作品タイトル不明
閑話:『月下の盾、影の箴言』 273.5
夜のしじまが降りていた。
月明かりだけが霜の降りた練兵場を青白く照らし出している。その静寂を、ひゅっと風を切る音だけが繰り返し引き裂いていた。
ヴォルフラムは一人木剣を振っていた。
その剣筋は鋭く、速い。だがどこか空回りしている。一振りごとに乱れる呼吸が白い霧となって夜気に溶けては消えた。振り払おうとする焦りが刃先に迷いとなって現れる。
(なぜだ……! なぜ私はセラ殿のようにリナ様の心を支えられない? クララのように完璧な安らぎも与えられない? ただ剣を振るうことしか……!)
その背後に音もなく影が立った。
「……ひと汗かくか?」
ゲッコーの声だった。
ヴォルフラムは弾かれたように振り返った。いつからそこにいたのか、全く気配を感じさせなかった。闇に溶け込むようなその男の瞳が月光を反射して昏く光っている。
侮られている。そう感じた彼女の目に鋭い敵意が宿った。
「……望むところだ」
絞り出した声は凍てつく夜気よりも冷たかった。
二人は距離を取り、木剣を構える。
カツンカツンと乾いた音だけが凍てつく夜に響いた。ゲッコーはただ受け流すだけ。だがその動きには一切の無駄がなく、ヴォルフラムの剣筋に潜む焦りの芯を的確に見極めている。
やがてヴォルフラムが激情に任せて踏み込んだ。だがゲッコーは柳に風と受け流し、常に彼女の力の中心を外す。焦りは募る一方だった。
打ち合いが止み、二人は間合いを取る。月明かりが汗で濡れたヴォルフラムの横顔を照らした。
ゲッコーが静かに問う。「……我らの戦場はどこだと心得ているか?」
ヴォルフラムが答えに窮した、その一瞬。
ゲッコーの姿がぬるりと月光の中を滑るように踏み込んだ。ヴォルフラムは本能だけでそれを回避するが、頬を撫でる風圧に肌が粟立つ。気づけばゲッコーは耳元で囁けるほどの至近距離にいた。
「そなたはリナ様の盾。揺らいでどうする。迷ってどうする」
ヴォルフラムは絶叫と共に木剣を薙ぎ払う。だが手応えはない。ゲッコーはすでに数メートル離れた場所で静かに背を向けて立っていた。
「そなたにはセラ殿の働きは求められておらん。俺でもクララでもない」
ゲッコーの声は夜の静寂に染み渡るように響く。「惑うな。ヴォルフラム殿が傍にいるからこそ、俺は安心してリナ様から離れられる。……それを理解しろ」
彼は振り返り、近くに立つ一本の枯れ木を指し示す。「……では。その木がリナ様だ。良いか?」
次の瞬間ゲッコーの姿が掻き消える。ズシャッ!パパパパッ!と空気を切り裂く音が連続し、彼が元の位置に戻った時、枯れ木の幹には無数の浅い傷がまるで木刀で撫でられたかのように正確に刻まれていた。
「……そなたの剣から迷いが消えるまで……付き合おう」
その人外の技にヴォルフラムはただ呆然と立ち尽くす。
「……そなたは盾だ。帝国一のな。そうでなければならん。それがそなたの価値だ」
彼が再び踏み込む。その動きはあの『狼の巣』で見た死そのもののような剣戟を想起させた。
「あの崩れゆく港で見せた剣……。それを常に示せ」
ヴォルフラムの心の中で最後の迷いが断ち切られる。そうだ。私はリナ様の盾。ただそれだけでいい。それこそが私の全てなのだ。
彼女は深く息を吸い、それまでの迷いを全て吐き出す。再び構えた剣筋にもはや揺らぎはない。月光を浴びてその瞳は鋼のように静かな輝きを取り戻していた。