軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第321話:『枯れ井戸の密約、老商人の野望』

「バラク殿は見事に虎口を脱しました。じゃが……」

木箱を挟み、エノクは声を一段低く落として核心を突いた。

「あの 毒蛇(ヴィクトル) が面子を潰されたまま大人しく引き下がるとは到底思えん。軍師殿、盤面はこれからどう動くのじゃ?」

問いを受けた瞬間、私の瞳から温もりが消え去り、極北の氷河を思わせる冷たい光が宿った。

「ヴィクトルはバラク殿の名声が高まることを決して許しません」

淡々と事実を述べる唇からは盤面を支配する冷酷な響きが漏れる。

「……何らかの 謀(はかりごと) をもって必ずバラク殿を『民を害した大罪人』に仕立て上げる。回収した薬草をそのまま真っ当に配るはずがありません」

「……やはりそう読まれますか」

エノクは納得したように目を細めた。

「ええ。ですからエノク老師たちには引き続き末端の情報のコントロールをお願いします。今後、覇国の手によって民が苦しむようなことがあれば……それはバラクではなくクルガンによってもたらされた物であるという真実をただちに民衆の間に浸透させてください」

「承知いたしました。我らの情報の網はすでに覇国の血管の隅々にまで張り巡らされております。毒が回るより早く真実の血を流布してご覧にいれましょう」

その頼もしい返答を確認し、私は次の手を打つ。

「そしてヴィクトルが覇国の内部を統制するため、強引な軍事行動や徴兵に出た場合。……あなた方や同調する部族は決して逆らわず、素直に応じて軍の内部へ入り込んでください」

「軍の中へですか?」

「ええ。もしあなた方が最前線の捨て駒として矢面に立たされそうになったら……その時は陣中でこう噂を流すのです」

私は声を潜め、毒を垂らすように囁いた。

「『北の民を救うバラク殿ならば自ら先陣を切るはずだ』『それに引き換え覇王の直属部隊や将軍たちは泥にまみれることも恐れる臆病者ばかりだ』……と」

エノクの目が驚きに大きく見開かれた。

「……覇国の将軍たちはプライドと虚栄心の塊です。下賤の民から臆病者だと囁かれることを何よりも嫌う。必ず挑発に乗り、面子を守るために自ら前線へと出たがるはずです。……あなた方はその背後に隠れ、決して矢面に立たないでください」

敵の自己愛と虚栄心という最大の弱点を逆手に取り、見え透いた流言飛語一つで敵陣の軍団配置すら意のままにコントロールし、味方の命を完全な安全圏へと退避させる。

一滴の血も流さず相手を思い通りに踊らせるそのえげつないまでに合理的な策に、エノクは老練な商人として心底舌を巻いた。

「……恐れ入りました。見事な手腕でございますな」

「ですが」

エノクの感嘆を遮るように私は身を乗り出した。衣擦れの音が静寂に響く。

カンテラの光を真っ直ぐに映す私の瞳がエノクの灰色の瞳を至近距離から射抜いた。

「――絶対に無理はしないでください」

そこに軍師としての冷徹な計算はなかった。あるのはただ目の前の命を案じる一人の人間としての切実な響きだけだった。

「ヴィクトルの監視の目は異常です。少しでも危険を感じたら任務などすべて捨てて、即座に潜伏を」

私は言葉を区切り、さらに深く静かに紡ぐ。

「もし覇国が軍を強引に動かし、流言も通じず、あなた方がどうしても最前線に立たされることが不可避となったなら……その時は装備のどこかに『紫の布』を結びつけておいてください」

「紫の……あの薬の袋の紐と同じ色をですか?」

「ええ」

私は力強く頷いた。

「こちらにはすでに『彼らの牙を遥か遠くから圧し折る見えざる手』の用意を進めています。……その場合には紫の目印を持つ者は決して害さないよう厳命しておきます」

エノクが小さく息を呑んだ。

「あなた方が血を流す必要はない。……命を最優先にしてください」

少女の瞳に宿る嘘偽りのない本気の気遣い。

ただの使い捨ての 細作(スパイ) ではなく、戦場で命を救い出すための絶対的な 標(しるし) としてあの高貴な色を使えと言うのだ。

エノクはその温かさに胸の奥を激しく打たれ、深く 懃(いんぎん) に頭を下げた。

「……ああ、もちろんでございます。商人は臆病が身上ゆえ損な商売はしませぬ。安全第一で動きますとも」

彼は顔を上げ、深い皺を寄せて柔和な好々爺のように笑ってみせた。

だがランプの光が届かない伏せられた瞳の奥底では、言葉とは裏腹に全く別の感情がどす黒く、そしてマグマのように熱く燃え上がっていた。

(……この方は我らをただの使い捨ての駒とは見ておらぬ。真に我らの命を尊んでおられる。……ならば我らも持てる全てを懸けてこの恩義に応えねばならん!)

(この千載一遇の好機を逃す手はない。カナンの誇りある復興と我らを土塊のように踏み躙ったヴィクトルへの復讐のためならば……この老いぼれた身を死地に晒す程度の危険、喜んで冒すのみじゃ!)

老商人の計算づくの理性を超えた狂気にも似た執念。

それは少女には決して見せぬ暗闇の中で、静かに、しかし激しく火花を散らしていた。