軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第349話:『古狼の花道、見えざる手への恩義』

北の風が『道の駅』の屋根を低く唸りながら撫でていく。

日が落ち、建設中の広場には 篝火(かがりび) が焚かれパチパチと火の粉が夜空へ舞い上がっていた。

あばら骨のように組まれた新しい建物の奥、冷たい風を遮るようにしつらえられた一室。ランプのオレンジ色の灯りが円卓を囲む者たちの顔に深い陰影を落としている。

北辰同盟の三族長――バラク、ゴード、エルラ。そしてその背後に控えるアラン。彼らはすでに全軍を一箇所に集結させ完全な臨戦態勢のままこの場に臨んでいた。

「……すっかり冷え込んできましたね」

私は銀の仮面の下で温かいお茶の入った湯呑みを両手で包み込みながらぽつりとこぼした。

どう切り出せばいいのか。

湯気の向こうで私は言葉の糸口を探して視線を彷徨わせていた。頭の中には完璧な盤面が出来上がっている。だがその最後の一手を彼らにどう「命じる」べきか、心の奥底で重い泥のような躊躇いが渦を巻いていた。

そんな私の強張った空気を察したのか、バラクが豪快に喉を鳴らした。

「はっはっは、南の御方にはこの風は堪えましょうな。……して、天翼殿」

バラクの鳶色の瞳がランプの炎を反射して鋭く光る。

「これからこの盤面がどう推移するとお考えか。お聞かせ願えまいか」

水を向けられ、私は一つ小さく息を吸い込んだ。仮面の奥の瞳に冷徹な軍師の光を灯す。

「――クルガンの大軍はすぐに南下を始めます。ですが彼らがそのまま押し寄せてくることはありません」

机に広げられた北方の地図を指先で静かになぞる。

「先陣を切る者の歩みを止める『見えざる壁』を用意してあります。それによりクルガンの部隊は進軍が困難になるでしょう」

「歩みを止める、か」

ゴードが腕を組み顎を撫でた。

「そこから先はいくつかの道に分かれます」

私は紙の上に描かれたルートを指さした。

「最も我々に都合が良いのはそこでクルガンが恐れをなして引き返すこと。……ですが彼の肥大した自尊心がそれを許すはずがありません」

「ならば無理にでも前に進ませようとするか。身内を鞭打ってでも先陣に立たせる」

エルラが低い声で応じる。

「ええ。もしそれをすれば内部に燻っていた不満が爆発し、軍は自壊します。引き返すにせよ、自壊するにせよ、もはや覇国の権威は地に落ちる。そうなれば北辰同盟の皆様がその勢力を削り取り北の勢力図を塗り替えるのは容易なことでしょう」

そこで私は言葉を切った。

ランプの火が揺れ、三人の族長の影が壁で大きく蠢く。

「……ですがクルガンは馬鹿ではありません。最も可能性が高いのは無理やり嫌々参加している部族を先陣に立たせるか……あるいは彼自身が先頭に立って軍を進める場合です」

バラクの目がスッと細められた。

「……その場合は?」

「私は想定した戦闘地域まで彼らを引き込み進軍を容認するつもりです」

私の声がわずかに低くなる。

「そこで局地的な『戦闘』を行う必要が生じます」

「……数万の軍勢と局地戦だと?」

ゴードが怪訝そうに眉をひそめる。

「はい。戦力としてぶつかるのは恐らく多くとも覇王直属の数部族単位になるはずです。……なぜならカナンの民を通じて、他の部族には『見守るだけで良い。どちらにも加担するな』と働きかけていただいているからです」

更には帝国軍が周囲よりにらみを利かせれば、今の覇国の内情であれば誰もが喜んでその「静観」という選択肢に飛びつく。大半の軍勢はただの「観客」と化す。計算は完璧だ。

だが……。

「そこで……なのですが……」

私の声が急に小さくなった。

膝の上で両手がぎゅっとドレスの生地を握りしめている。

「えっと……その……」

どう言えばいい。私のために、いや、あなたたちの未来のために血を流してくれと。あの怪物のようなクルガンと直接刃を交えてくれと。

言葉が喉の奥で氷のように固まって出てこない。

その軍師らしからぬ私の言い淀む姿を見て。

バラクは全てを察したようにふっと口元を緩めた。

「……なるほど。ではそのクルガン、いや覇国へ引導を渡す役回り……我らにもらえるかな?」

「…………ほぇ?」

極度の緊張の糸が間の抜けた音を立てて弾け飛んだ。

仮面の下で私の口がぽかんと半開きになる。

(え? いま、なんて……?)

「手前勝手なことは重々承知しておる」

バラクはニヤリと老獪な狼の笑みを浮かべてテーブルに身を乗り出した。

「であるが、せめてその程度の働きをさせていただかないと、我らとしてもこの策を承諾しかねるというものだ!」

「ま、待ってください! 大変危険です!」

私は慌てて身を乗り出し声を張り上げた。

「数部族とはいえ死傷者が出る可能性が高いです! それにクルガン自身の武力は未知数ですし、あのヴィクトルのこと……まだどんな毒牙を隠し持っているか分かりません!」

私が必死に止めるのを見てバラクは愉快そうに腹の底からガッハッハと笑い声を上げた。

「天翼殿。戦いに確実なことなどどこにもないわい!」

彼は立ち上がり熱を帯びた瞳で私を見下ろした。

「北の民の総観衆の元で雌雄を決することができる。……我らの誇りを示すこれ以上ない決着の場ではないか! ――なぁ、ゴード、エルラよ!」

「ああ。俺たちの牙はその時のために研いである」

「ええ。森の民も遅れはとりませんわ」

族長たちの力強い言葉に背後に控えるアランの顔も戦士としての誇りで赤く上気している。

「あ……」

その光景に私の胸の奥で固まっていた氷がゆっくりと溶けていくのを感じた。

「……よかった……」

気づけば安堵のあまりため息と一緒に本音がこぼれ落ちていた。

「本当はどのようにお願いしようかと悩んでいたんです……」

私は俯いた。膝の上の手が小さく震えている。

「でも、また……私は安全な所からあなた方を危険の中へ行けと命じてしまう。私は……あなた方にどのように報いれば良いのか……」

自らの手を汚さず、盤上の駒として彼らの命を削る。その罪悪感が私の声を湿らせた。

その時。

大きく分厚い、温かい手が私の震える手をそっと包み込んだ。

顔を上げるとバラクが一瞬唖然とした顔をした後、ふっとまるで孫娘を見るような優しい笑みを浮かべていた。

「……何を馬鹿な事を」

その声は北の風よりも深く、温かかった。

「感謝しこそすれ、責めるなどお門違いも甚だしい」

バラクは私の手をしっかりと握ったまま一つ一つの言葉を噛み締めるように紡ぐ。

「そなたは北の民の破綻を食い止めてくださった。我ら北辰の民を救い、我が子らに笑顔を取り戻してくださった。……そしてこの度は我ら北の民の、いや、このワシ、バラクの『名誉』を守ってくださろうとしておる」

「名誉……?」

「そうだ。天翼殿は間違ってなどおらん。そなたの選択は我らに戦いの場を……しかも勝ちが確定した有利な状態での『花道』を用意してくださっているのだ」

バラクの鳶色の瞳がランプの光を受けて真っ直ぐに私を射抜いた。

「天翼殿こそゆっくりと安全な場所で我らの仕上げを見守ってもらおうか」

そして彼は最後に悪戯っぽく片目をつぶって見せた。

「そうよな。……万が一不測の事態が生じた場合は、その時はよろしく頼み申す」

その言葉に私の目からふわりと涙の膜が張るのを感じた。

なんてずるい人たちだろう。

私の抱えていた醜い罪悪感すらも彼らは「誇り」という名の大きな布でまるごと包み込んでしまったのだ。

「……はい」

私は仮面の下で涙をこらえながら彼の手を強く、強く握り返した。

「……必ず。何があっても、私が皆様をお守りします」

私は、仮面の下で涙をこらえながら、彼の手を強く、強く握り返した。

バラクは力強く頷き返すと、ゴード、エルラと共に立ち上がり、深い一礼を残して部屋を後にした。

やがて、夜の荒野へ駆けていく馬蹄の音が遠ざかり、風の音だけが残される。

彼らの気配が完全に消えたのを確認すると、私の中でピンと張り詰めていた糸が、音を立てて解けた。

ふうっ、と長い息を吐き出し、私は椅子の背もたれに深く体を預けた。冷え切っていた指先が、小刻みに震えている。

その時、ふわりと甘い香りが近づき、私の小さな身体が温かい腕の中にすっぽりと包み込まれた。

「……セラさん……」

「……そんなことを、ずっとお一人で悩んでおられたのですね」

私をそっと抱きしめるセラの声は、どこまでも優しく、そして少しだけ涙ぐんでいた。

「……ごめんなさい。私、軍師失格ですね。感情に流されて……」

「いいえ。そのお優しい御心こそが、リナ様なのです」

セラは私の背中をあやすように撫でながら、耳元で静かに囁いた。

「ですから、どうか……悩みがあれば打ち明けてください。私たちに相談して、その重荷を少しでも分けてほしいのです。あなたは、もう一人ではありませんから」

その温もりに顔を上げると、いつの間にかヴォルフラムがすぐ傍まで近づいていた。

彼女の蒼い瞳には、呆れも咎める色もない。ただ、自らの主君をどこまでも誇らしく思う、澄み切った忠誠の光だけが満ちていた。

「セラの申す通りです。リナ様のその御心こそ、我らが命を懸けるに足る光。……どうか、ご自身を責めないでください」

二人の言葉が、凍てついていた私の心の奥底に、じんわりと染み渡っていく。

私は、仮面の下でこぼれそうになる涙をぐっとこらえ、こくりと頷いた。

すると、セラが私を抱きしめたまま、ふっと口元を緩めた。

「さて……。今日はこのまま、この『茶室』の奥にある和室に泊まって帰りましょう」

「えっ」

私は驚いて身を乗り出した。

「い、いや、私だけこの緊急事態のなかで、そんなのうのうと休むわけには……! まだ確認しなければならない報告書が……」

「戦いまでは、まだ数日あるのでしょう? 今日はもう、体も心も、ゆっくり休ませましょう。そうでないと……」

セラは言葉を切り、意味ありげに視線を横へ流した。

「そうでないと……?」

「ヴォルフラムも、休まるときがありませんわ」

「なっ……!」

不意に話を振られたヴォルフラムが、顔を真っ赤にして反論した。

「わ、私はそのようなヤワな鍛え方はしておりません! リナ様が頑張っておられるのに、この私が休むなど言語道断……!」

「ほら」

セラはくすくすと笑いながら、ヴォルフラムの目の下を指さした。

「ヴォルフラムも、もう何日も気を張ったままで休まるときが無かったようですから。ここは、リナ様も、ゆっくりして貰いますよ」

言われてみれば、ヴォルフラムの目の下には微かな隈が浮かび、常に周囲に気を配るその立ち姿には、隠しきれない疲労が滲んでいた。セラさんも同じだ。私が休まなければ、この人たちは絶対に休まないのだ。

「あ……」

私は自らの不甲斐なさに気づき、申し訳なさでいっぱいになった。

「そ、そうですね。……では、たまにはみんなで息抜きに……トランプでもしますか?」

私が努めて明るい声で提案した、その瞬間。

セラの完璧な微笑みが、ピクリ、と引き攣った。

「と、とらんぷ? ……ですか?」

(……また何か、危険な香りのする未知の単語が飛び出しましたわね……)

セラの翠の瞳が、僅かに警戒の色を帯びる。

「うん。トランプです」

私は無邪気に頷いた。

「五十数枚の硬い紙のカードを使った、色んな遊びができるゲームなんですけど……。先日、マルコさんに通信でお願いしたら、専用の紙の質から絵柄まで、あっという間に完璧なものを作っていただけて! ホント、あの方たち凄いですよねー!」

私は鞄の中から、美しくコーティングされた真新しいトランプの箱を取り出し、嬉しそうに掲げてみせた。

「…………」

セラは、その美しく精巧なカードの束を見つめながら、遠い目をした。

(……い、いつの間にそのような指示を……。またきっと、帝都の職人や官僚たちに、何人もの『犠牲者(徹夜組)』が出たのでしょうね……。カイ殿の胃が心配ですわ……)

知らぬが仏とばかりに、無邪気にカードを切る小さな主君。

その夜、和室の畳の上では、北の荒野の緊張を忘れさせるような、三人のささやかで賑やかな笑い声が、遅くまで響いていた。