軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話:『商人の視察と溜まりゆく書類』333.2

北壁の砦の正門前。

肌を刺すような冷たい朝の空気を切り裂くように、一際大きな場違いな笑い声が響き渡っていた。

「がっはっは! 実に有意義な商談であった! いやぁ、北の風は身が引き締まって良いものだな!」

口の端に不自然な付け髭を蓄え、豪華だがどこか胡散臭い外套を羽織った「商人」――皇帝ゼノンが上機嫌で馬の腹を叩いている。

その後ろには既に諦めの境地に達したのか無の表情で手綱を握る『大陸防衛軍』司令官、グレイグ中将の姿があった。

「商人様。道中くれぐれもお気をつけて」

私は銀の仮面の下で必死に引き攣る頬を抑えながら、あくまで「商人への礼」として深々と頭を下げた。

隣ではシュタイナー中将が「いつでもまたお越しくだされ!」と豪快に笑い、ユリウス皇子に至っては「父う……いえ、商人様。ご無事で!」と完全に目を泳がせている。

「うむ! 天翼殿もシュタイナー将軍も大義であった!」

ゼノンは付け髭を撫でながら不敵な笑みを浮かべて私を見下ろした。

「……頼んだぞ、小さな軍師殿。北の荒野に見事な『商いの道』を切り拓いてみせよ」

その言葉には茶番を越えた絶対的な信頼と皇帝としての重い期待が込められていた。

「……はい。必ずや」

私が力強く頷くとゼノンは満足げに馬首を巡らせた。

「よし! では出発だ! グレイグよ、案内を頼むぞ!」

「は、はい……商人様」

グレイグの覇気のない返事と共にお忍び(物理)視察団の車列が土煙を上げて南東へと出発していく。

その背中が見えなくなった瞬間、砦の正門前にいた全員が一斉に腹の底から深いため息を吐き出した。

◇◆◇

北壁の砦から南東へ。

かつてガレリア帝国とアルカディア王国が血みどろの死闘を繰り広げていた旧東部戦線。

数日間の道中、グレイグにとって最大の試練は野盗でも敵兵でもなく、好奇心旺盛すぎる主君の行動そのものだった。

「おお! あの奇妙な形の岩山は何だ? 見に行こう!」

「商人様、あちらは崖崩れの危険が……ッ! ああっ、近衛兵、追え!」

「美味そうな野兎がおる! 今夜の夕餉はあれにしよう! 皆の者、囲め!」

「しょ、商人様、罠猟の仕掛けが張ってあるかもしれませぬ! お待ちを!」

ゼノンは長年の宮廷生活の鬱憤を晴らすかのように荒野の旅を心底楽しんでいた。

一方のグレイグは生きた心地がしなかった。万が一、皇帝に傷でもつけば帝国が揺らぐ。彼は四六時中、胃薬を噛み砕きながら周囲に目を光らせていた。

そして一行はついに目的の地へと到着した。

今や両国間に和平が結ばれ、あの泥沼の戦争が嘘だったかのように静寂が戻った荒野。

「……ほう。ここがかつての最前線か」

ゼノンは馬を止め、眼下に広がる広大な平原を見下ろした。

そこはかつてリナが初めて戦場に立ち、泥と血と絶望に塗れた野戦病院の惨状を目の当たりにした駐屯地の跡だった。今は天幕も撤去され、吹き荒れる風が枯れ草を揺らしているだけだが、地面には無数の焚火の跡や兵士たちが踏み固めた生々しい戦の爪痕が広大な染みのように残っている。

「はい。あちらの窪地に野戦病院があり、その奥が補給物資の集積所でした」

グレイグがどこか遠い目をして説明する。

「あの娘が初めてここに来た時、絶望のあまり膝から崩れ落ちたのを覚えております。……あの小さな肩にここにあった数万の兵の命と絶望を一気に背負わせてしまった」

ゼノンは目を細め、更地に吹き抜ける風の音を聞いた。

「……だが、あやつはそこから逃げなかった。あの絶望の泥沼の中から立ち上がり、ついには『鳥もち地獄』という奇手で王国の『剣聖』と『聖女』を打ち破ったのだな」

「はっ。……なんだかあまりに色々なことが起きすぎて、もう何年も昔の出来事のように思えますが、ほんの少し前のことなのですよね……」

グレイグがしみじみと呟く。彼にとってもリナとの出会いは、自身の将としての在り方を根本から変える嵐のような日々だった。

「……そういえば」

ゼノンはふと思い出したように視線を南へと向けた。

「その王国の『聖女』殿は今、南のシャングリラ聖王国でえらく手を焼いておるそうだな」

「はっ。どうも聖王国内で、帝国と王国を貶めるような不穏な噂が広まりつつあるようでして」

グレイグが不快そうに渋面を作る。

「そのせいで、アルビオンに対抗するための聖王国との連携交渉がかなり難航しているとのことです」

「ふん。出処の知れぬ噂に踊らされるとは、聖王国とやらも厄介なものよ」

ゼノンは付け髭を撫で、鼻を鳴らした。

「だが、あの聖女マリアとやらもそう簡単に丸め込まれるタマではあるまい。南の盤面はあやつらに任せておくしかなかろうな」

「ええ。……今はまだリナには聞かせられん話です。あやつは北の 毒蛇(ヴィクトル) 相手に手一杯でしょうからな」

グレイグの言葉にゼノンは深く頷いた。

「ここであの娘が頭角を現したのだな」

ゼノンは満足げに再び視線を更地へ戻し、馬首を巡らせた。

「よし。では次へ行こうか。……次はどこだ? かつてライナーたちが籠もっていたという砦か?」

「あ、いえ、陛下……ゲフン。商人様」

グレイグは慌てて咳払いをして馬を寄せた。

「あの砦は現在『影』の部隊の最大の訓練場として改修されております。機密保持の観点からも、それにあそこへ続く道は先日の大雨で崩れておりまして、非常に足場が悪く……視察はここまでにして、そろそろ帝都へお戻りになられた方が……」

「ふっ。何を言うか、グレイグよ」

ゼノンは付け髭を撫でながら悪戯を見つけた子供のような不敵な笑みを浮かべた。

「戦において情報とそれを扱う者たちがいかに重要か。余もよう知っておるつもりだ。それにあの大規模な『影』の練度、この目で直に確かめておきたいではないか」

「ですが、商人様……」

「さあ、案内せんか。道が悪いなら馬を降りて歩けば良いだけのこと!」

ゼノンはグレイグの制止など全く聞く耳を持たず、上機嫌で馬を進め始めた。近衛兵たちも主君のわがままに慣れた様子で、無言のままその後を追う。

「あ、お待ちを……!」

取り残されたグレイグは大きく深く、重いため息をついた。

(……わし、はよう帰らんと大陸防衛軍の編成書類が山のように溜まっておるというのに……)

頭を抱える彼の脳裏に、執務室の机から雪崩落ちる決裁書類の山とそれを片手に青筋を立てているであろう副官たちの顔がはっきりと浮かんだ。

グレイグは諦めの境地で手綱を握り直し、自由すぎる皇帝の背中を追って険しい獣道へと馬を踏み入れた。

大帝国の最高権力者とその最も頼れる猛将。

二人の男たちの威厳と哀愁に満ちた「お忍び視察」の旅は、もう少しだけ続くことになりそうだった。