勝家は言った。
「本当に、兄弟を仲違いさせてよろしいのですか」
信行の顔が歪んだ。
「私は……」
声が震えていた。
「私は、兄上と争いたいわけではない」
それは、主君が家臣に漏らす声ではなかった。
幼い弟が、兄の袖を掴むような声だった。
「勝家」
「はっ」
「お前は、私を見捨てるか」
勝家は即座に首を横に振った。
「見捨てるなら、ここには参りませぬ」
信行の目が揺れた。
「ですが」
勝家は続けた。
「担がれるまま兄君を討つ道へ進まれるなら、某はお止めいたします」
「止める? 私をか」
「はい」
勝家は、まっすぐに信行を見た。
「兄君を討つ前に、まず某があなた様を止めます」
信行は、呆然と勝家を見た。
しばらくして、小さく笑った。
「お前は、昔からそうだ」
「はっ」
「私が転びそうになると、手を貸す前に叱る」
「転ばぬ方がよろしいので」
「容赦がない」
「必要ならば」
信行は少しだけ笑った。
その笑みは、ひどく弱かった。
だが、先ほどまでの張り詰めた顔よりはずっとよい。
「勝家。私は、どうすればよい」
勝家は答えた。
「信長様に申し上げます」
信行の顔が強張る。
「兄上に?」
「はい」
「兄上は、私を許すだろうか」
「分かりませぬ」
正直に言う。
信行は苦く笑った。
「そこは、許すと言うところではないのか」
「分からぬものは、分かりませぬ」
「お前らしい」
信行は息を吐いた。
「だが、ただ謝れば済む話ではない。もう周囲は止まらぬ。私が今さら退けば、あの者たちは別の誰かを担ぐか、あるいは兄上に、私が謀ったと告げるだろう」
「であれば」
勝家は言った。
「この機に炙り出します」
信行が目を見開く。
「炙り出す?」
「はい」
「何を」
「勘十郎様を担ぎ、兄弟を争わせようとした者どもを」
信行は息を呑んだ。
「私を餌にするのか」
「はい」
勝家は迷わず答えた。
信行はしばらく固まった。
それから、乾いた笑いを漏らす。
「お前は本当に容赦がないな」
「兄君を討つよりは、ましにございます」
信行は黙った。
その通りだと、分かったのだろう。
勝家は続けた。
「表向きは、勘十郎様が信長様に背くように見せます」
「……恐ろしいことを言う」
「信長様には、某から申し上げます」
「兄上が乗ると思うか」
「乗られるでしょう」
「なぜ」
「信長様ならば、この機を逃されませぬ」
信行は、少しだけ震える息を吐いた。
「兄上らしい」
「はい」
「そして、お前も兄上に似たことを言う」
勝家は少し考えた。
「藤乃姫に言われました」
「斯波の姫が?」
信行が瞬きをする。
「はい。兄弟を仲違いさせる者は、どちらの味方でもない、と」
信行は、しばらく黙った。
やがて、ふっと笑った。
「なら、その姫君に礼を言わねばならぬな」
「はっ」
「勝家」
「はい」
「その策で、私は兄上に斬られずに済むのか」
勝家は即答しなかった。
信行はその沈黙に苦笑する。
「分からぬか」
「分かりませぬ」
勝家は正直に言った。
「ですが、このまま担がれて進めば、いずれ斬られます」
信行の顔が青ざめる。
勝家は続けた。
「ならば、今、動くべきです」
信行は目を閉じた。
長い沈黙だった。
外では、信行を担ぐ者たちが待っている。
彼らは、きっと勝家が信行の背を押していると思っているだろう。
その勘違いを利用する。
信行を餌にする。
勝家自身も、信行側についたように見せる。
危うい策だ。
信長様が乗らねば終わる。
信行が途中で崩れても終わる。
周囲の者に悟られても終わる。
だが、このまま何もしなければ、もっと悪い結末が待っている。
やがて、信行が目を開いた。
「……勝家が側にいるなら、やる」
その声は震えていた。
主命であり、弟が兄に縋る声でもあった。
勝家は深く頭を下げた。
「無論にございます」
信行は、さらに小さく言った。
「側にいろ」
「はっ」
「私が怯んだら、叱れ」
「承知」
「私が間違えたら、止めろ」
「承知」
「私が逃げようとしたら」
信行は一度、言葉を切った。
「……その時も、止めろ」
勝家は、迷わず答えた。
「承知つかまつりました」
信行は、ようやく少しだけ息を吐いた。
「では、どうする」
勝家は顔を上げた。
「まず、信長様へ申し上げます」
「兄上に会うのか」
「はい」
「兄上は怒るぞ」
「怒られるでしょう」
「怖くはないのか」
勝家は少し考えた。
「恐ろしゅうございます」
信行が目を丸くした。
勝家は続ける。
「ですが、恐ろしいからこそ、敵に回すより、味方でいていただく方がよろしいかと」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、信行が小さく吹き出した。
「お前らしいな、勝家」
「はっ」
「褒めてはいない」
「承知しております」
信行は、少しだけ笑った。
勝家は、その笑いを見て思った。
まだ間に合う。
少なくとも、この方はまだ、兄を憎みきってはいない。
ならば、救える。
ただし、外にいる者どもには悟らせてはならない。
勝家は立ち上がった。
「勘十郎様」
「何だ」
「これより、あなた様には、反信長の旗頭を演じていただきます」
信行の顔が引きつった。
「演じる、か」
「はい」
「私は芝居など得意ではない」
「ならば、怯えていてくだされ」
信行が目を瞬かせる。
勝家は続けた。
「今の勘十郎様ならば、周囲は勝手に都合よく受け取りましょう」
「……本当に容赦がないな」
「必要ならば」
信行は苦笑した。
だが、その顔には先ほどよりも血の気が戻っていた。
勝家は襖の方へ向かう。
外に出れば、信行を担ぐ者たちが待っている。
彼らには、勝家が信行と密談したように見えるだろう。
それでよい。
むしろ、そう見えねばならぬ。
襖を開ける前に、信行が声をかけた。
「勝家」
「はっ」
「……礼を言う」
勝家は少しだけ振り返った。
「まだ早うございます」
「そうだな」
信行は、苦く笑った。
「終わったら、改めて言う」
「はっ」
勝家は襖を開けた。
外に控えていた者たちの視線が、一斉に向けられる。
期待。
緊張。
野心。
勝家は、それらを見た。
そして、何も言わずに信行の前へ控えた。
それだけでよい。
勝家が信行の側に立った。
そう見えれば、十分だった。
火種は、まだ消えていない。
だが、燃え広がる前に囲うことはできる。
必ず。
勘十郎様を、兄弟殺しの道へは行かせない。
そして。
自分もまた、藤乃姫が恐れた火に呑まれるつもりはなかった。