軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第68話:『樫の木亭の、ゲッコー』

雑踏の波間にクラウスの背中が消えていく。

その喧騒を背に、馬車の御者台にはヴォルフラムが代わりに腰を下ろした。ぎしり、と車体が軋む。彼女の、鍛え上げられたたくましい背中が、どこか強張って見えることに、私は馬車の窓から一抹の不安を覚えた。

(……大丈夫かしら、ヴォルフラムさん。彼女、こういう交渉事は苦手そうなのに……)

私たちの目的地である宿屋『樫の木亭』は、街の一番外れに、まるで忘れられたようにひっそりと佇んでいた。

その古びた木造の建物は、長年の雨風に晒され、煤けたように黒ずんでいる。まるで、この街の歴史と、そこに住む人々の疲労をすべて吸い込んできたかのようだ。軒先に揺れる看板の文字はかすれ、もはや判読することすら難しい。

馬車がその前に止まると、ヴォルフラムと、傭兵に扮した『影の部隊』の隊員――顔に古い傷跡を持つ無口な男、ゲッコー――が馬車を降りた。

「ここで、お待ちください。私が話をつけてまいります」

ヴォルフラムがそう言って、宿屋の重そうな扉に手をかけようとした、その時だった。

「――待て」

静かだが、有無を言わせぬ声。ゲッコーが彼女を制した。

「……ここは、俺が」

彼はそれだけ言うとヴォルフラムを追い越し、ギィ、と錆びた蝶番の悲鳴を響かせて扉を開けた。

宿屋の中は薄暗く、黴臭い埃と、飲み干された安酒の酸っぱい残り香が混じり合い、鼻をついた。

まだ日も高いというのに客はまばらで、淀んだ空気が満ちている。

カウンターの奥で、猫背の主人が帳簿から顔を上げた。ぎろり、とこちらを射抜く視線は、値踏みをするように粘っこい。それはただの宿屋の主人のものではない。長年、この裏街道の澱みをすべて見てきたような、油断ならない人間の目だった。

「……部屋は、空いてるか」

ゲッコーは低い声で、短く尋ねた。

「……何人だ」

主人の声もまた、錆びた鉄が擦れるような音をしていた。

「……五人だ。一番奥の離れを借りたい。……馬車も裏の馬小屋に」

「……ふん。高いぞ」

「……構わん」

二人の間に、それ以上の言葉は交わされない。

ゲッコーは懐から数枚の銀貨を取り出すと、カウンターの上にカタリ、と置いた。通常の宿泊代よりも、明らかに多い。

主人はその銀貨に一瞥をくれると、何も言わずにそれを懐へと滑り込ませた。そして、カウンターの下から一本の錆びた鍵を取り出し、無言でゲッコーに手渡す。

交渉は、終わった。

時間にして、わずか一分にも満たない。

無駄な言葉は一切なく、ただ互いの腹を探り合い、金銭という最も分かりやすい共通言語で合意に至る。それが、この寂れた宿場町の掟なのだ。

ヴォルフラムは、そのあまりに手際の良いプロの仕事ぶりに、ただ呆然と立ち尽くしていた。

もし彼女が一人で交渉していたら、どうなっていただろう。生真面目さゆえに余計なことを喋りすぎたか、あるいは主人の無礼な態度に腹を立てて一悶着起こしていたかもしれない。

(……これが、『影の部隊』……。私とは、全く違う戦い方……)

彼女は、自分の知らなかった世界の厳しさと、その中で生きる者たちのしたたかさを、その背中で痛感しているようだった。

やがてゲッコーが戻り、無言で頷く。

私たちは馬車を裏の馬小屋へと移動させ、誰にも見られることなく一番奥まった離れの部屋へと通された。部屋は古びていたが、掃除は行き届いている。

ここが、今夜私たちが身を潜める、仮の「巣」となる。

部屋の明かりに照らされたヴォルフラムの硬い表情が、少しだけ和らいでいるのに私は気がついた。彼女もまた、この短いやり取りの中で多くを学んだのだろう。

私たちは少しずつ、だが確実に、一つのチームとして機能し始めていた。