作品タイトル不明
北の風聞 III:『甘い毒、子供たちの笑顔』 276.6
野営地の片隅、かつて子供たちの賑やかな声が響いていた広場は、今はただ乾いた風が砂塵を巻き上げるだけの色のない場所と化していた。
病への恐怖と大人たちの重苦しい空気が、陽光さえも吸い込んでしまうかのようだ。遊んでいる子供たちの姿はまばらでその声は小さく、顔には不安の影が落ちている。
バラクはその光景を遠くから見つめ、ゲルに置かれた一つの麻袋に視線を落とした。軍師が最後に手渡した焼き菓子の包み。
(……これもあの魔女の計算の内か……)
これを配れば子供たちは喜ぶだろう。だがそれは帝国の甘い毒に民の心を売り渡すことにならないか。彼の心の中で族長としての矜持と一人の祖父としての情が激しくせめぎ合っていた。
昼下がり、バラクは意を決し子供たちを中央広場へと集めた。
麻袋の口を開けるとバターと砂糖の甘い香りがふわりと広がり、子供たちの鼻がひくつく。その瞳に久しぶりに好奇心の光が灯った。
バラクは「これは先祖の霊が授けてくださった勇気の菓子だ」と威厳を込めて嘘をつき、一人ひとりに焼き菓子を手渡していく。子供たちは恐る恐るそれを口に運び、次の瞬間その目を驚きと喜びに大きく見開いた。
「おいしい!」「あまい!」「もっと!」
忘れていた歓声が久しぶりに野営地に響き渡る。その声に誘われゲルの影から大人たちが顔を出し、子供たちの屈託のない笑顔に自分たちの強張っていた顔も自然と緩んでいくのを感じていた。
その夜の長老会はこれまでとは全く違う空気に包まれていた。焚火の炎が揺れる中、長老たちの顔から険しさが消えどこか穏やかな空気が流れている。
一人の長老が静かに口を開いた。
「……族長。……帝国の軍師は我らに薬と、そして子供たちの笑顔をくれた。……クルガン様が我らに与えたのは死と恐怖だけだ」
その言葉に他の長老たちも深く頷く。
クルガン派の急先鋒だった戦士長が、苦々しくしかし認めざるを得ないという表情で呟いた。
「……俺の息子もあの菓子を食って笑った。……あんな顔は久しぶりに見た」
彼の言葉がバラクの部族の心の天秤が決定的に傾いたことを静かに告げていた。