軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 港町の薬害と、崩れ始める侯爵の名声

「先生、うちの親父が血を吐いた」

少年が駆け込んできたのは、朝の仕込みを始めた直後だった。

薬草を量る手を止めた。少年は息を切らして、額に汗が浮いている。冬の終わりの朝にこれだけ汗をかいているのは、相当な距離を走ってきたのだろう。

「落ち着いて。お父さんはどこに?」

「家です。朝から具合が悪くて、吐いたら血が混じってて。母ちゃんが――」

声が震えていた。十二、三歳くらいの子だ。

「わかりました。場所を教えて」

往診の道具を鞄に詰めながら、この五週間のことを考えた。

グレンは、週に三回は店に顔を出すようになっていた。傷薬はとうに足りているはずだが、本人は「まだ痛む」の一点張りで、カウンターに座って茶を飲んでいく。茶を出さなくても勝手に自分で淹れている。自分の店のように。

今朝はまだ来ていない。

鞄を肩にかけて、少年と一緒に走った。

漁師のフリッツの家は、港の近くの長屋の一室だった。

フリッツは五十代の大柄な男で、床に横たわって顔面が蒼白だった。奥さんが泣きながら背中をさすっている。

脈を取る。弱いが規則的。口の中を確認する。歯茎が変色している。これは。

「フリッツさん、最近何か薬を飲んでいませんか」

「薬……筋肉痛の薬を……船の仕事で腰をやって……」

「どちらで買ったものですか」

「港の薬屋で……侯爵様の銘柄の……」

侯爵様の銘柄。

呼吸を整えた。顔に出すな。今は患者が先だ。

「その薬、まだ残っていますか」

奥さんが棚から薬瓶を出してきた。ラベルにはアルヴィン侯爵家の紋章。中身は筋肉痛の塗り薬――ではなく、内服用の丸薬だった。

見覚えがある。

私が開発したレシピだ。侯爵家の薬師時代に、漁師や農夫など体を使う職業の人向けに考案した処方。夫がこれを自分の名前で薬師ギルドに登録した。

丸薬を一粒取り出して、指で潰した。粉の色がおかしい。本来なら淡い緑色のはずが、黄色みがかっている。匂いも違う。本来の清涼感がなく、少し酸っぱい。

劣化している。配合比率が狂っているか、材料の品質が落ちているか、あるいはその両方か。

「フリッツさん、この薬はいつから飲んでいますか」

「二ヶ月くらい……前だ。最初は効いたんだが、最近は腰が痛いのは変わらねえし、腹が痛くなって……」

二ヶ月間、劣化した薬を飲み続けた。

「まず薬をやめてください。この丸薬はもう飲まないでください。解毒と栄養補給の処方を出します」

フリッツの治療を始めながら、奥さんに聞いた。

「この薬を飲んでいるのは、フリッツさんだけですか。ご近所にも」

「うちだけじゃないよ。港の連中はみんな使ってる。安くて効くって評判だったから。でも最近、調子が悪いって言ってる人、多いよ。ハインツんとこも、ベルタさんとこも」

集会所に人を集めてもらうのに、半日かかった。

レオが手伝ってくれた。退院してからすっかり元気になった少年騎士は、「先生が困ってるなら」と言って、騎士団の仲間を連れて漁師たちの家を一軒一軒回ってくれた。

集まったのは十四人。

全員に共通していたのは、アルヴィン侯爵家の銘柄の薬を服用していたことだった。薬の種類は様々だ。筋肉痛の丸薬、咳止めの煎じ薬、胃腸薬。だがどれも、ここ数ヶ月で品質が明らかに変わったと口を揃えて言う。

「前はよく効いたんだ。それが最近は全然で」

「味が変わった気がする」

「うちの婆さんは飲んだ後に吐いたよ」

一人ずつ診察した。症状は人によって違うが、共通するのは、本来の薬効とは異なる副作用が出ていること。劣化した材料や、狂った配合比率による有害反応だ。

グレンが途中から来た。何も言わずに集会所の隅に立って、腕を組んで聞いていた。

診察が終わった後、グレンが近づいてきた。

「ここにある薬、全部、お前が作ったものと同じ銘柄か」

「はい。正確には、私が開発したレシピを元に、侯爵家で製造されたものです。ただし、私が作っていた頃とは品質が全く違います」

「証明できるか」

「できます」

鞄から、一冊のノートを取り出した。離縁の時に持ち出した研究ノートの原本。私のレシピの配合比率、材料の品質基準、製造手順が全て記録してある。

「これが私のレシピの原本です。この配合と、今出回っている薬の成分を比較すれば、劣化コピーであることを証明できます」

調合室で分析に没頭した。

集会所で回収した薬を一つずつ分解し、成分を特定し、研究ノートの配合と照合する。

結果は明白だった。

どの薬も、私のレシピの構造を模倣しているが、材料の精製度が低い。配合比率も微妙にずれている。特に、品質が不安定な薬草の扱いがひどい。乾燥の度合い、抽出の温度、煎じる時間。どれも手順書の数値だけを追って、なぜその数値なのかを理解していない製造の跡だった。

手順書だけではノウハウは伝わらない。作った人間がいなくなれば、品質は落ちる。どの世界でも同じだ。

分析結果を報告書にまとめた。誰が読んでも理解できるように、平易な言葉で。

ペンを置いた時、目の前に湯気の立つカップが置かれた。

グレンだった。いつの間にか調合室に入っていて、自分で茶を淹れていた。

「飲め。昼を食べていないだろう」

「……ありがとうございます」

時計を見ると、もう夕方だった。確かに昼食を食べていない。

茶を一口飲んだ。渋い。グレンが淹れる茶は毎回渋い。茶葉の量が多いのだと思うが、指摘したことはない。

「ついでに」

グレンが目をそらした。

「……薬。まだ残ってるか」

「傷薬ですか。先日お渡しした分で足りていませんか?」

「腕じゃない。胃だ」

「胃?」

「最近、朝に腹が……いや、何でもない」

何でもなくはないだろう。

「胃腸薬を出しますね。食前に服用してください」

調合した胃腸薬を包んで渡した。グレンは中身を確認もせずに、その場で一服分を口に含んだ。

顔がわずかに歪んだ。

「……不味い」

「効くんですから我慢なさってください」

「お前の薬は全部不味い」

「味で薬を選ぶ方が間違っています」

グレンは文句を言いながら、残りも全部飲んだ。処方通り。一滴も残さず。不味い不味いと言いながら、出したものは全部飲む。

……なぜ私はこの人の飲み方を観察しているのだろう。薬の話に戻ろう。

翌日、港町の行政庁に報告書を提出した。

行政官のディートリヒは、書類を読み込む目が鋭い実務家だった。報告書を一通り読んだ後、顔を上げた。

「侯爵家の製品に対する薬害認定の申請ですか。これは重い案件です」

「承知しています。ですが、現に十四名の被害者がいます。分析結果も添付しました」

「分析の正確性は担保できますか」

「薬師ギルドに照会していただければ、私の分析手法の妥当性は確認できます。また、ギルドの公的調査権限に基づいて、侯爵家の製造設備と製造記録の調査を申請することも可能かと」

ディートリヒの眉が上がった。薬師ギルドの調査権限。国王勅令によってギルドに与えられた、薬害事件における製造元への立入調査と帳簿押収の権限だ。

「薬師ギルドの調査となれば、侯爵家の帳簿も対象になりますが。政治的な影響は」

「俺が副署する」

グレンが、壁に寄りかかったまま言った。

ディートリヒが振り返った。

「辺境伯殿」

「薬害が事実なら、侯爵家の製品は隣国にも流通している可能性がある。ヴェルデン辺境伯として、交易品の安全性に関わる案件には介入する権限がある。報告書に副署する」

ディートリヒは少し考えて、それから頷いた。

「承知しました。薬師ギルドに照会し、公的調査を申請します。辺境伯殿の副署があれば、手続きは速やかに進むでしょう」

書類にグレンの署名が入った。大きな、少し乱暴な字だった。

行政庁を出た時、風が冷たかった。冬の終わりだが、港町の風はまだ刺す。

「グレン様」

「何だ」

「ありがとうございます」

「礼を言われることはしていない。交易品の品質管理は俺の仕事だ」

そうですか。

交易品の品質管理のために、毎日薬屋に来て、渋い茶を飲んで、不味い薬を全部飲むのですか。

言わなかった。

代わりに、少しだけ歩幅を緩めた。グレンが横に並ぶのを待って、一緒に坂道を下りた。

王都。侯爵邸。

書斎の机の上に、二通の書簡が並んでいた。

一通は、薬師ギルドからの通達。侯爵家で製造された薬に関する薬害認定の報告と、公的調査の開始通知。調査権限に基づく帳簿押収への協力要請。

もう一通は、港町ブリュムの行政庁からの公文書。薬害被害者十四名の診断記録と、分析を行った薬師の署名。

セラフィナ。

アルヴィンは、元妻の名前をしばらく見つめていた。

「帳簿の押収……」

声に出してみて、実感が湧いた。薬師ギルドが来る。帳簿を見る。薬の製造に関する記録を。

母に報告しなければならない。

立ち上がろうとして、足が止まった。

薬害。セラフィナが作っていた薬が、彼女が去った後に品質を維持できなかった。あの処方は彼女が開発したもので、製造の勘所は彼女の頭にしかなかった。それを僕は知っていた。知っていて、自分の名前で登録した。

「セラフィナがいなければ再現できない? ……そんなはずは」

そんなはずだ。

彼女の隣にいた八年間、僕はあの処方がどれほど精緻なものか、一度もちゃんと見なかった。帳簿の数字も、調合の手順も、彼女が黙って管理してくれていたから。

窓の外を見た。王都の冬空は灰色で、中庭の薔薇は枯れたまま、誰も手入れをしていない。セラフィナがいた頃は、冬でも株元に藁を敷いて、春に備えていた。

ふと、リリアーナのことを考えた。

三年前、僕は体調を崩した。原因不明の倦怠感。宮廷医にも治せなかった。リリアーナが治してくれた。あの白い手が額に触れた時、体の奥から何かが溶けるような感覚があった。

あの日から、彼女のことが頭を離れなくなった。

彼女に会いたい。彼女の声が聞きたい。彼女のそばにいたい。

それは自然な感情だと、僕は思っていた。救われた恩人への感謝が、やがて愛情に変わった。そう思っていた。

でも。

今、この書斎で、セラフィナの名前が書かれた書類を見て。

あの感情は本当に、僕自身のものだったのだろうか。

考えかけて、やめた。

今はそれどころではない。薬師ギルドの調査に対応しなければ。母に連絡しなければ。帳簿を――帳簿を。

アルヴィンは書簡を机に置いて、書斎を出た。

廊下に、聖女から贈られた白い花が飾ってあった。新しい花に替えたばかりだった。

立ち止まって、花を見た。

なぜだろう。今日は、あまり綺麗だと思わなかった。