軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第351話:『軍師の天秤、命の優先順位』

北壁の砦は、深い夜の底に沈んでいた。

分厚い石壁の向こう側で、北特有の乾いた風がヒュウと悲鳴のような唸りを上げて通り過ぎていく。

作戦室の中央に置かれた巨大な机。そこに広げられた北方の広域地図をランプの揺らめく光が照らし出している。

「…………」

銀の仮面は机の片隅に外されて置かれていた。

素顔のままのリナは、椅子から身を乗り出すようにして地図の上に置かれた無数の駒をじっと睨み据えていた。

黒い駒が示すのは数万規模に膨れ上がった覇王クルガンの大軍。

対する白い駒はバラクたち『北辰同盟』。

数の上では圧倒的に黒が白を飲み込んでいる。

(……このままでは)

リナの指先が黒い駒の群れの上を這うように滑る。

いくら噂や疑心暗鬼で内部が腐りかけているとはいえ、数万の軍勢が持つ物理的な圧力は絶対だ。狂王クルガンが恐怖で無理やりにでも軍を前へ進ませた場合、その暴力の波が北辰同盟に直撃すればどうなるか。

被害は免れない。あのアランやバラクの野営地で無邪気に笑っていた子供たちにまで血が及ぶ可能性がある。

リナはギュッと唇を噛み締めた。

盤上に置かれた白い駒を指の腹でそっと撫でる。

計算上は「勝てる」布陣だ。だがその過程でこぼれ落ちる命の数を彼女は「必要経費」として割り切ることがどうしてもできなかった。

「……ゲッコーさん」

掠れた、しかし静かな声が部屋の空気を震わせた。

音は全くなかった。

ただ、暖炉の光が届かない部屋の隅、最も濃い闇の一部がぬるりと人の形を成して剥がれ落ちた。

「――はっ」

片膝をつき深く頭を垂れる影。

ゲッコーは主君の張り詰めた背中を静かに見上げていた。

リナは地図から目を離さず淡々と、しかし研ぎ澄まされた声で告げた。

「覇国の大軍が近いうちに想定区域に到達します。……ですが、彼らの足並みはもっと徹底的に崩さなければなりません」

「御意に」

「カナンの民が流した噂で軍の内部はすでに揺らいでいます。そこに物理的な『確証』を上乗せしてください」

リナの指先が覇国軍の進軍ルートをなぞる。

「馬の蹄鉄の不具合、水場の泥濁り、 輜重(しちょう) の車輪の破損……何でも構いません。彼らの進軍を意図的に停滞させ『前に進むことへの忌避感』を増幅させてください。北辰同盟が有利に動けるようあらゆる目立たぬ細工を」

「承知いたしました」

ゲッコーの返答は相変わらず感情の起伏を感じさせない。

カナンの遺民たちが日常に紛れて行う工作を彼ら『影の部隊』が背後から完璧にサポートする。見つかりそうになれば暗部の技で処理し何事もなかったかのように陣中に溶け込む。それは彼らが得意とする領域だった。

だが。

指示を出し終えたリナの小さな肩が微かに震えた。

彼女はゆっくりと振り返り、ゲッコーを真っ直ぐに見据えた。その瞳には軍師としての冷徹な光だけでなく、一人の人間としての深い苦悩と切実な願いが入り混じっていた。

「……ゲッコーさん」

紡がれた声はひどく苦しげだった。

膝の上で両手が白くなるほど固く握りしめられている。爪が掌に食い込む痛みを堪えるように彼女は言葉を絞り出した。

「私の本音を言えば……最善は誰も傷つかないことです。誰の血も流さずこの戦いを終わらせたい」

ランプの光が彼女の潤んだ瞳をきらりと反射する。

「……でも、それがただの綺麗事だということは分かっています。だからあなたたちに命じます」

リナは一つ深く息を吸い込み、冷たい北の空気を肺の底まで満たした。

そして己の魂を削るような絶対の命令を下した。

「――優先順位の第一はゲッコーさんたち『影の部隊』の安全です」

「……ッ」

ゲッコーの伏せられた瞳の奥で何かが僅かに揺らぐ。

「次点が北辰同盟の安全。……敵の命はこちらに余裕がある場合のみで結構です」

それは敵の命を奪うことを容認する軍師としての冷徹な宣告。

だがその裏にあるのは、「自分の手の届く範囲の人間を絶対に死なせない」というあまりにも身勝手で、だからこそ狂おしいほどの優しさだった。

「工作が露見しそうになれば任務は即座に放棄してください。無理をして成果を上げる必要はありません。……絶対に生きて帰ってきてください」

リナはじっとゲッコーの目を見つめた。

沈黙が落ちる。

やがてゲッコーは床に手をつき、これまでで最も深く額が石畳に触れるほどに頭を下げた。

「……御意に。この命に代えましても必ずや皆様を生きて帰還させます」

「命に代えちゃダメです。……全員で、ですよ」

「……はっ」

" 顔を上げた影の男は何も語らなかった。

ただ、床についていた手からゆっくりと立ち上がると、無骨な拳を自らの胸元にこつりと静かに当てた。

傷だらけの顔はいつも通りの鉄面皮だったが、まっすぐに主君を見据えるただ一つの瞳の奥には決して揺らぐことのない静かな熱が灯っていた。"

「では直ちに出立いたします」

ゲッコーが立ち上がり再び闇へと溶け込もうとしたその時、彼はふと足を止め振り返らずに言った。

「……リナ様。あの『特別な荷』を運んだ四名の精鋭も既に想定の山間部へと展開を開始しております」

「……そうですか」

「彼らにも貴女様の御心をしかと伝えておきましょう」

それだけを残し影は完全に部屋から消失した。

後に残されたリナは再び机に向き直り、銀の仮面をそっと手に取った。

ひんやりとした金属の感触が火照った思考を静かに冷ましていく。

「頼りにしています、ゲッコーさん……」

窓の外、どこまでも続く北の暗闇を見つめながら彼女は静かに呟いた。

◇◆◇

砦の裏手、星明かりすら届かぬ暗がり。

風のように建物の陰を抜け出したゲッコーは懐から『囁きの小箱』を取り出した。

冷たい金属のボタンを特定の回数押し込む。

数秒後、微かな振動が返ってきた。

先行している部隊からの応答だ。

「……こちらゲッコー。第一種配置につけ」

彼が低く囁いたその言葉は見えざる死神たちへの進軍合図だった。

北の荒野を見下ろす、見通しの悪い険しい山間部へ。戦いの概念そのものを根底から破壊するあの黒き鉄塊を運ぶ者たちへ。

夜明け前の静寂の中、新たな時代の産声が静かに上がろうとしていた。