軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第158話:『影は潮路を嗅ぎ分ける』 - Mapあり

聖女マリアが聖王宮の絢爛な広間で、外交という名の華麗な戦いを繰り広げている、まさにその頃。

ゲッコーは、太陽の光さえ拒む聖王都の裏側――臓腑のように入り組んだ路地裏に、その身を溶け込ませていた。

『囁きの小箱』のような便利な魔道具に、彼は頼らない。

諜報の神髄は、己の足と目、そして研ぎ澄まされた五感で掴み取るもの。それが、影に生きる男の揺るぎない信条だった。

港の荷役人夫に扮し、汗と潮の匂いを鎧のように纏う。日に焼けた肌、節くれだった指。彼の姿は、街の裏社会という淀んだ水に、一滴のインクが染み込むように馴染んでいった。

目的はただ一つ。この街に根を張る情報網、『蜘蛛の糸』との直接の接触。

陽が落ち、煤けた空が赤黒く染まる頃。

港の労働者たちが集う安酒場は、濁ったエールの匂いと安煙草の煙、そして人々の喧騒で満ちていた。その一番奥、ランプの光も届かぬ薄暗いテーブルで、ゲッコーは一人、黙々と黒パンをかじっていた。

やがて、向かいの席に一つの影が落ちる。

小柄な男が、音もなく腰を下ろした。この聖王都の『蜘蛛の糸』を束ねる男だ。

二人の間に、言葉はない。

男がテーブルに置く銅貨の枚数と、その裏表の組み合わせだけが、彼らの会話だった。カチャリ、と乾いた音が響くたび、見えざる情報が空間を飛び交う。彼らだけが知る、血と鉄の匂いが染みついた複雑な暗号。

(……リナ様の行方、依然として掴めず)

交わされる絶望的な情報。

ゲッコーの顔は、傷跡の刻まれた石仮面のようだ。だが、テーブルの下、固く握りしめられた拳の関節は、血の気を失い白く浮き上がっていた。

最後に、男は一枚の銀貨をテーブルの中央に滑らせる。「余録」の合図。

声を、虫の羽音ほどに潜めて囁いた。

「……デニウス本人は、まだこの街に潜伏している可能性が高い。我々の網に、奴の息がかかった小物が数匹かかった。おそらく、港近くの隠れ家に……」

その言葉が耳朶を打った瞬間。

ゲッコーの纏う空気が、圧を帯びて歪んだ。フードの奥、瞳の底で、一瞬、赤い燐光が燃え盛る。

「…………そうか」

地を這うような低い声が、彼の唇から漏れた。

「……引きずり出して、喉笛に食らいついてやらねば、ならんな」

保父の役回りをしていた時に己を欺いた男への、個人的な、焼けつくような怒り。その静かな殺気に、情報屋の男はびくりと体を震わせた。

だが次の瞬間、燃え盛った炎は嘘のように消え、その瞳は再び古井戸の底のような静寂を取り戻す。プロの貌へ、彼は瞬時に戻っていた。

「……いや。おかしい」

「……え?」

「情報が、無さすぎる」

ゲッコーの鋭い視線が、男を射抜いた。

「奴の息がかかった小物からデニウスの居場所は割れるだろう。それはいい。だが、リナ様の痕跡が『全く見つからない』こと自体、異常なのだ。これだけの捜索網を敷いて、羽音一つ聞こえぬなど……」

リナ様ほどの御方とはいえ、ここまで完璧に姿を隠せるはずがない。

彼の脳裏で、無数の情報が火花を散らしながら再構築されていく。デニウスの性格。リナの類稀な知恵。そして、船の航路――。

点と点が繋がり、一つの線を結んだ。

「……まさか」

ゲッコーは、凍りついたように動きを止める。

「『海燕』が寄港した場所は? ここへ来る前に」

「……?ヴェネーリアの中継港、『サンタ・ルチア』ですが……」

「……そこの情報を洗え。至急だ」

◇◆◇

帝国の高速艇が、夜の海を切り裂いていく。絶え間ない振動が床から伝わる船内で、ゲッコーはセラとライナーに向き合っていた。彼の元には、『蜘蛛の糸』からの続報が届いていた。

「デニウス配下の小物を数人捕らえ、尋問しました。奴らはデニウスの潜伏は認めましたが、リナ様については誰も何も知らなかった」

そこで一度言葉を切り、彼は新たな報告書をテーブルに広げる。

「……これは、サンタ・ルチアからもたらされた情報。しばらく前から、港の魚市場で『賢くて、元気な娘』が働いている、と。取るに足らない世間話として報告書の片隅に記されていただけのものですが」

「……なっ!?」

セラの翠の瞳が、驚愕に見開かれた。

「可能性です」

ゲッコーは静かに続けた。

「まだ、ただの可能性に過ぎません。ですが、リナ様であると……俺の勘がそう告げている」

彼はセラとライナーの前に進み出ると、深く、深く頭を下げた。

「セラ様、ライナー殿。どうかご許可を。俺と部下数名、別行動にてサンタ・ルチアの確認に向かいます」

「……わかったわ。行きなさい、ゲッコー」

セラの決断は、即座だった。

「デニウスの件はどうする?」

ライナーが問う。

ゲッコーは立ち上がり、部屋を出ながら、氷のように冷たい声で言い放った。

「――俺が戻るまで、奴がまだこの街にいるようなら。その時は、俺が直々に“挨拶”に行く。もしライナー殿が先に捕らえたのなら……生きていることを後悔するだけの絶望を、奴に与えてやってください」

プロの嗅覚が、ついに真実の潮路を指し示した。

ゲッコー率いる小さな追跡班は今、リナが待つ本当の舞台へと、その舵を切った。