軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第163話:『紫煙と白銀の来訪者』

ゲッコーという男が嵐のように過ぎ去り、サンタ・ルチアの魚市場にはいつもの喧騒が戻っていた。カモメの甲高い鳴き声、樽を転がす音、威勢のいい漁師たちの怒声。そして、鼻をつく潮と魚の生臭い匂い。それら全てが、この港町が生きている証だった。

だが、その活気はソフィアの耳には届いていなかった。

事務所の窓辺。彼女は腕を組んだまま、どこまでも青い海の水平線を睨みつけている。窓から差し込む西陽が、その険しい横顔を琥珀色に染めていた。脳裏をよぎるのは、あの小さな少女の、年の割にすべてを見透かすような瞳。そして、彼女を追ってきた影のような男の、感情の読めない 貌(かお) 。

(……本当に、行かせちまってよかったのかねぇ……)

後悔が、燻る紫煙のように胸の奥で渦を巻く。手元のパイプにハーブの混じった刻み葉を詰め、気を紛らわせるように深く吸い込んだ。リナの瞳は、ただの子供のそれじゃなかった。あの瞳の奥に宿る光の強さを、長年、海と共に生きてきた女の勘が見抜いていた。

コン、コン。

思考の海に沈んでいた意識を、控えめなノックの音が引き戻した。

「……入りな」

音もなく扉が開き、姿を現したのはゲッコーが置いていった『蜘蛛の糸』の隊員だった。男は感情というものをどこかに置き忘れてきたかのような能面の顔で、ソフィアに深く頭を下げる。

「ソフィア殿。先刻の件、ご報告まで」

「……ああ」

男は淡々と語り始めた。その言葉は意図的に削ぎ落とされ、全貌を明かす気など毛頭ない。だが、ソフィアが状況を把握するにはそれで十分だった。

リナという少女が、帝国にとって途方もなく重要な存在であること。

そして、ゲッコーという男が、彼女を守るためだけに、その命を賭けているということ。

男の報告は、ゲッコーが屋根から屋根へと跳び、港を疾駆したところで途切れていた。

「……それで? あの無愛想は、あのデカい船に乗り込めたのかい」

「……いえ。そこまでは、まだ……」

隊員が言葉を濁した、まさにその時だった。

事務所の扉が再び、今度は蝶番が悲鳴をあげるほどの勢いで開かれた。息を切らし、汗まみれの顔で転がり込んできたのは、港で連絡役を担う別の隊員だ。その見開かれた瞳には、常軌を逸したものを見た者特有の狂的な熱が浮かんでいた。

彼は先にいた隊員に鋭い視線を送る。目配せだけで意思を交わすと、先の隊員はソフィアに「……失礼」と短く告げ、二人して音もなく事務所の外、裏口の物陰へと姿を消した。壁の向こうから漏れ聞こえてくるのは、必死に抑えられた、しかし隠しきれない興奮に震える囁き声だけだった。

◇◆◇

裏口の、薄暗い路地。

駆け込んできた隊員は、壁に手をつき、荒い息を整えながら囁いた。

「……見た。ゲッコー様が……跳んだ。屋根から屋根へ、まるで鳥のように……最後の跳躍は、人間のそれじゃなかった。沖へ向かう船の 舷側(げんそく) に、張り付かれた……!」

その報告を聞き、先の隊員は懐から小さな羊皮紙とインク壺を取り出す。震える手で、ゲッコーが飛び移る直前、後を追っていた仲間に託したという言伝を書き殴った。ライナーへの、一刻を争う報告だ。

「――『リナ様、発見。……ただし、アルビオン連合王国の輸送船、その船上にて』」

「――『雛は、自ら狼の巣へ。……俺も続く。……あとは、頼む』」

短い報告書を丸め、隠し持っていた伝書鳩の足に結びつける。路地の隙間から鳩を放つと、灰色の鳥は力強く羽ばたき、港の空へと瞬く間に点となって消えていった。

◇◆◇

ソフィアは訝しげに眉をひそめながら、ただパイプの煙を燻らせて待つ。

数分が永遠のように感じられた後、最初の隊員だけが事務所に戻ってきた。その能面のような顔には、初めて明確な動揺の色が浮かんでいた。

彼はソフィアに向き直ると、一度だけ深く息を吸い込み、告げた。

「……ゲッコー様は、アルビオンの輸送船へ、単身、潜入されました」

「何だと!?」

思わず椅子から腰を浮かせ、その巨躯が軋む音を立てる。だが、ソフィアはすぐに自分を抑え込むように、再び椅子へ深く身を沈めた。

「……そうかい。……分かったよ。ご苦労さん、下がっていい」

彼女の声は、驚くほど静かだった。だが、その静けさこそが、嵐の前の凪のように不気味な迫力を帯びている。隊員は無言で一礼すると、影のように部屋から退出していった。

一人残されたソフィアは、しばらくの間、窓の外の喧騒をただぼんやりと眺めていた。やがて、震える手でパイプに葉を詰め、火をつける。だが、その手つきはいつものような余裕がなく、どこか乱れていた。

(……揃いも揃って、大馬鹿野郎どもが……)

胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。

無謀にも狼の巣へ自ら飛び込んだ少女。

それを追って絶海へ身を投じた、無口で忠義に篤すぎる男。

彼らのあまりに無鉄砲で、しかし真っ直ぐな生き様が、長年、酸いも甘いも噛み分けてきた彼女の心を、どうしようもなく揺さぶった。

「……ったく……!」

忌々しげに吐き捨てると、彼女はパイプから深く、長く紫煙を吐き出した。煙が部屋の薄闇に溶けていく。

「……あの子の周りは、本当に……どうしようもねぇ馬鹿で、騒がしい連中ばかりだねぇ……」

その呟きには、呆れと、心配と、そしてほんの少しの羨望が混じっていた。

◇◆◇

あれから、二日が過ぎた。

港に、新たな嵐を告げる船影が現れた。

「――おい! 見ろ! 水平線のあれは一体なんだ!?」

漁師の張り上げた声が、サンタ・ルチアの空気を震わせた。誰もが沖に目を向け、そして言葉を失う。

水平線の向こうから現れたのは、一隻の、見たこともない船だった。

陽光を弾き返し、あたかも白銀の海鳥が翼を広げたかのような船影。流線形の美しい船体は、この港に出入りするどの無骨な船とも異質だった。純白の帆は風を孕んで傲慢なまでに膨らみ、波を切るのではなく、まるで海面そのものを滑るかのように信じられない速度で港へと突き進んでくる。

船首には、帝国のグリフォンの紋章が誇らしげに輝いていた。

「……帝国の、船……?」

港の誰もが、そのあまりの美しさと威容に、ただ呆然と立ち尽くしていた。

外の喧騒は、ソフィアの事務所にまで届いていた。彼女は窓辺に立ち、港に滑り込んでくる優美で、同時に暴力的でさえある船影を見つめている。

「……とんでもない船が来たもんだ……」

あの船が運んでくるのは吉報か、それとも新たな災厄か。

彼女はパイプから細く煙を吐き出すと、独りごちた。

「……会いに来るとは聞いていたがねぇ。……こいつは少し、面食らうよ」

サンタ・ルチアの港は、白銀の来訪者のもと、静かな、しかし確実な熱を帯び始めていた。