軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第156話:『聖女のため息と、鉄の包囲網』

白亜の都、聖王都『 蓮華(レンファ) 』。

陽光を浴びて輝くその港に、帝国の流線形の高速艇が滑り込んだ日から、水面下では静かで、しかし熾烈な外交戦の火蓋が切って落とされていた。

大神官の執務室は、焚かれた香の匂いと、張り詰めた沈黙で満ちている。

「――それで? 聖女マリア殿。あなたの仰る『事件』とは、一体何かな」

純白の法衣に身を包んだ大神官が、あくまで白々しく問いかけた。指先一つ動かさず、温度を感じさせない爬虫類の瞳が、マリアの顔をじっと見据えている。

その言葉が引き金だった。

次の瞬間、マリアが浮かべていた完璧な聖女の微笑みが、音を立てて崩れ落ちる。美しい双眸が悲しみに歪み、堪えきれないといった風に、ぽろり、と大粒の涙が頬を伝った。

「……大神官様……あまりに、ひどい話なのです……」

その声はかき消え入りそうで、あまりの変貌ぶりに老獪な大神官も思わず身じろぎした。

「ポルト・アウレオの港で、私が妹のように慈しんでいた娘が……大切な、孤児の娘が、アルビオンの悪辣な商人に攫われてしまったのです……!」

絹のハンカチで目元を押さえ、しゃくりあげながら訴えるその姿は、庇護欲を掻き立てるには十分すぎるほど痛々しい。

「あの子は、ただのか弱い子供。今頃どれほど恐ろしい目に遭っているかと思うと、私は、夜も眠れなくて……!」

悲痛な演技。その奥で、本物の怒りが青い炎のように揺らめいている。

大神官は内心で静かに舌打ちした。

(……面倒なことになった)

彼には、この聖女に大きな「借り」があった。彼の最大の後援者である有力貴族が落馬事故で再起不能の重傷を負った。それを、奇跡の力で完治させ、彼の政治的生命を繋ぎ止めたのが、他ならぬマリアだったのだ。

この頼みを無下にすれば、何をされるか分かったものではない。

そして何より、ここで最大限の恩を売っておけば、いずれこの強力な「聖女」という駒を、自らの派閥に引き込めるやもしれぬ。

計算を終えた大神官は、仮面のように貼り付けた同情の表情で深く頷いた。

「それは、誠にお気の毒なことですな、聖女殿。……して、我らに何かできることは?」

「……ええ。一つだけ、お願いがございます」

マリアは涙を拭い、決意を秘めた瞳で顔を上げた。濡れた睫毛が痛々しく震えている。

「娘を攫ったアルビオンの商船『海燕』が、この蓮華の港に寄港するはずです。どうか、その船の出港を一時的に差し止めていただきたいのです。そして、船内の捜索と船員への聞き取りの許可を……」

大神官は、手を組んだ。

アルビオンの船、か。聖王陛下も、近頃あの国の動きを注視しておられた。この聖女の力もいずれ我が国に、とのお考えもある。ここで恩を売っておくのは、悪手ではない。

「……分かった」

重々しい沈黙を破り、大神官は決断した。

「聖女殿の悲しみを見過ごすわけにはいくまい。我が力の及ぶ範囲において、最大限の協力を約束しよう」

◇◆◇

その夜。

聖王宮の一室は、深閑とした静寂に包まれていた。

豪奢な天蓋付きのベッドの上、滑らかなシルクのシーツに身を沈めながら、マリアは重いため息を吐き出した。吐息が夜の冷たい空気に溶けていく。

窓の外には、蓮華の都が宝石を散りばめたような夜景を広げている。無数の灯りが地上でぼんやりとまたたき、まるで天の川が逆さまに映っているかのようだ。

だが、そのしんみりと美しいまたたきも、今の彼女のささくれだった心には届かない。

「……まったく」

忌々しげな呟きが、静かな部屋に落ちた。

「これまで聖王国に築いてきた大切な『貸し』が、こんな茶番で消し飛ぶなんて……」

すべては、あの小さな軍師のせいだ。厄介事を撒き散らす、とんでもないトラブルメーカー。あの子供は、一体どれだけ周りを振り回せば気が済むというのか。

だが苛立ちの奥底で、別の感情が燻っていることにも、彼女は気づいていた。

脳裏をよぎるのは、庵で語った夜の光景。

揺れる炎に照らされた横顔。同じ異世界の記憶を持つ者として、分かち合えた魂の孤独。そして、国の未来を語る、子供らしからぬ真っ直ぐな瞳の強さ。

「……はぁ……」

二度目のため息は、先程よりもずっと深かった。

マリアはシーツを蹴るようにして起き上がると、窓辺へと歩み寄り、冷たいガラスに額を押し付ける。ひんやりとした感触が、火照った思考をわずかに冷ましていく。

「……まあ、いいわ。あの子には王国を救ってもらった『借り』もあるのだし」

その呟きは、誰に聞かせるでもない本音だった。ガラスに映る自分の顔は、ひどく疲れているように見えた。

「これでリナが無事に見つかれば、安いものよ。……本当に、無事なのでしょうね、あの子は……」

声に滲んだのは、自分でも驚くほど素直な心配の色。

彼女はまだ気づいていない。

いつの間にか、あの生意気で賢しすぎる年下の同郷者を、ただの 好敵手(ライバル) ではなく、どうしようもなく放っておけない「妹」のような存在として、その心に住まわせ始めていることに。

◇◆◇

マリアの複雑な想いを乗せた一手は、盤上を確実にかき乱した。

翌日。

聖王都の石畳をすり減らす勢いでリナの行方を捜し回っていたデニウスの元へ、聖王宮からの使者が冷たい命令書を届けた。

『――貴殿の船『海燕』は、少女誘拐の重大な嫌疑あり。追って沙汰があるまで、一切の出港を禁ずる』

「なっ……! 馬鹿な!」

乾いた羊皮紙を、デニウスは怒りと焦燥に震える手で握り潰した。ミシリ、と嫌な音が鳴る。

リナは見つからない。そして今、自分たちの足までこの都に完全に釘付けにされた。まるで目に見えない鉄の檻が、ゆっくりと、しかし確実に狭まってくるようだ。

彼が知る由もない。

その包囲網を指揮しているのが、彼が確保の対象から外していた、もう一人の『聖女』であることを。

そして、彼が必死で探す本当の「獲物」が今、遠くサンタ・ルチアの港で、次なる一手をしたたかに準備していることも。

物語の駒は、盤上に揃った。

静かに、しかし、確実に戦端は開かれようとしていた。