軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 元夫の使者と、私の過去と、彼の不器用な壁

「侯爵様がお待ちです。どうか、お戻りいただけませんか」

薬を量る手が、一瞬だけ止まった。

顔を上げると、店の入り口に男が立っていた。侯爵家の使用人が着る深緑の制服。胸元に刺繍された紋章。見覚えがある。確か、アルヴィンの書斎付きの従僕だった。名前は――忘れた。八年間、顔を合わせていたはずなのに。

「お久しぶりです。セラフィナ様」

従僕は丁寧に頭を下げた。所作は完璧だ。侯爵家の教育が行き届いている。

「お久しぶりですわ。――どちら様でしたかしら」

少し意地の悪い返し方だと自分でも思った。でも、名前を本当に覚えていないのだから仕方がない。

「ヨハンと申します。アルヴィン様よりお使いを仰せつかりまして」

ヨハン。そうだった。

「侯爵様は、奥様のお力を必要としておられます。薬の製造について、ご指導いただきたいと」

薬を量る作業に戻った。秤の上の薬草が少し多い。一つまみ減らした。

「奥様ではありません。離縁は成立しています」

「……失礼いたしました。セラフィナ様。しかし、侯爵様は」

「ヨハンさん。お伝えしたいことは一つです」

秤を置いた。ヨハンを見た。

「もう二度と、あの家には戻りません。お伝えください」

ヨハンの顔が強張った。想定していた返答ではなかったのだろう。使者として来た以上、何かしらの交渉材料を持たされているはずだ。報酬の提示か、あるいは感情に訴える言葉か。

「セラフィナ様、侯爵様は本当に――」

「定休日だ」

低い声が、店の奥から割り込んだ。

グレンが調合室から出てきた。いつの間にいたのか。朝、まだ来ていないと思っていたのに、裏口から入っていたらしい。自分の家のように裏口を使う人だ。

ヨハンが振り返り、グレンを見上げて、明らかに怯んだ。無理もない。あの体格で腕を組んで立っていれば、それだけで威圧になる。

「本日は定休日だ。客は帰れ」

「あの、しかし――」

「聞こえなかったか」

定休日ではない。今日は普通の営業日だ。でも、訂正する気にはならなかった。

ヨハンは一歩下がった。それから、最後にもう一度だけ口を開いた。

「……セラフィナ様。一つだけ、お伝えしておきます」

声が小さくなっていた。グレンの視線を気にしながら、早口で。

「聖女様が、お怒りです」

「聖女様が?」

「はい。セラフィナ様が薬師ギルドに報告書を出されたことを、大変お怒りになっておられると……これは、侯爵様からのお言葉ではなく、私が屋敷で聞いた噂ですが」

ヨハンは深く頭を下げて、足早に去っていった。

店の前の通りに、彼の足音が遠ざかっていく。

聖女様がお怒り。

私が薬師ギルドに出した報告書は、侯爵家の薬害に関するものだ。聖女リリアーナの名前は一度も出していない。なのに、聖女が怒っている。

なぜ。

自分に関係のない報告書に、なぜ聖女が反応する。

グレンが、カウンターにどさりと座った。椅子がきしむ。

「あいつは何者だ」

「元夫の従僕です。戻ってこいと言いに来ました」

「戻るのか」

「戻りません」

「そうか」

それで終わった。グレンは何も聞かなかった。なぜ戻らないのか。元夫とは何があったのか。八年間の結婚がなぜ終わったのか。

何も聞かない。

この人は、いつもそうだ。必要以上のことを聞かない。踏み込まない。ただ、いる。カウンターに座って、渋い茶を飲んで、建付けの悪い棚を「直してやろうか」と言って、私が「結構です」と断ると「そうか」と言って黙る。

「グレン様」

「何だ」

「聖女がなぜ怒っているのか、気になります」

「お前の報告書に名前は出していないんだろう」

「はい。侯爵家の薬害のことしか書いていません」

「なら、聖女にとって不都合な何かが、侯爵家の問題と繋がっているということだ」

短い。でも、的確だった。

私はカウンターの向かいに座って、手帳を開いた。

ここまでに集まった点を並べてみる。

一つ。エレノア夫人の紅茶の毒。これは聖女とは無関係。伯爵夫人の夫が侍女に命じたもの。

二つ。レオの薬湯の毒。これも聖女とは無関係。同僚騎士の嫉妬。ただし、毒に微弱な魔力反応があった。

三つ。クラーラの薬瓶。聖女の診療所の処方薬に依存性構造。

四つ。侯爵家の薬害。これは私のレシピの劣化コピーの問題で、聖女とは直接関係ない。

でも、聖女は怒っている。

繋がるのは三つ目だ。クラーラの薬瓶。聖女の処方薬の依存性構造。あの報告書には書いていないが、私はあの薬瓶を持っている。分析もした。聖女がそのことを知っているとしたら。

「……知っているんでしょうか」

「何を」

「私がクラーラさんの薬瓶を持っていること。聖女の薬に依存性があることに気づいていること」

グレンは茶を一口飲んで、渋い顔をした。茶が渋いからか、話の内容が渋いからか、わからない。

「クラーラの親父が王都の商人なら、娘の行方が判明したことは王都でも話題になるだろう。そこから、お前が調査に関わったことが聖女の耳に入ってもおかしくはない」

なるほど。ヘルマンの取引先が王都にいる。娘が見つかったと知れば、その経緯も伝わる。聖女の薬を飲んでいた令嬢が修道院に逃げていた。薬屋の薬師が見つけた。その薬師は元侯爵夫人。

聖女にとっては、自分の処方が問題視される可能性のある人間が、港町にいるということだ。

「聖女は、私を恐れている?」

口に出してみて、自分で驚いた。聖女が、薬屋の薬師を恐れる。大げさすぎる。

でも、ヨハンの声は確かに怯えていた。「聖女様がお怒りです」と言う時の、あの声。怒りというより、恐怖を伝える声だった。

夜になった。

グレンは帰らなかった。

いつもは夕方には去っていくのに、今日はカウンターに座ったまま動かない。使者が来たことが気になっているのかもしれない。あるいは、ただ帰るきっかけを逃しただけかもしれない。

調合室の作業を終えて、店に戻った。グレンが暖炉に薪をくべていた。手慣れた動作だ。この人はいつの間にか、うちの暖炉の薪のくべ方を覚えている。

「グレン様」

「何だ」

「一つ、お話ししたいことがあります」

グレンの手が止まった。薪を持ったまま、こちらを見た。

「私が、なぜ薬の分析に長けているのか。なぜ、品質管理の手法を知っているのか。不思議に思ったことはありませんか」

「……ある」

正直だった。

「薬師ギルドの訓練だけでは説明がつかない知識を、お前は持っている。前から気づいていた」

気づいていたのに、聞かなかったのか。

「理由があって話さないのだろうと思った。だから聞かなかった」

椅子に座った。向かい合う形になった。暖炉の火が、グレンの横顔を赤く照らしている。

「私には、前世の記憶があります」

言った。

グレンの表情は変わらなかった。まばたきが、一つだけ多かった。

「半年前に高熱で倒れた時に、記憶が蘇りました。前の人生では、私は別の世界にいました。薬を作る……いえ、正確には、薬の品質を管理する仕事をしていました。不正がないか検査する仕事です」

グレンは黙って聞いていた。薪を暖炉に入れて、手を膝の上に置いた。

「その記憶があるから、この世界の薬の成分分析にも応用が効くのです。匂いの異常に気づけるのも、帳簿の不正に気づけるのも、前の世界で訓練を積んだからです」

沈黙が落ちた。

暖炉の薪が爆ぜる音。窓の外を通り過ぎる港の酔っぱらいの声。遠くで犬が吠えている。

グレンが口を開いた。

「……それで」

「はい」

「それで、お前は、今のお前なのか」

思いもしない問いだった。

前世の記憶が本物かどうか、ではなく。別の世界とは何か、でもなく。その記憶を持っていて、今のお前はお前なのか、と。

「……はい。前の世界の記憶があっても、私は私です。この世界で生まれて、育って、結婚して、離縁して、薬屋を開いた。それは全部、私です」

グレンは頷いた。

「なら、それでいい」

それだけだった。

拍子抜けした。もっと驚かれるか、怖がられるか、あるいは気味悪がられると覚悟していた。

「……信じてくださるんですか」

「お前が嘘を吐く理由がない」

「でも、普通は――」

「死に戻りとか言い出したら、さすがに酒がいる」

グレンの口元が、わずかに動いた。笑ったのだ。この人が笑うのを、初めて見た気がする。口の端が持ち上がるだけの、ほとんど目に見えない笑い方。

「死に戻りではありません」

「なら酒は要らん」

「……そうですか」

おかしかった。何がおかしいのかよくわからなかったが、胸の奥の、半年間ずっと固まっていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。

グレンが立ち上がった。

「帰る」

「はい」

「明日も来る」

「はい」

戸口で、少しだけ振り返った。

「……お前の秘密は、俺の中に留めておく」

「ありがとうございます」

「礼は要らん。茶を淹れておけ。明日の分」

出ていった。

大きな背中が、戸口をくぐって消えた。

翌朝。

目が覚めて、しばらく天井を見ていた。

信じてもらえた。

前世の記憶を、話した。受け入れてもらえた。気味悪がられなかった。問い詰められなかった。「なら、それでいい」と。

あの言葉が、まだ耳の奥に残っている。低い声で、短くて、何の飾りもない言葉。

布団から出て、顔を洗った。水が冷たい。冬の名残の水温だ。

着替えながら、ふと、自分の手を見た。

この手で薬を作っている。前の世界の知識と、この世界の技術で。品質を管理して、毒を見抜いて、患者を治して。

半年前は、ただ怖かった。前世の記憶が戻った時、自分が何者かわからなくなった。二つの人生を持つ人間。どちらが本当の自分なのか。

今は、わかる。

どちらも私だ。

グレンが、そう言ってくれたから——ではない。自分で、そう思えるようになった。

ただ、グレンの言葉が後押しになったのは認める。ほんの少しだけ。

店を開ける準備をしながら、昨夜のやり取りを思い返した。

「それで、お前は、今のお前なのか」

あの問い方は、ずるい。

そんなふうに聞かれたら、答えはひとつしかない。

「なら、それでいい」

ずるい。

鍋に水を張って、茶葉を用意した。グレンは渋い茶が好きだ——好きというか、自分で淹れると渋くなるだけかもしれないが——今日は少しだけ、茶葉を多めに入れてみようかと思った。

思っただけで、実際には普通の量にした。

変に意識しているのが自分でわかって、少し腹が立った。

建付けの悪い棚を開けて、今日の薬草を取り出した。

店の外で、海鳥が鳴いていた。

春が、近い。