軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十一話 飯を食えぬ名家の名など

柴田の屋敷に来てから、私は何度も思った。

私は、まだ何も知らなかったのだと。

守護家の嫡男である。

斯波の名を継ぐ者である。

そう言われて育った。

けれど、私が知っていたのは、痩せた米櫃と、叔母上の細い手と、千若が腹を空かせても泣かないように唇を噛む姿だった。

父上は、斯波の名を守ろうとした。

叔母上は、斯波の人を守ろうとした。

その違いを、私はずっと見てきた。

けれど、では自分はどうすべきなのか。

それは、まだ分からなかった。

柴田殿は、朝になると私を庭へ呼んだ。

「構えよ」

「はい」

渡された木槍は、思っていたよりも重かった。

いや、正しく言えば、重さそのものではない。

手に持った瞬間、それをどう扱えばよいのか分からない己の頼りなさが、重さになって腕にのしかかるのだ。

柴田殿の槍は、速い。

重く、短く、迷いがない。

私が一つの動きを覚えるより早く、柴田殿は私の姿勢の崩れを見抜く。

「腰が高い」

「はい」

「足が止まっておる」

「はい」

「目だけで追うな。身体ごと向けよ」

「はい!」

声だけは出る。

だが、身体はついてこない。

千若は少し離れたところで、同じように小さな木の棒を持ち、真剣な顔で真似をしていた。

柴田殿は、千若には無理をさせない。

けれど、見ることは許している。

「兄をよく見よ」

そう言われ、千若はこくこくと頷く。

その姿を見るたび、私は思う。

早く強くならねば、と。

私が強くならなければ、千若を守れない。

叔母上を支えられない。

父上は亡くなった。

屋敷は燃えた。

斯波の名だけでは、何も守れなかった。

だから、今度は私が。

そう思うたび、肩に力が入る。

すると柴田殿は言う。

「力むな」

「……はい」

「折れるぞ」

何が、とは言わなかった。

けれど、その言葉は胸に残った。

その日の鍛錬が終わると、柴田殿は私を見た。

「信長様がお呼びだ」

息が止まった。

「私を、ですか」

「ああ」

「……何故でしょうか」

「学びたいと申したであろう」

確かに、私はそう言った。

信長殿に、戦術について話を伺う機会をいただきたいと。

けれど、まさか本当に呼ばれるとは思っていなかった。

柴田殿は淡々と言う。

「行くぞ」

「はい」

私は慌てて身支度を整えた。

叔母上は、私が信長殿に呼ばれたと聞くと、少しだけ目を見開いた。

「義銀、無理はしないのよ」

「はい」

「分からないことは、分からないと言っていいの」

「はい」

「あと、変に気負わないこと」

「……はい」

その返事に、叔母上はじっと私を見た。

「本当に?」

「本当に、です」

叔母上は疑わしそうな顔をした。

少し前の私なら、それを情けなく思ったかもしれない。

けれど今は、少しだけ嬉しかった。

叔母上はまだ、私を心配してくれる。

元服しても。

斯波義銀と名乗っても。

父を失っても。

叔母上にとって、私はまだ甥なのだ。

「行ってまいります」

「ええ。気をつけて」

叔母上はそう言って、私の肩にそっと手を置いた。

それだけで、少し息がしやすくなった。

信長殿の前へ出ると、やはり空気が違った。

織田信長。

あの方は、ただそこにいるだけで場の重みを変える。

美しい顔立ちをしている。

けれど、それ以上に目が強い。

笑っていても、油断できない。

こちらを見ているようで、その後ろまで見透かしているような目だった。

「来たか、斯波の若君」

「はっ」

私は頭を下げた。

「義銀にございます。本日はお呼びいただき、恐悦至極にございます」

「堅いな」

信長殿は笑った。

「まあよい。座れ」

「はい」

私は勧められるまま座る。

柴田殿は少し後ろに控えた。

信長殿はしばらく私を見ていた。

試されている。

そう分かった。

だが、不思議と恐怖だけではなかった。

叔母上が言っていた。

相手が何を見たいのかを見ろ。

言葉の裏にあるものを見ろ。

相手の欲しい答えだけを返すな。

けれど、聞かれてもいないことを喋りすぎるな。

私は一度、息を整えた。

信長殿が口を開く。

「お前、儂の戦を面白いと言ったそうだな」

「面白い、とは申し上げておりませぬ」

「では、何と言った」

「多彩であると」

信長殿の口元が少し上がった。

「同じようなものだ」

違うと思ったが、口には出さなかった。

信長殿は続ける。

「柴田から聞いた。鉄砲の使い方に目をつけたそうだな」

「はい」

「鉄砲をどう見る」

鉄砲。

その言葉に、私は叔母上の声を思い出した。

『武器そのものを見ても駄目よ、義銀』

『その武器で何をさせるかを見るの』

『槍なら間合い。弓なら距離。鉄砲なら音と威力と、撃つまでの手間』

叔母上は、鉄砲を珍しい武器として見ていなかった。

何ができるのか。

何ができないのか。

どう使えば、兵が動くのか。

そう考えていた。

私は答えた。

「強き武器にございます。けれど、数が少なければ、ただの一撃に過ぎませぬ」

信長殿の目が細くなる。

「では、多ければ」

私は少し考えた。

鉄砲は撃つまでに手間がかかる。

構え、火を用意し、狙い、撃つ。

撃った後、すぐには次を撃てない。

ならば。

「撃つ者を分けます」

信長殿は黙った。

私は続けた。

「一組が撃つ。次の組が構える。その次の組が火を整える。撃った組は下がって、また整える。順に撃てば、途切れませぬ」

言いながら、頭の中で兵を並べた。

一段目が撃つ。

二段目が構える。

三段目が準備する。

そして入れ替える。

雨のように。

「それができれば」

私は言った。

「鉛の雨になります」

その瞬間、信長殿の指がわずかに動いた。

本当に、ほんのわずかだった。

けれど、反応した。

部屋の空気が変わる。

柴田殿も、わずかにこちらを見た気がした。

信長殿は笑っていない。

ただ、じっと私を見ていた。

「……誰に教わった」

私は息を呑んだ。

正直に言うなら、叔母上だ。

けれど、すべてを叔母上のせいにしてよいのか。

叔母上は、私に考え方を教えてくれた。

だが今の答えは、私が考えたものだ。

ならば、私は答えなければならない。

「考え方は、叔母に教わりました」

「ほう」

「武器そのものではなく、それで何をさせるかを見よ、と」

信長殿の目が、少しだけ面白そうに光った。

「では、鉛の雨は」

「私が、今、考えました」

言った瞬間、喉が乾いた。

傲慢だっただろうか。

けれど、信長殿は怒らなかった。

むしろ、にやりと笑った。

「よい」

たった一言だった。

だが、その一言で、背筋に汗が流れた。

信長殿は肘をつき、私を見た。

「斯波義銀」

「はい」

「貴殿は、どうなさるつもりか」

意味が、すぐには分からなかった。

「どう、とは」

「尾張守護に戻りたいか」

胸が、わずかに痛んだ。

尾張守護。

斯波家。

父上が守ろうとした名。

多くの者が価値あるものだと言った名。

だが、私が思い出すのは、空に近い米櫃だった。

叔母上が自分の膳を千若へ回す姿だった。

父上が飲んでいた酒だった。

家臣たちの不満を含んだ目だった。

名は高かった。

けれど、私たちは腹を空かせていた。

私はゆっくり口を開いた。

「私は、家を残したいというより、叔母と弟を安心できる場所に置きとうございます」

信長殿は笑った。

「ほう。家は諦めると?」

私は唇を噛んだ。

簡単に諦めると言ってよいものではない。

そう思う。

父上は、その名に縋って死んだ。

祖父上も、きっとその名を守ろうとしたのだろう。

だが。

「もとより」

私は言った。

「飯を食えぬ名家の名など、要りませぬ」

部屋が静かになった。

言ってしまった。

斯波の嫡男が。

尾張守護家の子が。

飯を食えぬ名家の名など要らぬ、と。

だが、後悔はなかった。

本当にそう思っている。

叔母上が笑えるなら。

千若が腹いっぱい食べられるなら。

私たちが、誰かの顔色を見ずに眠れるなら。

名など、いくらでも差し出せる。

信長殿は、しばらく私を見ていた。

そして、声を出して笑った。

「ははっ」

それは愉快そうな笑いだった。

嘲りではない。

「よい。よいな、斯波の若君」

信長殿は笑いながら言う。

「名より飯か」

「飯がなければ、人は死にます」

「そうだな」

信長殿は笑みを消し、少し低い声で言った。

「では、儂の家臣となれと言ったら、どうする」

私は顔を上げた。

織田信長の家臣。

それは、斯波家の嫡男としては、本来、どう受け止めるべきなのだろう。

織田は本来、斯波の下にある家。

そう言う者もいる。

だが、私が見た織田信長は、下にある者ではなかった。

人を動かす者だった。

戦を作る者だった。

そして、私たちを救う力を持つ者だった。

私は答えた。

「それで家族が笑うならば、喜んで」

信長殿の目が、すっと細くなる。

「家族か」

「はい」

「斯波ではなく」

「私にとって、守るべきは叔母と弟です」

そう言ってから、私は少し考えた。

「もちろん、斯波の名を軽んじるつもりはございませぬ。使えるものなら、使うべきでしょう。叔母は、使えるものは何でも使えと申します」

信長殿の口元が上がる。

「その姫は、なかなか面白いことを言う」

「はい」

私は素直に頷いた。

「叔母は、すごい方です」

柴田殿が、ほんの少しだけこちらを見た。

信長殿は私を見て、楽しそうに言った。

「ならば、まず儂の側で学べ」

息が止まった。

「儂の近くで、人を見ろ。戦を見ろ。名の使い方も、飯の得方も覚えろ」

「はっ」

「いずれ儂に子が生まれた時、その兄分にしてやってもよい」

信長殿は、さらりと言った。

あまりにも軽く。

けれど、その言葉の重さは分かった。

信長殿の子。

その兄分。

それは、ただ近くに置くという意味ではない。

次代の織田に関わる場所へ、私を置くという意味だ。

私は深く頭を下げた。

「ありがたき幸せにございます!」

声が震えた。

だが、今度は恐怖だけではなかった。

胸の奥に、熱いものがあった。

機会だ。

これは、機会だ。

叔母上と千若を守るための。

私が、名だけではなく働きで立つための。

信長殿は言った。

「ただし、楽ではないぞ」

「承知しております」

「分からぬことは分からぬと言え。知ったかぶりをする者は要らぬ」

「はい」

「学べ。よく見ろ。考えろ」

「はい」

「そして、使える男になれ」

私はもう一度、頭を下げた。

「必ず」

その言葉が、自然と出た。

信長殿は満足そうに笑った。

「柴田」

「はっ」

「面白い若君を拾ったな」

「拾ったのではございませぬ」

柴田殿は真面目に答えた。

「助けを求められましたので」

信長殿はまた笑った。

「同じようなものだ」

違うと思った。

だが、柴田殿はそれ以上言わなかった。

帰り道、私はしばらく黙っていた。

頭の中が熱かった。

信長殿の側で学ぶ。

いずれ家臣となる。

機会を与えられた。

それは望んだことだ。

望んだはずなのに、胸が重い。

私にできるのか。

私は、斯波の名を捨ててもよいと言った。

飯を食えぬ名家の名など要らぬと言った。

だが、それは本当に、父上を裏切る言葉ではなかったのか。

父上を救えなかった私が、父上の守ろうとしたものまで捨ててよいのか。

そんなことを考えていると、柴田殿が言った。

「力むな」

私ははっとした。

「……顔に出ておりましたか」

「肩に出ておる」

思わず、自分の肩を見た。

柴田殿は前を向いたまま続ける。

「掴む前に折れるぞ」

その言葉に、朝の鍛錬を思い出した。

「柴田殿」

「何だ」

「本日のことは、柴田殿の差配でございますか」

「某ではない」

即答だった。

「八右衛門が、良き師をつけた方がよいと言った。それを信長様に申し上げたまでよ」

八右衛門殿。

あの、いつも胃を押さえているような家令の顔を思い出す。

そうか。

私のことを、考えてくれていたのか。

「……ありがとうございます」

私は頭を下げた。

「必ず、この機会を掴んでみせます」

柴田殿は、少しだけ私を見た。

「掴むのはよい」

「はい」

「だが、姫君も千若丸も、今すぐお前一人で背負えとは言うまい」

言葉に詰まった。

胸の奥を、真っ直ぐ突かれた気がした。

柴田殿は続ける。

「お前はまだ若い」

「……元服しております」

「若い」

言い返せなかった。

柴田殿の声は、叱る声ではなかった。

ただ事実を言う声だった。

「学べ」

「はい」

「強くなるのは、それからでよい」

その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。

父上が死んでから、私はずっと思っていた。

私が守らなければ。

私が強くならなければ。

私が叔母上と千若を支えなければ。

けれど、柴田殿は言った。

学べ、と。

強くなるのは、それからでよい、と。

私は拳を握った。

泣くわけにはいかない。

ここで泣けば、また子供だと思われる。

いや、きっと柴田殿は、私が泣いても笑わないだろう。

それでも、私は泣かなかった。

代わりに、深く頭を下げた。

「はい」

声は少し震えた。

「学びます。必ず」

柴田殿は短く頷いた。

それだけだった。

だが、その頷きが、何より重かった。

柴田の屋敷が見えてきた。

門の向こうには、叔母上がいる。

千若がいる。

帰ったら、叔母上はきっと心配そうに私を見るだろう。

千若は、信長殿は怖かったかと聞くだろう。

私は何と答えようか。

怖かった。

けれど、面白かった。

そして、私は機会を得た。

叔母上と千若が笑える場所を作るための機会を。

私は、もう一度だけ心の中で誓った。

必ず、この機会を掴む。

斯波の名のためではない。

叔母上と千若のために。

そして、いつか。

柴田殿のように、助けを求められた時に走れる男になるために。