作品タイトル不明
14 「お伏せくださあーーーい!!!!」
ミカエラの結婚から1年半が経過した。
想定結婚期間も半分が過ぎ、ミカエラとレイエス家の使用人たちの『家庭内非可視ミッション』は最早名人芸の域に達していた。
ミカエラは自由自在に屋敷内を動き回り、ほぼ無意識でイグナシオとフロレンシアを避け、そこには何のストレスもなかった。
あまりにも波風の無い日々に、パウラたちは使用人溜まりで、最近はミッションと言うほどのスリルでも無くなっちゃったね、などと不謹慎なことを言い合った。
この半年の間の大きな出来事といえば、別邸で飲酒中にエンリケが倒れ、当面療養が必要になったことであろう。
命に別状はなかったものの、完治してもこれまでのような暴飲暴食夜遊びハレンチ大金使い放題生活には戻れないだろうと医者は見立て、それを別邸の使用人から聞いたセバスチャンがスキップでソフィアに伝えに来た。
エンリケは急に冷たくなった愛人の態度に、本邸での療養を考えていたようだが、医者に「慣れ親しんだ環境を急に変えるのは健康上お勧めしない」と言われ、渋々別邸に留まることになった。
ちなみに医者のこのファインプレーをセバスチャンから聞いたソフィアが、思わぬ僥倖に呑み友達のアマリアとその晩秘蔵のコニャックをあけ、多少後ろめたい気持ちを抱えながらもこっそり乾杯したことは誰も知らない。ということになっている。
一方、急に代替わりが現実味を帯びてきたイグナシオは慌てて領地経営の勉強を始めたが、泥縄もいいところだった。
結局、全体を任せられるようになるまで経理面はソフィアが担当することになり、セバスチャンとミカエラもそれに協力した。
3人は早速領地の経理見直しに取り掛かったが、これまで領地経営の権限に関してはエンリケが握って離そうとせず、そのくせ実際の経営は管理人に任せっぱなしだったため、その実態はソフィアたちにもよくわかっていなかった。
流石のミカエラも領地経営に関しては全くの素人だが、それでも鍛え上げられた商人の目は、収支決算報告におかしな点でもあれば一発で気づく。
ソフィアとミカエラとセバスチャンは、領地から取り寄せた膨大な帳簿をイチから見直し、収支の違和感を見つけ出しては都度調べ直すことで、領地管理人による長年の不正をつまびらかにすることに成功した。
これにより、これまでずっと伯爵家を苦しめてきた不健全な領地経営が一気に快方に向かい、それは思わずソフィアが「もっと早くあの人が倒れてくれていたら………」と口走るほどであった。
悪徳管理人は官吏の手に引き渡され、領地には新しい管理人を迎えることになった。
そして、その選定にはミカエラの父ホルヘが一役買った。
ミカエラを通じて依頼を受けたホルヘは、ベルトラン商会の人脈と信用を駆使して、優秀な人材をソフィアに紹介したのだ。
実際この1年半で、ベルトラン商会も力をつけてきていた。
これは、ホルヘたち家族の努力に加えて、ミカエラが茶会に着てくる「お直しお下がりドレス」が、現在高位貴族の女性たちの間で「レトロかわいい」とちょっとしたブームになっていることも大きい。
クラシックなスタイルのドレスに、高位貴族御用達の大きな宝石や大仰なアクセサリーを合わせるとどうしても野暮ったく見えてしまうため、レトロなドレスをスッキリお洒落に見せてくれる「ベルトランシリーズ」が大人気になっていたのだ。
そんなわけで、こと経済的側面に関しては、レイエス家とベルトラン家の縁組は「素晴らしい成功例」として、貴族にも商人にも羨まれるものになった。
そう、経済的側面に関しては。
※※※※※※※
イグナシオはため息をついて領地に関する書類から顔を上げた。
ここのところ経営の勉強が忙しくて、ずっと執務室に籠もりっきりになっている。
あれほど切望していた代替わりだというのに、いざそれが迫って来ると、イグナシオは次期当主としてやらなくてはならないことの多さと責任の重さに押し潰されそうだった。
一方フロレンシアは、執務室に押しかけて来てはイグナシオが構ってくれる時間が少なくなったと文句を言い、しきりに新しいドレスや宝石が欲しい、夜会に行きたいとねだった。
経営の勉強に本腰を入れてわかったが、最近かなり持ち直してきたものの、我がレイエス家に欲しいだけドレスや宝石を買うほどの余裕はまだない。
それに、エンリケが倒れた今、とてもじゃないが以前のような頻度で夜会に行くことはできないことくらい、フロレンシアにもわかりそうなものだが、とイグナシオは苛立ちを抑えながら考えた。
それに最近、フロレンシアを伴って社交の場に出るのは、正直言ってあまり気が進まないのだ。
以前は気づかなかった。
真実の愛だ、お似合いの2人だ、と行く先々で友人たちに持て囃されて、これまで周囲の人間全員が自分たちを応援し、祝福してくれているものと信じて疑わなかった。
しかし、ソフィアに叱責されて以来、若い友人たち以外、とりわけ既婚女性たちがこちらを見る視線に、冷たいものが混じっていることに気づいてしまったのだ。
一度気がついてしまえば、貴族婦人たちが扇子の裏で囁き交わす、これまで自分には関係ないと思っていた会話も、明確な非難の言葉としてこちらに突き刺さってくる。
「………いくら平民上がりの妻だからって、多額の持参金を受け取っておいて冷遇するなんて………」
「………結婚翌日からこれ見よがしに愛人を連れ歩いてどういうつもりかしら………」
「………結局結婚したくせに『真実の愛』とか………プッ………」
中でも一番堪えたのは、
「………あそこのお家は、二代続けて奥様を蔑ろにするご家系なのね………」
という言葉であった。
(バカな………私が、あの父上と、同じだと………?)
父のようにだけはなりたくない、その一心で生きてきたはずだった。
だからこそ、自分はたった一人の女性に愛を捧げる人間なのだと、世間に示してきたつもりだったのに………
その言葉を耳に挟んでからというもの、イグナシオは足元がガラガラと崩れていくような感覚を味わっていた。
今も、その時の衝撃を思い出すと指先が震える。
イグナシオの握ったペンの先からインクが落ち、書類に染みを作った。
(………少し、外の空気を吸いに行こう)
深く息をつき、力ない足取りでイグナシオは執務室を出ていった。
※※※※※※※
イグナシオは裏口から外に出た。
ふと、久しぶりに遠乗りにでも行こうかと考える。
フロレンシアが日光に当たることや馬の臭いを嫌うため、ずっと馬には乗っていなかったが、今は寧ろフロレンシアから離れて一人になりたい。
イグナシオが厩舎に向かおうとしたところへ、伯爵家の馬車が入ってきて裏口に横付けになった。
何故正面から入らないのだろう、とイグナシオが不思議に思って見ているうちに馬車の扉が開き、誰かが降りてくる。
その姿を目にした瞬間、イグナシオの時間が止まった。
※※※※※※※
降りてきたのは小柄な若い令嬢だった。
艷やかな栗色の髪を上品なスタイルに結い上げ、最近流行しているレトロなデザインのドレスに身を包んでいる。
流行にうるさいフロレンシアにねだられて、イグナシオも彼女に数着誂えてやっていたが、古い型のドレスに自慢の大ぶりな宝石をあしらったフロレンシアはどこか野暮ったく見えて、イグナシオはあまり好きになれなかった。
だが、この令嬢のドレスはラインが美しく、着こなしも洗練されていた。
そして何よりもイグナシオの目を引きつけたのは、彼女の生き生きとした表情と、輝くダークブラウンの瞳だった。
思わずそちらに一歩踏み出すと、気配に気づいたのか令嬢がこちらを向いた。
しかし、イグナシオと目が合った途端、令嬢の顔はまるで幽霊でも見たかのようにみるみる青ざめてしまった。
「あ………」
イグナシオが令嬢に声をかけようとした次の瞬間、
「危なーーい!!若旦那様、お伏せくださあーーーい!!!!」
叫び声とともに、セバスチャンと馬丁の全力のタックルがイグナシオの背中に炸裂した。