作品タイトル不明
第307話:『参謀の冷徹、古狼の包囲網』
ヴォルガルド覇国の玉座の間は、血の匂いがした。
床に転がる黄金の杯と飛び散った赤い酒。それは先ほどまでここで吹き荒れていた嵐の残滓だった。
クルガンは玉座に深く腰掛け、荒い息を繰り返している。その瞳はまだ獲物を見失った狼のように、怒りと焦燥でギラついていた。
「……静まりください、覇王よ」
その熱狂に、氷水を浴びせるような声が響いた。
ヴィクトルが砕けた杯の破片を優雅に避けながら、クルガンの前に進み出る。
「ただ怒るだけでは、あの古狼の腹の中は見えませぬ。ネズミを追い詰めるにはまずその巣穴の場所を突き止めるべきです」
「黙れ! 俺は今、奴らの首を刎ねたい気分なのだ!」
「ええ、お気持ちは痛いほど。ですがその首を刎ねた後、我々は何を得られるので?」
ヴィクトルの冷たい問いに、クルガンはぐっと言葉に詰まった。
参謀は眼鏡の位置を直しながら、静かに、しかし核心を突く言葉を続けた。
「注目すべきは、彼らが『どうやって』あの悪疫を克服したかです。我ら北の民を長年苦しめてきたあの病は、シャーマンの祈祷でも治らぬはず。……何らかの未知の手段、あるいは……」
ヴィクトルはそこで一度言葉を切り、南の空を見つめるようにわずかに視線を上げた。
「……帝国からの、干渉があったのかもしれません」
その言葉が、クルガンの脳天を打ち抜いた。
怒りで燃え上がっていた瞳が、スッと冷酷な狩人のそれへと変わる。
「……帝国、だと?」
「あくまで可能性の一つですが。帝国には『天翼の軍師』とやらがいると聞きます。その逸話、どこまで真実かはわかりませんが、うわさの1割も真実が含まれるのであれば、ありえない話ではないかと」
クルガンの口元に、残忍な笑みが浮かんだ。
「……面白い。ならば、その『手段』とやら、根こそぎ奪ってくれるわ」
「その治療法を力ずくで吐かせろ。それがもし『物』であるならばすべて奪い、『知識』であるならばその者を連れてくるのだ」
クルガンの声は、もう怒鳴り声ではなかった。獲物の急所を狙う蛇のように、低く静かだった。
ヴィクトルは、その命令を待っていたかのように深く、慇に一礼した。
「――承知いたしました、我が覇王」
彼は不敵な笑みを浮かべ、クルガンに背を向けた。
「バラクたちには建国の祝賀に駆けつけられなかったことへの『見舞い』と称し、調査員を送り込みましょう。彼らが隠している秘密、根こそぎ丸裸にしてみせますよ」
ヴィクトルがゲルから退出する際、その瞳の奥には、盤面を支配する愉悦の炎が暗く灯っていた。
◇◆◇
その頃。
北の広大な荒野に、静かな波紋が広がっていた。
バラク、ゴード、エルラの三族長から遣わされた使者たちが、病に苦しむ周辺の小部族を次々と訪れていたのだ。
彼らの手には、あの紫色の紐がついた異質な袋。
中身は、奇跡の薬草『星影草』。
それは無償で分け与えられ、絶望に沈んでいた人々の間に、驚きと感謝の輪を生んでいた。
だが、その慈悲深い光景の裏側で、見えざる戦争はすでに始まっていた。
国境近く、『忘れられた神々の遺跡』。
建設が進む『道の駅』の喧騒から離れた丘の上に、リナは一人、巨大な地図盤を前に佇んでいた。風が彼女のマントをはためかせ、盤上の駒に影を落とす。
その盤面には、星影草を運ぶ使者たちの動き、受け取った部族の反応、そして彼らの背後から忍び寄る不審な影の動きまでが、リアルタイムで記されていく。
遺跡の周囲に張り巡らされた見えざる包囲網。
風の部族の斥候は風の音から遠くの馬蹄の響きを聞き分け、土の部族の斥候は地面に残されたかすかな痕跡から敵の規模を読み解く。そして森の部族の斥候は、鳥の飛び立ち方一つで、人の気配を察知した。
彼らが集めた情報は、帝国から持ち込まれた最新の通信機と、『影』たちが張り巡らせた伝令網によって、瞬時にリナの元へと集約される。
一羽の鳥の動き、一つの砂埃の立ち上りすら、この完璧な監視体制から逃れることはできない。
リナが作り上げたこの静かなる「目」と「耳」が、北から忍び寄るであろうヴィクトルの魔手に対し、音もなく牙を研いでいた。