軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 薬が足りないのではありません

解熱草の箱が、3つ続けて空だった。

乾燥庫の扉を開けた瞬間、冷えた空気より先に、その事実が頬を打った。棚の最上段に置かれた木箱には、たしかに札が差してある。解熱草。収穫月。乾燥完了印。だが蓋を開ければ、底板が見えるだけで、葉の影ひとつ残っていない。隣の箱も、その隣の箱も同じだった。

「昨日の時点では、ここまでではありませんでした」

家令が低く言った。辺境伯夫人は答えず、空箱のひとつを持ち上げて、底の木目を一度だけ指でなぞった。

「数を間違えたのではなく、数えたあとで消えた可能性は」

「ございます」

平板な会話なのに、妙に喉が乾いた。

私は一歩だけ近づいた。箱の中に、乾いた粉が薄く残っている。鼻を寄せる。解熱草の匂いはたしかにする。最初から空だった箱ではない。入っていたものが、途中で消えている箱だ。

「……検疫札の色が違います」

思わず口をついて出た。3つ並んだ箱のうち、1つだけ札の端が濁った灰色を帯びていた。正常な乾燥を示す青ではない。黴の兆候とも違う、曖昧な色だ。

辺境伯夫人の視線が、初めて私に向いた。

「理由は」

「まだ断言はできません。ただ、同じ扱いを受けた箱ではないように見えます」

「では見てきなさい」

試されているのだと思った。けれど、その一言の重さは昨日までと少し違った。拒否のための命令ではなく、答えを持って戻ることを期待する命令だったからだ。

私は裾を持ち上げた。背後でベルタが息を呑み、家令が在庫帳簿を抱え直す音がした。夫人は「午前のうちに」とだけ続けた。午前のうちに。つまり、午後には誰かの熱が上がるということだ。

乾燥庫を出ると、外の空気の中にうっすらと咳が混じっていた。屋敷の中ではない。門の外、村のほうからだ。私は立ち止まりかけて、それをやめた。足を止めるのは、確認してからでも遅くない。

村の入口に、荷受け小屋がある。

石積みの古い小屋で、壁には荷の到着印が時系列に押してある。日付と受け取った人間の名前と、各産地の略称。私は帳面を取り出して写し始めた。ベルタが肩越しに覗き込む。

「……お嬢様、変じゃないですか。この3つ、朝の同じ時刻ですよ」

「ええ」

「でもこの村とこの村、昨日カイ様の地図で確認したら」

「半日の距離はある」

ベルタが黙った。私も黙った。

同じ朝の刻印が、半日の距離にある3つの村のぶん、並んでいる。荷は空を飛んでこない。馬は道を走る。雪解け後の山道で、その距離を1刻で走れる人間は、少なくともここにはいない。

つまり、印だけが揃えられている。

嘘をつく必要があるとすれば、荷が着いたように見せたいときだ。実物がなくても、記録だけが整えば帳簿の上は正常になる。空箱だけが残る。

「……泥に膝をついてもいいですか」

口に出してから、少し間の抜けた問いだと思った。ベルタが真顔で言う。

「辺境の土は、靴より先に心を汚しますよ」

「靴のほうが先だと思うけれど」

「どちらでも構いません。ついてください」

縁石の外は湿った土だ。私は膝をついて、荷受け台の裏を見た。板の裏側に、薄くもう1色の印がある。押し直した跡だ。もとの日付の上に、新しい日付を重ねてある。

左手の親指で縁をなぞると、古い印の墨が薄く指先に移った。

「調べているなら、村医者を通したほうがいい」

声がして振り向くと、カイが立っていた。外套に朝露の粒がついている。

「患者の状況を把握しています」

同行を申し出るでも、前に立つでもなく、ただ次に動くべき方向を指した。私はそれを庇われたのではなく、渡されたのだと受け取って、帳面を持って立ち上がった。膝の泥を払う手間を、ベルタが先に済ませた。

村医者は診療所の前で、すでに疲れた目をしていた。外套の袖に、薬の匂いが染み込んでいる。

「昨日より2人増えた。解熱草をもらえますか」

「それを確認しに来ました。荷の記録を見ていたのですが」

私は帳面を開いた。到着印の写し、産地の略称、時刻の不一致、裏の重ね墨。村医者は紙を一度見て、次に私を見た。

「届いてない、ということか」

「届いたことになっている、が正しいと思います」

外の空気だけが、少しの間鳴った。村医者の手が、脈診布を握り直す。

「遅延だと思って待っていた」

「待っても来ない可能性があります」

「……では今日は、どうする」

「これを持ち帰ります。代替薬の話は、戻ってから」

カイが私の横でわずかに動いた。何か言いかけて、止めた。口が開きかけた一瞬だけが、記憶に引っかかった。

乾燥庫へ戻ったのは、10時を過ぎた頃だった。

夫人と家令は、まだそこにいた。私が帳面を広げると、家令の眉が初めて動いた。

「到着印の時刻差が、この道のりでは成立しません。さらに一部は上書きの跡があります」

「つまり」

「薬草が足りないのではありません。届いていないのです」

夫人は帳面の数字を、ひとつひとつ指で押さえた。感情は乗っていない。ただ正確に数える手つきだった。

「荷受け印を押した者の名は」

「3つとも、別の名です」

家令が答えた。夫人は指を止めた。

「では、印を集めている誰かがいる」

背筋に、薄く冷たいものが走った。

育たなかったのでもない。天候のせいでもない。届かないようにされているとすれば、それは誰かが意図してやっていることだ。誰が。何のために。どこへ、この薬は流れているのか。

「今日中に仕入れ元の台帳と突き合わせます」

カイが言った。夫人は答えず、保管庫の鍵を家令へ返した。ただ、去り際に私の帳面へ一度だけ視線を落とした。

「結果を出しました」

それだけ言って、背を向けた。

褒めたのではない。ただ事実として認めた声だった。それだけで充分だと思った。充分だと思えた、ということ自体が、昨日とは少し違う何かだった。

私は帳面を閉じた。手の中に、解熱草の粉がまだ薄く残っている。

午後の村では、まだ咳が続いている。記録の答えは出た。けれど薬は届いていない。そして、荷を消した者の名前は、まだどこにも書かれていない。