軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

茶話会:『影への誘い』

『――クラウスさん』

絞り出した声は、自分のものではないように、ひどく乾いていた。変声機を通していない、か細い少女の声。だが、その響きには有無を言わせぬ決断の色が宿っていた。

『今夜、エルディン殿を“誘拐”します』

通信機の向こうで、クラウスが息を呑む気配がした。

『……誘拐、ですか……?』

『ええ。彼の部屋を荒らし、あたかも彼が「帝国側に拉致された」かのように偽装します。……ですが、ただの誘拐ではありません。そこに、毒入りの餌を一つ、置いてきてください』

『……毒入りの、餌……?』

『はい。彼の机の上に、帝国との繋がりを示す暗号文の偽物を、これ見よがしに残します。誰が見ても、彼が裏切り者だと分かるように。……ですが、その手紙とは別に、もう一つ。バルガス侯爵だけが意味を理解できる『ある情報』を、部屋のどこか分かりにくい場所に置いておくのです』

私の声は、熱に浮かされながらも、剃刀のように冴え渡っていた。

『例えば……侯爵が過去に行った、決して表沙汰にできない不正取引の証拠の断片。そして、『取引の詳細と他の証拠は、別の場所に隠した』とだけ記した、メモを添えて』

通信機の向こうで、クラウスは言葉を失っていた。一人の協力者の危機を逆手に取り、敵の陣営にさらなる混乱の種を蒔く。その発想は、彼のこれまでの軍略の常識を遥かに超えていた。

『エルディンが帝国のスパイだと大々的に公表し、捜査をすれば、自らの汚職が白日の下に晒される危険がある。さりとて放置すれば、帝国がその証拠を手に入れるかもしれない。……彼はこの事件を内密に処理し、かつエルディンの家を潰すこともできず、むしろ懐柔して『他の証拠』のありかを探ろうとするしかなくなる。その不自然な動きは、必ずや周囲にさらなる疑心暗鬼を生むでしょう』

彼は、その意図の深さに戦慄しながらも、最も重要な点を問いかけた。

『……ですがリナ様、それでは彼の身柄は……?』

『……彼は、今日限りで“死にます”』

私の声は、感情を削ぎ落とした無機質な響きを帯びていた。

部屋の空気が凍りつく。セラとヴォルフラムが、信じられないものを見る目で私を見つめている。

『男爵家の次男坊、エルディンとしての人生は、そこで終わりです。家族も、友人も、全てを捨てていただく。……そして、名もなき『影』として、私たちのために生きてもらうのです』

『……彼に、その覚悟があるかどうか。それは、クラウスさん、あなたが見極めてください。もし彼にその覚悟がないのなら……』

私は、そこで言葉を切った。

その沈黙が、「その時は、彼を本当に消すしかない」という、最も残酷な選択肢を暗示していた。

『……御意に。……彼の覚悟、必ずや』

クラウスの、覚悟を決めた声が響いた。

通信が切れた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

ごほっ、ごほっ、と激しい咳が込み上げ、私はベッドの上で小さく身をかがめた。

「リナ様!」

セラが慌てて駆け寄り、私の背中を優しくさする。その手のひらから伝わる温もりが、燃えるように熱い身体にじんわりと染みた。

「……セラさん……ヴォルフラムさん……」

私は荒い息を整えながら、二人に向き直った。その目は熱で潤んでいるが、光は失っていない。

「……聞いてください。もし、この政変が成功し、アルフォンス様が玉座に就かれた暁には……」

私は、エルディンという駒の、その先の未来について語り始めた。

「彼が帝国に協力したという事実は、新王国の下では『国を救った功績』として認められるはずです。……そうなれば、彼の名誉を回復し、家族の元へ帰す道も開けるかもしれない。……いえ、開いてみせます」

それは、軍師としての冷徹な計算と、一人の人間としての、ささやかな祈りだった。

「ですが……」

私は、二人の目を強く見据えた。

「このことは、まだ決して、エルディン本人には伝えないでください。これはまだ可能性でしか無い未来の話です。希望は時に、人の覚悟を鈍らせる毒にもなる。……彼には今、全てを捨てる覚悟が必要なのですから」

私の言葉に、セラとヴォルフラムはただ、深く頷くことしかできなかった。

そこまで言い終えた瞬間、私の身体から急速に力が抜け、ぐらり、と傾いだ。

「リナ様!」

セラが慌てて私の身体を受け止める。

「しっかりしてください!」

視界が白く霞み、耳鳴りがひどい。セラの声が、水の中にいるように遠くに聞こえる。

それでも私は、最後の気力を振り絞り、セラの腕を弱々しく掴んだ。

「……セラ、さん……」

「はい! ここにいます!」

「……もし……もし、何かあったら……必ず……起こして……伝えて……」

「……はい……!」

「……必ず……ですよ……」

うわ言のように繰り返すと、意識は深い、深い闇の中へと沈んでいった。熱に浮かされた身体はぐったりと重く、ただ浅い呼吸を繰り返すだけ。

セラは、腕の中で燃えるように熱い小さな体を抱きしめ、唇を強く噛み締めた。ヴォルフラムもまた、その傍らで祈るように膝をつき、己の無力さに拳を握りしめる。

どれほどの重圧をその背に負い、そしてどれほど先の未来まで見据えて戦っているのか。

二人は、ただ無言で夜が明けるのを待つしかなかった。

◇◆◇

その夜。

エルディンは、自室の窓から差し込む月光の下、クラウスと静かに対峙していた。

全てを聞かされた彼の顔は、蒼白だった。

「……つまり、私は……死ね、と」

「生きて、影となれ、と申し上げております」

クラウスの声は、淡々としていた。

エルディンは窓の外、遠くに見える家族の暮らす棟に目をやった。もう二度と、あの温かい食卓を囲むことはできない。愛する妹の成長を見守ることも、父の背中を追うことも。

だが、脳裏に浮かぶのは、苦しむ民の顔。そして、この国を救うという、自らが立てた誓い。

彼はゆっくりと、目を閉じた。

「……分かった」

再び目を開けた時、その瞳に迷いはなかった。

「エルディンは、今夜ここで死ぬ。……明日からは、ただの影として、軍師殿のために生きよう」

その覚悟を聞き届けたクラウスは、深く、深く頭を下げた。

「……感謝、いたします」

その夜、男爵家の屋敷は奇妙な静けさと緊張に包まれた。

次男坊エルディンの部屋が荒らされ、本人が忽然と姿を消したのだ。机の上に残された帝国との密通を示す暗号文。その報を受け、バルガス侯爵は自ら現場に駆けつけた。

彼は公式の調査団を遠ざけ、自らの手勢だけで部屋をくまなく捜索させる。そして、「もう一つの証拠」を見つけ出した時、その顔から血の気が引いた。

侯爵は、この事件を「帝国の卑劣な誘拐事件」として公表することも、男爵家を裏切り者として断罪することもなかった。ただ、「エルディンは病のため、静かな場所で療養している」という苦しい嘘を周囲に告げ、その裏で必死に男爵家と接触を図り、消えた証拠の行方を探ろうとする。その姿は、他の貴族たちの目に、ひどく狼狽し、何かを隠しているとしか映らなかった。

リナが仕掛けた毒は、静かに、しかし確実にバルガス侯爵の足元を腐らせ、彼の孤立を深めていった。

その混乱の裏側で、一人の若者が、名もなき影と共に、夜の闇へと静かに消えていった。