作品タイトル不明
18 「ずっとここに………」
季節が巡り、イグナシオは今日も執務室で帳簿に向かっていた。
妻であるミカエラにはまだ会えていない。
しかし、妻を探し続けている間も代替わりは待ってはくれないし、イグナシオの奇行のせいで、いい加減周囲に心配をかけてしまってもいる。
そのことに気づいたイグナシオは、屋敷内をむやみに徘徊することを控え、ソフィアの忠告を入れて無理にでも栄養と睡眠をとるようにした。
こうして執務に励んでいる間も「妻に会いたい」という気持ちは消えないが、全て放り出して椅子から立ち上がろうとするたびに、ソフィアに言われた「今更あの子に会ってどうするつもり?」という言葉が耳朶を打つ。
(私は………こんな状態で妻に会ってどうしたいのだろう………
………そもそも私はこれまで彼女に何をしてきた………?
……ハハ、母上の言う通りだな……今更会って、妻のことが知りたいなどと、そんなムシのいい話を………)
イグナシオは頭を振って悔恨の念を追い出し、古い帳簿に目を落とした。
フロレンシアが断固拒否し、ソフィアにもいつまでも任せっぱなしにさせてもらえないとなった以上、屋敷の運営や使用人の差配も、代替わり後にはある程度まではイグナシオがやらなくてはならなくなる。
経理についてはいずれ人を雇うとしても、きちんと実態を把握しておかなくては、管理人に長年領地を食い物にされてきた父の二の舞になりかねない。
しかし、こうして過去からの帳簿を見ていると、自分がこれまでどれ程ソフィアやセバスチャンに実務を押しつけ、「高位貴族とコネクションを作るため」と称して遊び回ってきたのかを思い知らされる。
(自分はこうして現実を突きつけられてようやくそのことに気づけたが、フロレンシアは………)
イグナシオは「真実の愛」の相手を思って嘆息した。
「一緒に伯爵家を支えていって欲しい」と真摯に訴えても、「本当に伯爵夫人になる覚悟はあるのか」と強く詰め寄っても、フロレンシアは、
「そんなことを言うなんて、もう私のことを愛していないのね」
と、話題をすり替えてしまう。
最近では、執務に忙殺されているイグナシオを置いて、フロレンシアひとりで夜会に出かけていくようになってしまった。
聞いた話では、夜会でイグナシオの友人の貴族令息たちに囲まれて、
「代替わりの話が出た途端、イグナシオが冷たくなった」
「これまで支えてきた自分を捨てて、もっと身分の高い令嬢と再婚しようと考えているのかもしれない」
などと涙ながらに話しては同情をかっているらしい。
(フロレンシアの方こそ、本当に私を愛しているのだろうか……)
今まで考えもしなかった疑問がイグナシオの頭に浮かんだ。
今2人は、お互い愛情を盾にして、「愛しているなら手伝ってくれるべき」、「愛しているなら手伝えなんて言うはずがない」と相手に勝手な期待をしてばかりいる。
『真実の愛』とはこんなものだっただろうか。
自分の期待を押しつけるのは間違いだとわかってはいても、フロレンシアに対して何かひとつ諦める度に、どうしようもなく心が冷えていく。
相手に何の期待もされなくなるのがどんなに悲しいことか、フロレンシアは知っているのだろうか。
まあ、人のことを言えた義理でもないのだが、と苦笑して、再び帳簿をめくったイグナシオの手が、あるページでふと止まった。
※※※※※※※
帳簿に書き込まれている、セバスチャンの几帳面な字と、ソフィアの優雅な字に、2年ほど前から混じり始める、大きくて元気のいい字。
読みやすいくせに、どこか踊り出しそうなその筆跡は、イグナシオに否が応でもある人物を思い起こさせた。
(ああ………)
野菜やリネンの値段、使用人の給与などが事細かにしたためられたペンの跡を、指でそっとなぞる。
(これが君の字なのか………)
欄外に何かを計算した跡や、備品の購入先を迷ったのか「ソフィア様に相談すること!」と注意書きが書き込んであるページ。
無味乾燥な数字の羅列にしか見えなかった帳簿から、めくるほどにまだ見ぬミカエラの姿が生き生きと浮かび上がってくるようで、イグナシオは思わず息を呑んだ。
(そうか、君は………ずっとここに居たんだな………私が君のことなど考えもせず、自分の責任から逃げていたときも、ただ自分の我儘な欲求に突き動かされて君を探していたときも、ずっとここに………)
少しインクの褪せたページに、涙がひとしずくぽとりと落ちた。
※※※※※※※
そのとき、外から明るい笑い声が聞こえてきて、イグナシオはハッと顔を上げた。
窓に駆け寄り身を乗り出すと、庭のガゼボでソフィアが誰かとお茶を飲んでいる。
距離もあるし、ガゼボの屋根が邪魔で、ソフィアの向かいに座る人物の姿はよく見えない。
それでも、イグナシオは部屋を飛び出すと、庭に向かって駆け出した。
―――自分の妻の笑顔を思い出せないことに愕然としながら。
いや、そうではない。
見たことがないから、知らないのだ。
私は、妻の笑顔さえ、知らない―――
イグナシオは走り続けた。
※※※※※※※
息を切らしてガゼボに着くと、そこではソフィアが茶を飲んでいた。
その向かいの席には―――誰もいない。
「母上………今、ここにミカエラが………」
「ええ、居たわよ。でも………もう居ないわ」
「そうですか………」
イグナシオは立ち尽くす。
どう言葉をかけたものか迷う様子のソフィアに、残された茶器をじっと見つめたままイグナシオが静かに尋ねた。
「教えてください。妻は………ミカエラは、どんな茶が好きなのですか?」
ソフィアはハッと目を見開き、やがて口元に笑みを漂わせた。
「……………そうね、あの子は少し渋味のある茶葉が好きみたい。
それに、お茶の香りが好きだと言って、お砂糖はほとんど使わないのよ」
「そうなんですね…………」
イグナシオは淋しげに微笑む。
その表情に胸の痛む思いをしながら、ソフィアは息子をお茶の席に誘った。
「喉が渇いたでしょう………あなたもお茶を飲んでいく?」
「………いえ、執務に戻ります」
去っていくイグナシオの背中に、ソフィアは心の中で語りかける。
(苦しいでしょうね………でも、苦しくても探し続けなさい。
いつかあなたが『無し男』から『有り男』になれるように。
大丈夫、きっと見つけられるわ。
たとえこの先どんな結果になっても、私たちがあなたたちの幸せを願っていることだけは忘れないで)
※※※※※※※
イグナシオは探し続ける。妻を、そして自分自身を。
ソフィアと使用人たちはそれを静かに見守っている。
若夫婦の寝室では、明け方にどこかの令息に送られて帰って来たフロレンシアが眠っている。
過去のイグナシオが言い渡した離縁の期限まで、あと1年。
若奥様はお隠れあそばしている。