作品タイトル不明
『軍師はワンコの夢を見るか』-- 前編:軍師の休息と仕掛けられた罠
夜の闇が帝都の喧騒を優しく包み込む頃、リナはようやく重いペンを置いた。刻まれたインクの染みは、彼女がこの数日、どれだけの未来予測と思考を戦わせてきたかを無言で物語っている。張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……セラさん」
か細い声に、傍らで静かにリナの護衛をしていたセラが顔を上げた。
「少しだけ……湯あみが、したいです」
その言葉に、セラは柔らかく目を細めた。「ええ、もちろんですわ」。彼女が立ち上がると、絹の衣擦れの音が静かな部屋に響く。やがて用意された湯殿は、湯気がもうもうと立ち込め、リナの冷え切った身体を優しく誘っていた。
「はぁ……生き返るぅ……」
リナは小さな身体を湯船に沈め、心の底から安堵のため息を漏らした。カラン、と湯を汲む桶の音が心地よく響く。帝都での息詰まるような打ち合わせも、未来を左右する戦略考察の重圧も、全てが湯気の中に溶けて消えていくようだった。肌を撫でる温かい湯が、彼女をただの八歳の少女に戻してくれる。
至福の時間は、しかし、脱衣籠を覗き込んだ瞬間に終わりを告げた。
そこにあったのは、見慣れた下着や簡素な寝間着ではない。柴犬を思わせる茶色と白のグラデーションに、可愛らしい肉球模様があしらわれた浴衣が一式置かれていた。
「……せ、セラさん? 私の服は……?」
背後から聞こえた声は、悪戯が成功した子供を隠すような、それでいて完璧に冷静な響きを持っていた。
「あら、申し訳ありません。洗濯が立て込んでおりまして、清潔なものはそれしか」
その涼しい顔に、リナは小さな罠の存在を確信する。だが、湯冷めには抗えない。諦めて袖を通し、少し大きめの浴衣の裾を引きずりながら部屋に戻ると、セラが待ってましたとばかりに手際よく帯を結んでくれた。
だが、その背中の大きなリボンには、くるんと可愛らしく巻いた『もふもふの尻尾』までご丁寧に縫い付けられているではないか。
さらにセラは追い打ちをかけるように、「湯冷めしてはいけませんから」と、有無を言わさずぴんと立った犬耳付きの髪飾り(カチューシャ)を頭に乗せてきた。
「……」
リナは沈黙した。
言葉という武器を完全に失った軍師を前に、セラの口の端は、ほんのわずかに、しかし確かに上がっている。ふと視線を部屋の隅に向けると、気配を消して控えていた護衛のヴォルフラムが、石像のような無表情の中に、好奇心としか思えないキラキラした光を瞳に宿して直立していた。
完全なる包囲網。
リナは全ての抵抗を諦め、その屈辱的な――しかし否定できないほどに肌触りの良い――柴犬浴衣姿のまま、ふてくされてベッドに潜り込んだ。
◇◆◇
気がつくと、リナはふわふわの毛並みを持つ子犬になっていた。
(なんで!? 私、犬になってる!?)
状況が理解できず混乱する中、見覚えのある宮殿の中庭を彷徨う。助けを呼ぼうにも、出るのは「キャンキャン」という情けない鳴き声だけ。夜の冷気が容赦なく体温を奪い、空腹が腹の底からじりじりと這い上がってくる。
誰もいない。誰も助けてくれない。
このまま誰にも気づかれず、ここで飢えて、冷たくなっていくんじゃないか――。
その恐怖が、引き金になった。
――寒い。
――痛い。お腹が痛い。
意識の奥底に封じ込めていた記憶が、奔流となって溢れ出す。石畳の上でうずくまり、無数の大人の靴が無関心に行き交う路地裏の光景。胃袋が自分自身を喰らおうとする激痛。指先から感覚が消えていく、あの凍てつく寒さ。
子犬(リナ) は、その場にうずくまり、恐怖で動けなくなった。ガタガタと震える身体は、もう自分の意思ではどうにもならない。
絶望で視界が暗転しかけた、その時。
ふわり、と凍えきった身体が、温かい何かに優しく包み込まれた。見上げると、自分を覗き込む優しい瞳があった。
その温かな手の感触、慈愛に満ちた眼差しが、あの日の路地裏で震える自分を抱き上げてくれた院長先生の記憶と、完全に重なった。
(……あったかい。大丈夫だ…)
リナは心から安堵し、その腕の中でほっと息をついた。抱き上げてくれたのは、夜の散策をしていたユリウス皇子だった。
安堵に満たされたのも束の間、ユリウスはリナ(犬)のお腹のあたりをじっと覗き込み、真面目な顔でぽつりと呟いた。
「うん、女の子だね…」
(しっかり見るんじゃなーい!)
安堵から一転、羞恥で涙目になるリナ(犬)。ユリウスに抱きかえられたまま、彼の私室へと運ばれていく。波乱の夜は、まだ始まったばかりだった。