軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第283話:『監査官の天秤、獅子たちの問い』

作戦室の重い扉が閉まり軍議の熱気が去った後も、アイゼンハルトはその場から一歩も動けずにいた。ランプの灯りが揺れ、壁に掛けられた巨大な地図に彼の長い影を落としている。その影はまるで彼の心の内を表すかのように深く、濃く、そして揺らいでいた。

(……矛盾している)

彼の思考は同じ場所を何度も何度も旋回していた。

薬草を敵に与えるという非合理な感傷。

帝国の未来を左右する兵器の量産を禁じ、その存在自体を秘匿するという非合理な自己制限。

二つの「非合理」は彼の論理回路の中では決して交わることのない平行線だった。まるで性質の違う二人の人間が、同じ『天翼の軍師』という仮面を被っているかのようだ。

(皇帝陛下はこれを『思想』と仰った。だがこれは思想などではない。ただの気まぐれか、あるいは……常人には理解できぬ狂気だ)

彼は自らが皇帝に提出するために書き溜めていた報告書の草稿を脳内で開く。『予算の私的流用』『独断専行』――用意していた弾劾の言葉が今や空虚に響く。あの兵器の力を独占せずその拡散を恐れる少女に「私欲」という言葉をどう当てはめろというのか。

ふと背後に人の気配を感じ、彼は思考の海から引き戻された。

振り返るとそこに立っていたのはユリウス皇子、レオン、そしてゼイドの三人だった。彼らは軍議が終わった後もアイゼンハルトのただならぬ様子が気になり、部屋の前に留まっていたのだ。

「……監査官殿」

最初に口を開いたのはユリウスだった。その声には以前のような反発心はなく、純粋な問いかけの色が浮かんでいた。

「貴官の目には先ほどの軍議……リナ殿の判断はどう映っただろうか」

アイゼンハルトは苛立ちを隠しもせずに答えた。

「どう、とは? 支離滅裂。矛盾の塊。それ以上でも以下でもありません」

その言葉に今度はレオンが静かに一歩前に出た。彼の眼鏡の奥の瞳は、まるで難解なパズルを解くように知的な光を放っていた。

「矛盾、ですか。……ですが視点を変えれば、そこには一本の筋が通っているようにも見えます」

「ほう?」

アイゼンハルトは初めて皇子の側近に興味を示した。

「彼女は薬草という『生かす力』を敵に与えようとしました。そしてライフル銃という『殺す力』の拡散を禁じ、管理下に置いた。……どちらの判断も根底にあるのは『無用な血を流させない』という、ただ一つの目的のためではないでしょうか」

レオンの言葉はまるで霧の中の道を照らす灯火のように、アイゼンハルトの心に一条の光を差し込んだ。だが彼は即座にその光を打ち消す。

「目的が正しければ手段の矛盾が許されると? 詭弁ですな。国家運営とはより厳格な規律と論理の上になりたつべきもの。個人の美学で動かすなどあってはならない」

「だが兵士の命は数字じゃない!」

それまで黙っていたゼイドが堪えきれずに声を張り上げた。彼の真っ直ぐな瞳がアイゼンハルトを射抜く。

「リナ様は俺たちがただの駒じゃないことを誰よりも分かってくれている! あんたの言う『正しい国家運営』とやらは、兵士に血を流すことを『コスト』として平然と受け入れるのか!」

「当然だ」

アイゼンハルトは間髪入れずに答えた。

「それがより多くの民を生かすための為政者の責務だ。個人の命に心を痛め大局を見誤ることこそが悪」

「――ならば、なぜ彼女はあの兵器の量産を禁じた?」

ユリウスが静かに、しかし核心を突く問いを投げかけた。

「あの兵器を量産すれば兵士の 犠牲(コスト) を最小限に抑え、帝国の勝利をより確実なものにできる。貴官の言う『正しい国家運営』にこれほど貢献するものはないはずだ。……だが彼女は最大の利益を自ら制限した。 その行動こそ貴官の論理では最大の『矛盾』となるのではないのか?」

その問いにアイゼンハルトは言葉を失った。

そうだ。なぜだ。あの少女はなぜ最大の利益を自ら制限した?

三丁だけ作り、戦いを終わらせるためだけに使うという。それは力を放棄したのではない。

個人の感傷、利益で動くなら、あの兵器の力に魅了されるはずだ。

冷徹な合理主義者なら、あの兵器を最大限に利用し量産するはずだ。

彼女はそのどちらでもない。

(……分からない)

初めて彼の頭脳が明確な答えを出すことを放棄した。

目の前の皇子たちが自分よりもあの不可解な少女の本質に近づいている。その事実が彼の官僚としての矜持を静かに傷つけた。

「……失礼する」

彼はそれだけを吐き捨てると皇子たちに背を向け、足早に作戦室を後にした。

自室に戻る廊下を歩きながら、彼は無意識に拳を固く握りしめていた。

(見極めてやる……。あの少女の正体を。そしてあの矛盾の奥にあるものが、本当に陛下が言うような『思想』なのかどうかを……)

◇◆◇

ちょうどその夜、北方諸族の二つの野営地は重い沈黙に包まれていた。

『赤土の民』と『黒森の民』。先の戦で帝国に敗れ、帝王クルガンに見捨てられ、ただ憎しみを募らせていた彼らの元にバラクからの使者としてアランが訪れたのだ。

その手には、『星影草』と、良質な塩、そして鉄があった。

「これは施しではない。対等な『取引』だ」

アランの言葉に二人の族長は驚き、困惑した。

バラクの野営地で病が癒え子供たちの笑顔が戻っているという噂は、風に乗って彼らの耳にも届き始めていた。クルガンへの恐怖とバラクが示す未知の可能性との間で、彼らの心は大きく揺れ動く。

バラクが帝国と繋がっているとは夢にも思わず、彼が新たな交易路を開拓したのだと信じ込んでいる。

熟慮の末、二人の族長は密かに会談することを決意した。

「バラクの奴、一体何を企んでいるのか」

「奴は変わった。どこでこれほどの品を手に入れたのだ。……その秘密を、この目で確かめる必要がある」

北方諸族の間に、新たな風が吹き始めていた。