軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

10 神様、激怒。そして、恍惚。

店の運営は完全に軌道に乗り、忙しいながらも、日々のルーティンは確立されつつあった。父さんと母さんは、もはや私がいちいち指示を出さなくても、自分の役割を完璧にこなせるようになっている。ラーラもホールの仕事に慣れ、看板娘として客たちのアイドル的存在になっていた。

生活に余裕が生まれると、心にもゆとりができる。

ある日の夜、全ての仕事を終え、自室の窓から満月を眺めていた時、私は、ふと思い出した。

(……そういえば、すっかり、忘れてた)

私をこの世界に送ってくれた、あの食いしん坊な神様のことだ。

転生させてもらった直後は、日々の生活に必死で、神様の存在など考える余裕もなかった。店が繁盛してからも、目の前の仕事に追われ、その存在は記憶の彼方に追いやられていた。

『我は、君の料理の熱烈なファンなのだよ!』

『君のその卓越した料理の腕で、かの世界の食文化に革命を起こし、ひいては我への供物のグレードを上げてほしいのだ!』

脳裏に、あの尊大で、それでいてどこか俗っぽい声が蘇る。

そうだ。私は、彼に依頼されてここへ来たんだった。そして、今のこの幸せがあるのも、彼が私を選んでくれたおかげだ。それなのに、開店から二ヶ月以上も、何の報告も、感謝もしていなかったなんて。

(……罰当たりにも程があるわ!)

私は、ベッドから飛び起きた。すぐにでも、お礼とお供えをしなくては。

家族が寝静まるのを待って、私はこっそりと行動を開始した。

祭壇なんて立派なものはない。私は、私たちの寝室の隅にある、古い木製の棚の上を、綺麗な布で丁寧に拭き清めた。そこに、市場で買ってきた名も知らぬ野の花を、小さな瓶に挿して飾る。

「……見た目は、かなりしょぼいけど。気持ちが大切、よね」

自分にそう言い聞かせ、私は厨房へと向かった。

お供えするのは、もちろん、今の『旅人の食卓』が誇る、最高の三品だ。

『大地の恵みの彩りプレート』、『熟成ボアのジューシーステーキ』、そして全ての始まりとなった、我が店の象徴、『黄金のコロッケ』。ソースも二種類、小さな器に入れて添える。

出来立て熱々の、最高の状態の料理を、お盆に載せてそっと運ぶ。即席の祭壇にそれらを並べると、貧相だった棚の上が、にわかに神々しく見えてきたから不思議だ。最後に、小さな蝋燭に一本だけ火を灯す。揺らめく炎が、料理を美味しそうに照らし出した。

私は、その前に正座し、すうっと息を吸って、静かに目を閉じた。そして、心を込めて、祈りを捧げた。

(神様。お久しぶりです。佐藤祐子です。今は、もうユーユですけど、この世界で生きています)

(あの時は、本当にありがとうございました。あなたの言う通り、私は今、この世界で料理を作っています。おかげさまで、お店も繁盛し、家族みんなが、毎日笑って暮らせるようになりました。本当に、感謝しています)

(これは、今の私たちが作れる、一番美味しい料理です。ささやかなお供え物ですが、どうか召し上がってください。そして、これからも、私たち家族を見守っていてください)

祈りを終え、ゆっくりと目を開ける。その瞬間、私は、息を呑んだ。

目の前の棚の上から、今しがたお供えしたばかりの、ステーキも、野菜も、コロッケも、ソースも、全てが綺麗さっぱり、跡形もなく消え失せていたのだ。そこには、空っぽになったお皿と器だけが、行儀よく並んでいる。

「…………え」

声にならない声が漏れた。まさか、本当に……?

「……食べてるんだ、あの神様……!」

神秘的な現象を目の当たりにして、背筋にぞくりと鳥肌が立った。神様は、本当に存在して、そして、今この瞬間も、私たちのことを見ているのだ。

驚きと、少しの畏怖。そして、それ以上に、自分の作った料理が、ちゃんと神様に届いたのだという、温かくて、くすぐったいような喜びが、胸いっぱいに広がっていった。

私は、空っぽになった皿に向かって、ふふっと微笑みかけた。

「美味しかったですか、神様?また、近いうちにお供えしますね」

そう小さく呟いて、私は静かにその場を立ち去った。

一方、その頃。

遥か高天の原、どこまでも続く、純白の空間にて。

一人の神が、豪華絢爛なテーブルを前に、退屈そうに頬杖をついていた。

「むぅ……。遅い。遅すぎるぞ、佐藤祐子⋯⋯ユーユめ。我に転生させてもらった恩も忘れ、日々の儲けにうつつを抜かしておるに違いない。我のことなど、とうに忘れてしまったのではないか……」

その口調は、拗ねた子供のようだった。この二ヶ月間、彼は、来る日も来る日も、ユーユからの初物のお供えを、首を長くして待ち続けていたのだ。

その時だった。目の前の、空っぽだったはずのテーブルの上に、ふわり、と光の粒子とともに、湯気の立つ三皿の料理が出現した。

神様は、その料理を見た瞬間、椅子から飛び上がった。

「おおっ! 来た! ついに来たぞ! 我が待ち焦がれた、ユーユからの初供物!」

その顔は、ぱあっと喜びに輝いた。しかし、その喜びは、すぐに別の感情に取って代わられた。

「しかし、しかしだ! よくもまあ、我を、この寛大なる神を、二ヶ月以上も待たせたものだ! なんたる不届き者! この無礼、万死に値する!」

神様の顔が、今度は怒りで赤く染まる。

「よかろう! まずは罰だ! あの小生意気な小娘の頭上に、特大の雷でも落として……」

そこまで言って、彼はふと、目の前の料理から立ち上る、官能的な香りに気づいた。怒りに燃えながらも、その手は、自然とテーブルの上のフォークを手に取っていた。

(……まあ、罰を与えるのは、味見をしてからでも遅くはあるまい)

神様は、まず、分厚いステーキにフォークを入れた。そして、漆黒のソースをたっぷりと絡め、それを、仕方なさそうに口へと運んだ。

次の瞬間。神様の体に、まさに雷のような衝撃が走った。

「…………ッ!!! なんだ、この肉は! 我の知る、あの硬くて大味なボア肉ではない! 驚くほど柔らかく、噛むほどに凝縮された旨みが、神の舌を痺れさせる! そして、この黒いソース! 深いコクと、ほのかな苦味、複雑な甘みが一体となり、肉の旨みを神々の領域へと昇華させている! これは、これは……悪魔の所業か!」

あまりの衝撃に、罰のことなど、すっかり頭から抜け落ちていた。慌てて、大地の彩りを食す。

「ぬぅぅっ! この美しい皿は! 慈愛! まさに慈愛の味だ! 様々な素材から抽出されたであろう、無限の滋味が、我が神体の一つ一つの細胞に、優しく、そして力強く染み渡っていく……! 魂が、洗われるようだ……!」

そして、最後に、全ての始まりである、あのコロッケを。赤いソースとともに口に入れる。

「うおおおおおおおっ!!!」

天界に、神の雄叫びが響き渡った。

「な、なんという美味さだ! この衣のサクサク感、中のポポイモのクリーミーな甘み! そして、この太陽のごとき赤いソースとの組み合わせは、もはや神への挑戦に等しい! 許しがたい! 許しがたいほどに、美味いではないかぁぁぁっ!!」

神様は、もはや威厳も何もあったものではなかった。恍惚とした表情で、夢中で三皿の料理を平らげていく。最後の一滴までスープを飲み干し、皿に残ったソースを指で綺麗に舐めとると、はふぅ、とこの世の全てを手に入れたかのような、満足のため息をついた。

「……いかん、いかん。これしきで、我としたことが。罰を与えるどころか、褒美を与えたくなってしまったではないか」

彼は、ご機嫌な様子で、自分の頬をぺちんと叩いた。

「いや、待てよ。もっとだ。もっと、美味いものが、この世界にはあるはずだ。あれはまだ序の口に過ぎん。あの女なら、この世界の食材を使い、さらに未知なる美味いものを、次々と創り出すに違いない……」

神様の目が、キラリと輝いた。その頭脳は、今や、どうすればユーユに新しい料理を作らせるか、その一点に集中していた。

「うむ。まずは褒美を取らせよう。そうだな、店の格を上げる、気の利いたものでもくれてやるか。ふふふ、あの小娘の驚く顔が目に浮かぶわ」

翌朝。

私が目を覚まし、寝室の隅にある昨夜の祭壇に目をやった時、思わず「ひっ」と息を呑んだ。

棚の上には、昨夜私が片付けたはずの空の皿や器はなく、代わりに、見たこともないほど美しく、輝くものが山のように積まれていたのだ。

それは、真っ白で、滑らかな光沢を放つ陶器の皿。その隣には、銀色に輝くフォーク、ナイフ、スプーンが、まるで宝石のように整然と並んでいた。どれも、私たちが今まで使っていた、分厚くて欠けた木の皿とは、天と地ほども違う、一級品だった。

「お、お姉ちゃん、これ、なあに……?」

先に起きていたラーラが、目を丸くしてそれを見つめている。

「ど、泥棒……!?」

物音に気づいて起きてきた父さんが、青い顔で叫んだ。

「いや、でも、何も盗られていないし、むしろ増えているぞ……?」

母さんも、困惑した表情を浮かべている。

私は、全てを察した。そして、家族に向き直り、少しだけ声を潜めて言った。

「……実はね、この間の夜、夢を見たの。昔から我が家に伝わるっていう、料理と幸運の神様が夢枕に立って、『いつも美味しい料理を作っているお前たちに褒美をやろう』って。だから、感謝を込めて、お店で一番美味しい料理をお供えしたの。これはきっと、その神様からのお返しよ」

異世界転生の話は、まだ誰にもできない。でも、この説明なら、きっと信じてもらえるはずだ。

私の話を聞き終えた家族は、しばらく呆然としていたが、やて父さんが、目の前の食器の山を、恐る恐る、しかし敬うような手つきでそっと撫でた。

「おお……。神様が……。我々のような者のことを見ていてくださったばかりか、このような、素晴らしいお恵みまで……」

父さんの目から、またしても大粒の涙がこぼれ落ちた。

「まあ、なんてことでしょう……。ありがたい……ありがたいことですわ……」

母さんも、胸の前で手を組み、涙を流している。

私たちは、家族全員で、その即席の祭壇の前に並んで正座した。そして、遥か天上にいるであろう、食いしん坊で、少し気まぐれで、それでいて優しい神様に向かって、深々と頭を下げ、心からの感謝の祈りを捧げたのだった。

その日の夕刻。

アッシュフォード侯爵邸の、重厚な執務室。

領主であるアッシュフォード侯爵は、蝋燭の灯りに照らされた書類の山を前に、深いため息をついた。彼の顔には、領主としての威厳よりも、父親としての深い疲労と憂いが刻まれている。愛する息子、カインの病状は、依然として好転の兆しを見せなかった。

コンコン、と控えめなノックの音。

「入れ」

低い声に応えて入ってきたのは、日雇いの運搬夫のような、汚れた服を着た大柄な男だった。しかし、その男が侯爵の前で跪く作法は、洗練された騎士のものだった。

「ジョーにございます、侯爵様。今週の市井の報告に上がりました」

「うむ。何か変わったことはあったか、ジョー」

侯爵の声には、力がなかった。

「はっ。特段、領内の治安を揺るがすような事案はございません。民は皆、平穏に暮らしております」

「……そうか」

侯爵は、興味なさそうに頷いた。彼が本当に聞きたいのは、そんなことではなかった。どんな些細な噂でもいい。息子の病を治すための、希望の糸口が欲しかった。

ジョーと呼ばれた男は、主君の憔悴しきった様子を見て、一瞬、言葉をためらった。だが、意を決したように、口を開いた。

「侯爵様。一つ、不思議な噂が町を席巻しております」

「……なんだ」

「貧民街の一角にあります、『旅人の食卓』という名の、小さな料理屋のことなのですが」

侯爵は、眉を顰めた。貧民街の料理屋。そんなものに、何があるというのか。

「お世辞にも綺麗とは言えない、場末の店にございます。ですが、ここ二月ほどで、にわかに信じがたい評判を得ております。曰く、『そこの料理は、魂を揺さぶる味がする』と」

ジョーは、ゆっくりと、しかし熱を込めて語り始めた。

「私も何度か足を運びましたが、噂に違わぬものでした。ポポイモと肉の端切れで作ったという『コロッケ』なる揚げ物は、これまでに食したどんな料理とも違う、衝撃的な美味。硬いボア肉を果実で柔らかくしたというステーキは、王宮の晩餐会で出されるものに勝るとも劣りません」

侯爵は、黙って聞いている。大衆向けの安い料理の話。普段なら、聞き流していただろう。だが、このジョーが、侯爵家でも一、二を争う食通であり、最も信頼するこの男が、ここまで熱を込めて語るからには、何かがあるに違いない。

ジョーは続けた。

「何より不思議なのは、その店の料理が放つ、力強い生命力にございます。どんなに疲れていても、食欲がなくとも、あの店の前を通りかかり、料理の香りを嗅いだ者は、皆、腹の虫が激しく騒ぎ出すと。そして、子供から屈強な兵士まで、誰もが童心に返ったような笑顔で、夢中で料理を頬張っております」

「……食欲が、なくとも……」

侯爵が、初めて、かすかな反応を示した。

「……子供たちが、笑顔で……」

その言葉が、侯爵の胸に、小さな棘のように突き刺さった。彼の脳裏に、日に日に痩せ細り、笑顔を失っていく、愛する息子の姿が浮かぶ。

ジョーは、静かに、最後の一押しをした。

「はっ。私も、長年この町を見て参りましたが、あのような光景は初めてにございます。まるで、料理そのものに、人を元気にする魔法でもかかっているかのようで」

執務室に、沈黙が落ちる。蝋燭の炎が、ぱちり、と小さな音を立てた。

やがて、アッシュフォード侯爵は、書類の山から顔を上げ、一年ぶりに、その目にかすかな希望の光を宿して, ジョーをまっすぐに見つめた。

「……ジョー」

「はっ」

「その店の名を、もう一度、申してみよ」

二つの世界が、今、まさに交差しようとしていた。