軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第118話:『偽りの報酬と、傭兵の夜逃げ』

金が入らない。

ロベール伯爵領の司令部は、澱んだ空気と焦燥に満ちていた。疑心暗鬼が伝染病のように広がり、誰もが隣の者の顔色を窺っている。

「くそっ! なぜだ! なぜ何もかも上手くいかん!」

バルガス侯爵が、空になった酒瓶をテーブルに叩きつけた。けたたましい音と共に、安物の硝子が砕け散る。ロベール伯爵も、脂の浮いた顔を苦悩に歪ませていた。ヴェネーリアからの支援金はまだ届く。だが、もはや焼け石に水だ。この大軍を維持するには、あまりに心許ない。焦りが彼らの判断を狂わせ、正常な思考を麻痺させていく。

「……こうなれば、一手しかあるまい……」

ロベール伯爵はついに、最後の、そして最悪の札を切った。

傭兵たちの隊長格を集め、濁った目で宣言する。

「――明日、先陣を切り、最も武功を挙げた部隊には特別報酬として金貨千枚を与える!」

金貨、千枚。

その言葉が、埃っぽい天幕の空気を震わせた。ざわめきが波のように広がる。それは命を賭けるに値する大金だった。だが、同時に誰もが思う。

(……あの黒い化け物がいる場所に、か……?)

死神の鎌が、金貨の輝きの向こうで鈍く光っているように見えた。

その報せを王都で受けたマリアは、ティーカップをソーサーに置くと、淑女のようにくすりと微笑んだ。

窓から差し込む陽光が、彼女の唇に引かれた紅を艶かしく照らす。

「……ふふ。かかったわね、愚かな魚たち」

◇◆◇

その夜。

傭兵たちのキャンプは、賭場と化した酒場の異様な熱気に包まれていた。クラウスは薄汚れた傭兵のふりをして、一番騒がしいテーブルでカードを弄んでいる。安酒と汗の匂いが鼻をつく。

彼の向かいに座るのは、傭兵の中でも特に腕利きで、そして抜け目のないことで有名な“狐”のゲルドたちだった。

「しかし金貨千枚か。伯爵様も羽振りがいいじゃねぇか」

一人がカードを切りながら、独り言のように呟く。

「だが相手はあの『黒曜の疾風』だぞ? 下手に前に出りゃ命がいくつあっても足りねぇ」

「違いない。だが、金は欲しい……」

腹の探り合い。欲望と恐怖が、男たちの視線を鈍く揺らしている。

クラウスは頃合いを見計らい、その会話にそっと割って入った。手元のカードをテーブルに滑らせ、誰に言うでもなく呟く。

「……死地に飛び込んで僅かな金を得るか。安全に大金を手に入れてここからずらかるか。賢い人間なら、どちらを選ぶかねぇ……」

その意味ありげな言葉に、傭兵たちの動きがぴたりと止まった。酒場の喧騒が、まるで遠い世界の音のように感じられる。油で汚れたカードを握る指先、酒杯を持つ手、その全てが凍りつく。

彼らの視線が一斉にクラウスへと注がれた。

クラウスはにやりと口角を上げると、声を潜めて囁いた。

「――聖女マリア様からの、甘いご提案だ……」

◇◆◇

翌日。国境を見下ろす丘の上。

ハヤトは一人、退屈そうにあくびを噛み殺していた。耳元の『囁きの小箱』から、マリアの釘を刺すような声が聞こえる。

『いいこと、ハヤト? 今日のあなたは“手こずるフリ”をするだけでいいのよ。絶対に深追いはしないこと。分かったわね?』

「ああ、分かってる。けど、本当にそんなことでいいのか?」

(ちぇっ、せっかくの見せ場だってのに……)

ハヤトは不満げに鼻を鳴らし、愛刀の柄を指でなぞった。

やがて地平線の向こうから土煙が立ち上り、ロベール伯爵の軍勢が黒い染みのように広がってきた。そしてその先頭、“狐”のゲルドたちが雄叫びを上げながら突撃してくる。

ハヤトは面倒くさそうに立ち上がると、その前に立ち塞がった。

そこから繰り広げられたのは、実に奇妙な戦闘だった。

「うおおおおっ!」

ゲルドの部隊が鬨の声を上げ、ハヤトに殺到する。ハヤトはわざと大振りな剣閃を放った。剣が空を切り、風圧が傭兵たちの髪を逆立てる。傭兵たちの攻撃もまた、必死の形相で繰り出されるが、その切っ先は絶妙にハヤトの体を逸れていく。金属がぶつかり合う甲高い音が響き渡り、火花が派手に散る。それはもはや戦闘ではなく、息の合った茶番劇だった。

しばらく派手な立ち回りを演じた後、ハヤトは「くそっ! 今日はこのくらいにしといてやる!」とわざとらしい捨て台詞を吐いて姿を消した。“狐”のゲルドたちも「見たか! 俺たちの力を!」と勝利の雄叫びを上げる。

その後景を遠眼鏡で見ていたロベール伯爵たちは、愚かしくも大喜びで彼らに約束の特別報酬を与えた。

◇◆◇

その夜。

傭兵キャンプの一角は、下品な笑い声と欲望の熱気に満ちていた。

金貨千枚。その山分けに与ったゲルドの部隊が、勝利の美酒に酔いしれている。

「――かーっ! 見たか、伯爵様のあのマヌケ面! 俺たちの芝居にコロッと騙されやがって!」

隊長の一人が、金貨の詰まった重い革袋をテーブルに叩きつけた。ジャラリ、と耳に心地よい音が響き、男たちの目がぎらつく。

「ああ! これで向こう一年は遊んで暮らせるぜ!」

「よし、野郎ども! ずらかるぞ!」

隊長が立ち上がる。

「こんな負け戦、付き合ってられるかよ! 金も貰ったことだし、俺たちは一足先に豪遊といこうぜ!」

「「「おおっ!!」」」

彼らは勝ち鬨を上げると、手際よく荷物をまとめ馬に跨った。他の傭兵たちが寝静まるキャンプを嘲笑うかのように、闇の中へと駆け去っていく。

だが、その一部始終を。

天幕の影から、じっと見つめる目があった。報酬にありつけなかった、他の傭兵たちだった。

「……おい……行ったぞ、あいつら……」

一人が呟く。

「……ああ。金だけせしめてトンズラか。汚ぇやり方しやがる……」

「……だが」

別の男の声が、震えていた。

「……あの“狐”のゲルドが逃げたんだぞ……。あいつは絶対に負け戦には乗らねぇ。この戦、俺たちが思っている以上にヤバいんじゃねぇのか……?」

その一言が、引き金だった。

さざ波のように不安が伝播していく。それはもはや疑念ではない。確信だった。

「た、確かに……。昼間の戦いも何かおかしくなかったか……?」

「そもそも金も兵糧も尽きかけてるって話だ……」

「……俺、聞いちまったんだ。伯爵様たち、ヴェネーリアから見捨てられかけてるって……」

誰かが、ごくりと喉を鳴らした。乾いた音が、妙に大きく響く。

そして、一人が意を決したように立ち上がった。

「……俺は抜ける。こんな所で犬死にはごめんだ」

その言葉を皮切りに、一人、また一人と傭兵たちが静かに立ち上がっていく。それはもはや統率の取れた軍隊ではなかった。沈みゆく泥船から我先に逃げ出そうとする、ネズミの群れだった。

彼らは音を立てぬよう、慎重に、しかし必死の形相で荷物をまとめ、一人、また一人と夜の闇へと溶けていった。

◇◆◇

そして、朝。

ロベール伯爵たちが目にしたのは、悪夢のような光景だった。

あれほど人で溢れかえっていたキャンプは、もぬけの殻。残っているのは、行く当てのない新参者や逃げ遅れた者たちばかり。一万いたはずの兵力は、昨日の半分以下にまで減っていた。

「……ば、馬鹿な……!? い、一体、何が……!?」

「裏切ったな! あの金に汚い傭兵どもめ!」

彼らは愕然とし、互いに責任をなすりつけ合い、醜い仲間割れを始める。

その無様な姿を、『影の部隊』の一人が丘の上から冷ややかに見下ろしていた。