軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

アマーリエ・スーエは働く

「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」

そう告げられたアマーリエは泣いた。

一晩中泣いて、家族にひかれるほど泣いて。

そして、働くことにした。

結婚がなくなった以上、働くしかない。

丁度、我がスーエ子爵家と付き合いのある商会が、貴族向けの商売拡充のため、上流階級の作法に通じた人間を探しているらしい。

アマーリエは貧乏だが、生まれながらの子爵令嬢であるし、婚約者は伯爵家だったので、一通りの礼儀作法は習得している。

他の従業員にも礼儀作法を教える事を条件に、賃金の上乗せを交渉し、いざ働かんと、未練なく家を後にしたのだった。

「さっき店に来てたお貴族様、あれが例の奴?」

そう尋ねながら、隣でオーリがサンドイッチを頬張っている。

今日のサンドイッチは向かいのパン屋のおばさんが、揚げたてのイワシフライを挟んでくれた特別製である。

まだ暖かさの残るフライに、ちょっと甘めのソースと酸味のあるマヨネーズが混ざり合い、格別な美味しさだった。

濃くて熱い紅茶を飲みながら、昼食をとるこの時間が最上である。

例えこのサンドイッチが、二日分の昼食代でも惜しくない。

「そう、私の元婚約者。ロセッティ伯爵令息のレイモンド様ね」

商会の従業員として働き始めたアマーリエの給料では、毎食外食をする余裕はない。

上質なリネンのハンカチなど買えないし、香油や石鹸も一番安い、香りのない物を使っている。

洋服を買い替える余裕もないから、一度買ったものを大事に使い、時々古着屋を覗いたりもする。

もう少し裁縫を勉強しておけばよかったと思うが、そこは向き不向きもあるので仕方がない。

アマーリエは思っていた。

いつかは自分もこの生活に疲れ、貴族の生活を恋しく思うようになるだろうかと。

確かに冷たい水で身支度をする冬の朝は心が折れそうになるし、一目惚れをした靴の値段を見て諦める時の落胆、下ろし立ての靴下に穴が空き、それでも捨てられない惨めさ、そういう場面は数え切れない。

店に来る貴族達は皆、仕立ての良い流行のドレスを着て、値段を見て悩む様子などない。

それが羨ましくないと言ったら嘘になる。

けれど、初めて自分で恐々焼いた、焼きたてのソーセージの美味しさと言ったら!

休憩時間に一人で、誰に見咎められることなく、ふらりと行商を覗く楽しさ。

一枚の仕立てのいい粗いリネンのハンカチを、初めての給料で買った時の嬉しさ。

そして身支度に関しては、子爵家では満足に使用人がいない生活が長かったので、侍女がいない生活でも全く苦にならなかった。

露天で買った気に入りのカップで、熱く濃い紅茶にたっぷりとミルクと砂糖を入れて飲む毎日に、アマーリエは今、心から満足しているのだ。

「なんて言うかあの男、その、あれだな…」

従業員の休憩時間は交代制で、何人かと一緒に、使用人用の食堂で昼食をとる。

事前に言えば、住み込みの者と同じ昼食をとることも出来るし、商会は街の大通りに面していて、周囲にはパン屋や食堂もあり、広場に屋台が出ている日もある。

食堂にはポットと茶葉が常備されていて、いつでも好きに飲めるのが嬉しい。

茶葉は在庫処分用の古い茶だったり、仕入れたての珍しい茶だったり、その時々で変化するのが、アマーリエは案外気に入っている。

口に合わない薬草茶に当たった時など、いかにして美味しく飲むかを皆で議論しあったりして、それがお客様に勧める時に、意外と役立ったりするのだった。

「いいわよはっきり言ってくれて。クズでしょう?」

オーリはアマーリエよりも前からこの商会で働いている青年で、歳はおそらく同じくらい。

背が高く、精悍な顔がややとっつきにくいが、話すとさっぱりとした気性の青年である。

本来は賢公と名高い、かつてのオルランド公と同じ名だそうだが、平民には仰々しすぎるため、オーリを名乗っているらしい。

目端が利いて卒がないオーリは、店頭でも裏方でも重宝されている。

特に会頭に気に入られているようで、最近では重要な商談に帯同することも多いそうだ。

アマーリエは店頭での接客と接遇研修を任されており、オーリと仕事上の接点はあまりない。

そんな彼と、こうしてよく話すようになった切っ掛けはと言うと。

彼は何と、アマーリエと同じ、婚約破棄仲間なのだった。

午前中、アマーリエの元婚約者だったロセッティ伯爵令息レイモンドが店に来たのは、本当にたまたまだったのだろう。

接客の為、対応に出たアマーリエに心底驚いている様子だった。

アマーリエとしては、いずれこういう日が来るだろうと思っていたのだが。

「アマーリエ…君なのか?」

「いらっしゃいませ、ロセッティ伯爵令息様。どうぞスーエの名でお呼びくださいませ」

連れの女性は恐らく新しい婚約者だろう、アマーリエよりも年下の伯爵令嬢と縁を結んだと噂で聞いている。

働き始めて驚いたことの一つが、街で聞く、噂の速さと喧伝性である。

貴族の家のあれこれに、街の者は皆、想像以上に詳しいのだった。

それこそ、どこぞの子爵家の夫婦仲が悪い事や、旧家である伯爵家の金払いが悪いことなど、社交界顔負けの情報網なのである。

考えてみれば当たり前の事である。

貴族達の生活を支えているのは、屋敷や周囲で働く数多の使用人達なのだ。

どんなに躾の行き届いた家でも、すべての口を塞いでおくのは難しいという事なのだろう。

メイドの一人が、お使い先で馴染みの女将にポロリと漏らす、それが出入りの商人の耳に入り、客の婦人に社交辞令と共に伝わる。

その家の主人よりも、隣の家のメイド達の方が、余程隣家の様子に詳しいのだ。

「スーエ嬢はここで働いているのか」

「はい、左様でございます。今日は何をお求めでしょうか?」

「、ああ…彼女が、最近茶会で飲んだという、茶が見たいと」

「それでしたら、皆様がよくお求めになられるのはこちらの茶葉ですね。どうぞ試飲も出来ますので、味をお確かめになられては?」

手際よく、近くのテーブルに他の従業員が茶の準備を始める。

従来通り商人を屋敷に呼び、用事を済ます貴族はまだまだ多い。

けれどこうして、自ら店に足を運ぶ者は確実に増えているとアマーリエも感じている。

その一つには、若い貴族達を中心に、婚約者や友人と連れ立って店を巡る事自体が、娯楽として浸透し始めていることが大きいだろう。

そんな客こそ、アマーリエの力の見せ所である。

今、令嬢に紅茶を勧めている従業員は平民だが、アマーリエの研修を受けたその所作は、貴族出の侍女にも負けていない。

「伯爵令息様もどうぞこちらへ」

何か物問いたげな視線を感じるが、気付かないふりをしておく。

婚約者の手前、そうそう迂闊なことは言えないだろう。

二人仲良く茶を飲んでいる姿を見ても、何も感じない自分に、アマーリエは内心ほっとした。

十歳の時に結ばれた婚約だった。

それから七年、この人と結婚するのだと、ずっとそう思っていたのだ。

彼が従業員に、味について何か講釈を垂れている。

(オレンジの風味じゃない、それ林檎)

(渋みより軽さが特徴だし、水色の濃さはグレードと違う)

多分、これ以上喋らない方がいい。

(馬鹿がバレるんじゃないかしら)

あの頃はそういう気取ったところも、何だか素敵に見えていたのに。

商品を気に入ったらしい令嬢が、包むように伝えている。

今しかないと思ったのか、さりげなくレイモンドが近付いてくる。

「君がこんな、平民と同じ場所で働いているなんて」

たった今、全ての従業員を敵に回したが、この男は気付いているのだろうか。

「ご心配いただきまして、恐れ多いことにございます」

「…君は相変わらず、隙がないな」

慇懃無礼な態度を崩さないアマーリエに焦れたのだろう、言葉に少し苛立ちが混ざる。

「あの時だって、君が少しくらい泣いて見せるのだったら、僕は、」

「レイモンド、終わったわ」

ここで時間切れのようだった。

荷物を受け取った令嬢が、後ろからレイモンドを呼んでいる。

「ご来店ありがとうございました」

見送るお辞儀は、カーテシーではないものの、同じくらいの丁寧さでもって。

相手が平民でも貴族でも変わらぬ礼で、丁重に見送らせていただいたのだった。

「で、本当の所は?泣かなかったのか?」

ポットから注いだ茶に、ミルクを入れながらオーリが聞いてくる。

食後にミルクを足して砂糖を一つ、彼のいつもの習慣である。

「勿論泣いたわ。帰ってからめちゃくちゃにね」

あまりにも毎回彼がそうやって飲むので、気付けば自分にも移っていた。

それが分かっているオーリが、こちらのカップにもミルクと砂糖を足してくれる。

「でもほら、それを伝えるのは癪でしょう?」

結婚すると思っていた相手なのだ。

好きになりたいと思っていたし、今見るとあんなだけれど、当時のアマーリエにとっては大切な相手だった。

レイモンドの母である伯爵夫人の美しさは社交界でも評判で、顔合わせの場で、その夫人によく似た金の髪で笑いかけるレイモンドは、物語の王子のように見えたのだった。

レイモンドからの贈り物は全て大切に取っていたし、伯爵家の名に恥じぬよう、礼儀作法の授業も頑張ってきたつもりだ。

だからあの婚約破棄は裏切りに他ならなかった。

けれどだ。

スーエ家は貧乏で、アマーリエはどうにかして食べて行かねばならぬ身だった。

あの恋情の中に、自分の行く末を託すしかない、諦めやおもねりがなかったと言えば嘘になる。

だから一晩泣いて、悲しみと辛さと苦しさを。

思いきり泣いて、そんな自分の打算的な想いを。

全部、涙と一緒に流し尽くして、綺麗さっぱり忘れることにしたのだった。

そんな自分の切り替えの速さが、逞しくて好きである。

貧乏子爵家家訓、嘆いたってお腹は満たされないのだから。

「そういう貴方は泣かなかったの?」

彼の婚約者は、隣の家で生まれ育ったという幼馴染だったそうだ。

契約書を交わしたわけではなかったそうだが、当人同士も、オーリの家族も相手の家も皆、当然そうなると思っていたのだという。

彼女の家は小さな商会で、オーリは学校に通う傍ら、既に仕事を手伝ってもいたそうだ。

そんな彼女がある時、店に商品を卸しに来た、大きな商会の息子に見初められたのだという。

そうして気がつけば彼女の店はその傘下に入り、店は今風の設えに変わり、扱う商品には見慣れぬ物が増え、従業員は二倍になり、そしてオーリは一人、店から放り出されたのだった。

「まぁ、泣いたな。十六年の付き合いだったし。そりゃ泣くだろ」

その後オーリは、この商会の会頭に拾われたのだそうだ。

以前から気に入っていたらしいオーリに、うちに来ないかと声をかけてくれたのだという。

アマーリエが入るずっと前、今は大通りに店を構えるこの商会も、大きく損失を出した時があったらしい。

生活のために一時的に店を離れた従業員もいた中で、オーリはしばらく無給で働いていたそうだが、それはきっと、その時の恩が大きかったのだろう。

その誠実さが、会頭をはじめ、皆が彼を買っている理由なのだと思っている。

実はアマーリエもオーリも、自分の婚約破棄について、互いに話した訳ではない。

あれはアマーリエが商会に入ったばかりの頃のこと。

休憩中の茶飲み話として、その場に居た数名に、身の上をちらりとこぼしたのだった。

それがその次の日には、店の前のパン屋のおばさんから、この地区を担当している警備隊の隊長さんにまで、元子爵令嬢の婚約破棄の顛末が、綺麗に知れ渡っていたのだった。

その時に、これまた裏の食堂の店主から、オーリの来歴を聞いたのだった。

お互いに、不思議な連帯感が生まれたのか、元々馬が合ったのか。

それ以来こうして、言葉を交わすようになったのだった。

「泣くよりも、生きていく方が大事だったのよね」

「それは同感だ」

婚約者を失おうが、彼のように恋人を失おうが、お腹は空くし、お金は必要だし、生きていかねばならない。

働いてみて、アマーリエには分かったことがある。

約束を破る人間は信用できない、というごく当たり前のことだ。

貴族家同士の契約も、商人達の商売も、平民達の将来の約束だって同じである。

不誠実な相手に渡せる心などない。

そんな相手のために泣くなんて、もう御免だった。

少し前のことだっただろうか。

ある朝、商会の裏手にある従業員用の玄関の、その門柱の側に、オーリが屈み込んで何かしていた。

見ると、石の割れ目に咲いた紫色の野花に、コップの水をかけているらしい。

「可愛い菫ね。逞しいわね」

これが貴族家の庭なら、庭師にすぐ引き抜かれているだろう。

スーエ家でも週に二回、庭師に通ってもらっていた。

常駐してもらう程のお金はないが、とはいえ、庭は貴族の家格をそのまま映した、いわば顔なのである。

整えておくのは嗜みで、蔑ろにすることは出来ないのだった。

「そりゃ、花なんだから逞しいだろ」

「…花って逞しいかしら」

アマーリエの身近な花は、人が手を入れた庭園の花か、婚約者が贈ってくれる花束だった。

いずれも手を加えなければ、あっさりと萎れてしまうだろう花達。

「この花、アマーリエっぽいよな。令嬢なのに逞しいところとか」

生き生きとした花弁は瑞々しく、綻びそうな蕾も側にある。

誰に見られずともひっそりと咲き、けれどオーリのようにそれに気付いてくれる人もいて。

地に咲く花は、自分が思っているよりずっと逞しいのだと、アマーリエはその時初めて気付いたのだった。

(さっき、レイモンドに可哀想だという目で見られたけれど)

石の割れ目に咲いていた菫を、可哀想だと人は思うだろうか。

アマーリエはそうは思わない。

菫はただあの場所で、美しく咲いているだけだ。

庭園で守られた花ではなく、切られて花瓶に活けられる花でもなく、どこででも自由に咲けるあの菫のように。

逞しく、今ここで生きている自分を、アマーリエは心から誇らしく思っている。

休憩の終わりが近いのだろう、身支度を始めたオーリが、カップを洗うために席を立っていく。

そんな所作でさえ洗練されてきたと、贔屓目を抜きにしても思う。

元々精悍な顔立ちで気が利く彼の事だ、これで微笑み方を覚えれば、女性客が殺到するに違いない。

オーリの幼馴染の商会は、最近、商品の目新しさがなくなってきたそうだ。

長年狙っていたという茶園の専売契約は、この間オーリが取り付けたところである。

逃した魚は大きかったと歯噛みすればいい。

オーリの十六年分の仇が取れたようで、アマーリエは嬉しかった。

あの日泣いていた自分も、何だか一緒に笑っているような気がする。

鐘が鳴り、休憩時間は終いである。

「アマーリエ、良かったら夕食どこか行かないか」

「いいわよ、誰が一緒なの?」

「いや、よければ二人で」

そう言うと、さっさと先に階段を降りて行ってしまう。

二人だけで夜に出かけたことはない。

いつも従業員の誰かしらが一緒だった。

ようやく誘ったなぁあいつ。

なんて声が、後ろから聞こえている気がする。

この街のことだ、きっと明日には二人は付き合っている事になっているだろう。

婚約していることにだって、なっているかもしれない。

そしてオーリが、それを知らないはずがない。

出来れば勿論、ハッピーエンドがいいけれど。

例えそれがどんな形になっても。

誠実な相手と誠実に向き合えることを、楽しもうと思うのだ。

だって明日もアマーリエは、笑って食べて、仕事して。

そうやってここで、生きていくのだから。