作品タイトル不明
第165話:『潮風と誓いの影』
太陽はまだ空の中ほど。肌を焼くには早く、しかし朝の涼やかさはとうに消え失せた昼前の港。
足元から、腹の底を揺さぶる低い唸りが響く。巨大な船体が岸壁を擦る、軋むような悲鳴。アルビオン連合王国の輸送船が、巨体を震わせながらゆっくりと岸を離れていく。
その時、視界の隅で何かが閃いた。
波止場に並ぶ倉庫の影から、黒い獣が弾け飛ぶ。重力など無いかのように空を切り、一瞬でこちらの船腹に吸い付いた――ように見えた。
慌てて目を凝らすが、そこにあるのは船体の落とす濃い影と、水面を叩いて渦巻く黒い波だけ。
(……気のせい……?)
鳥か、光の悪戯か。私は小さく首を振り、胸に生まれたささくれのような違和感を、無理やり思考の底へ押し込んだ。
ごわつく麻布の服が肌に擦れる。潮風が汗ばんだ首筋を撫でて、ひやりと冷たい。
私は他の掃除婦たちの中に紛れ込み、甲板の隅で遠ざかる街並みを見つめていた。陽光を浴びて輝く建物の輪郭が、みるみるうちに小さく、滲んでいく。
(……行ってきます、姐さん。必ず、帰ってきますから)
声にならない誓いを唇に乗せ、固く引き結ぶ。
水平線の彼方へ溶けていく街に背を向けた瞬間、私の新しい戦いの幕が上がった。
船上からは、早くも商談や世間話を始めた商人の濁声が響いてくる。拠点に居るという兵員たちへの荷も、大量に持ち込んでいるのだろう。船上の人たちの熱気が、潮風に乗って甲板で響く。やがて船は港の庇護を完全に離れ、その巨体を外洋の深い蒼へと滑り込ませた。
◇◆◇
午後の陽光が黄金色を帯び始め、甲板に長い影が伸びる。
船が揺れるたび、影もまた生き物のように蠢く、午後3時過ぎ。
私は一人、山と積まれた資材の影に身を潜めていた。日中の熱を吸った木の匂いと、濃い潮の香りが混じり合う。船員からこっそり分けてもらった硬いパンを、少しずつかじる。遠くで響く船員たちの声が、どこか長閑に聞こえる。
小さな体で息を潜めるには、うってつけの場所だった。
その、束の間の安らぎを、何かが引き裂いた。
すぐ目の前の資材の影が、ありえない形にぐにゃりと歪む。
闇が凝って人の輪郭を象るかのように、ぬるりと一つの人影が滲み出した。
「――ひっ」
引き攣った息が、乾いた喉に張り付く。手の中のパンが、からん、と乾いた音を立てて甲板を転がった。心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなる。
だが、影は私を襲うことなく、ただ静かに、傾き始めた午後の光の中へと一歩踏み出した。
黄金色の光が、その貌に刻まれた無数の傷を克明に照らし出す。
見間違えるはずがない。
「――ゲッコー……さん……? な、なんで……ここに……?」
思考が真っ白に塗り潰される。どうやって。いつから。なぜ。
無数の疑問が渦を巻くのに、言葉は続かない。
だが、次の彼の行動が、私の全ての思考を吹き飛ばした。
ごつり、と鈍い音が響く。
ゲッコーさんが、その場に片膝をついたのだ。まるで岩が落ちるかのように重く、深く。
そして、傷だらけの顔を、万の悔恨を噛み締めるようにうなだれた。
「…………」
沈黙が落ちる。
わずかに震える分厚い肩を、西日が黄金色に縁取る。
それは、いつも私の背後で全てを見通していた無敵の諜報員の姿ではなかった。守るべき主君を危険に晒し、己の不甲斐なかった過去をただ噛み締める、一人の騎士の姿だった。
「……ゲッコーさん……?」
おそるおる紡いだ声に、彼は錆びた鉄を擦るような音で応えた。
「……申し訳……ございません……リナ様……」
無念と自責に、その声はひどく嗄れている。
「このゲッコー……あまりに不甲斐なく……あなた様を、このような危険な旅路に……」
彼が、ゆっくりと顔を上げる。
その全てを見抜く様な瞳が、まっすぐに私を捉えた。
怒りも、失望もない。そこに揺らめいていたのは、張り詰めていた氷が溶けるような、深く、温かい安堵の光。目の前の小さな主君が無事でいるという、ただその事実への万感の思いが、瞳の奥で静かに燃えていた。
「……ですが……ご無事で……。本当に……ようございました……」
その不器用な、魂の底から絞り出されたような言葉に、喉の奥がつんと熱くなる。視界が滲んで、彼の傷だらけの顔が揺らいだ。
「もう! 心臓が止まるかと思いました! ……ゲッコーさんこそ、ご無事で……本当によかった……!」
「貴女が最後に授けてくださった光、それによって拾った命です。この身、改めて貴女様に捧げましょう」
床板が軋むほどの重みで、彼は再び膝をつこうとする。その分厚い肩に、私は慌てて両手を押し当てた。ずしりとした筋肉の感触が、彼の揺るぎない覚悟を伝えてくる。
「もう、いいから! いいから、顔を上げて! ……ゲッコーさんがここにいてくれるなんて……すごく、心強い……!」
私の必死の言葉に、ゲッコーさんはようやくその動きを止めた。
背骨を一本一本確かめるように、音もなく立ち上がる。
そのわずかな時間の間に、彼の貌から騎士の懊悩と感謝の念が、まるで薄い氷が砕けるように消え失せていた。
代わりに現れたのは、感情という不純物を一切排した、鋼のごとき諜報員の貌。
全てを見通すプロの諜報員の冷徹な光が、再び隻眼に宿る。
「ですが、リナ様」
肌を撫でる声の温度が、数度下がったように感じた。
「この船への単独潜入、あまりに軽率が過ぎる」
淡々と、しかし有無を言わせぬ重みを乗せた言葉が、ランプの揺れる薄暗い船室の空気を震わせる。
「リナ様。貴女はご自身の価値を、あまりに軽く見過ぎている」
その声には、叱責というよりも、何かを堪えるような痛切な響きが混じる。
「貴女のその御身一つが、帝国と新生王国の未来そのもの。その後ろ盾もなく、たった一人で狼の群れに飛び込むことがどれほどのリスクを伴うか」
彼の言葉は棘ではなく、ずしりと重い鉛となって私の胃の腑に落ちてくる。
「貴女が動けば、世界が動く。そして、その影響は貴女が思う以上に大きい。貴女が倒れれば、多くの者が希望を失い、再び闇に沈むことになるでしょう。……我々は、貴女という光を守るためにこそ存在する。どうか、お忘れなきよう」
ギシリ、と船が大きく軋む。
ゲッコーの揺るぎない隻眼に見つめられ、私はたまらず両手で頭を抱え、その場にうずくまった。
「……ごめんなさい……。そこまで、考えていませんでした……」
あまりに子供じみた、素直すぎる謝罪。
その言葉に、鋼鉄の仮面を貼り付けた彼の貌に、ほんの一瞬、亀裂が走ったのを私は見逃さなかった。
それは誰にも気づかれぬほど微かな、まるでどうしようもない幼子を見守るような、苦笑の影。
すぐに冷徹な貌に戻った彼が隣に立つ。
もう一人じゃない。
荒波に削られた巌のような横顔を見上げる。
ギシギシと揺れる巨大な輸送船の中、この広い世界のただ一点、彼の隣だけが、絶対に揺らぐことのない安全な場所のように思えた。