軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 辺境の朝に、呼びかけが途切れた

辺境の朝は、名前より先に冷たさが触れてくる。

窓を開けた瞬間、白い息が細くほどけた。王都より空が近い。遠くの稜線はまだ青く沈み、庭の土は夜の湿りを抱えたままだった。ここでは、花より先に冬支度の話をしなければならないのだろう。昨日まではその事実さえ、どこか他人事だった。

扉を叩く音がして、ベルタが顔を出した。

「お嬢様。応接室へ。辺境伯夫人が、朝一番でと」

「分かったわ」

分かった、と返した声が少しだけ硬い。3日。昨日のうちに告げられた期限は、眠って起きても短いままだった。3日以内に認められなければ、滞在も婚約話も白紙。名を呼ばれる幸福のすぐ隣に、そんな条件が置かれるとは思っていなかった。

けれど、理不尽だとは不思議と思わない。王都では見てもらえなかった。ここでは見られる代わりに測られる。ただ、それだけだ。

支度を整えて廊下へ出ると、向こうからカイ殿が歩いてきた。外交使節の衣装より少し簡素な朝の上着姿で、それでもこの屋敷の空気によく馴染んでいる。昨日までは、その馴染み方を頼もしいと思っていた。今朝は少しだけ遠い。

「おはようございます、ミラベ――」

そこで言葉が切れた。

たった一拍のことなのに、胸の奥が妙に大きく鳴った。呼ばれたかったのかと、自分で自分に驚く。カイ殿はほんのわずかに視線を伏せ、何事もなかったように言い直した。

「おはようございます。母はもう応接室におります」

「ええ。承知しております」

本当は、その途切れた先を聞いてみたかった。昨日の馬車の中で、「あなたの名前を呼びたかったのです」と言われてから、少しだけ世界の質感が変わってしまった。困る。こんなときに困る。

応接室の扉の前には、家令が立っていた。鍵束が腰で小さく触れ合う音がする。ああ、と私は思う。ここでは、花より先に鍵なのだ。任せるかどうかは、好意ではなく管理の話になる。

扉が開く。

白手袋の指先で茶器を整えながら、辺境伯夫人はまっすぐこちらを見た。

「ミラベル嬢。3日目の朝に、同じ顔でここへ来られるかしら」

その問いに答える前に、私は一度だけ息を吸った。

「試みます」

夫人はわずかに口を開いた。

「3日間、家令が案内をします。倉庫、記録、調合棟を順に。何かを変えたいなら、まず家令に申し出ること。いちいちカイに頼まなくてよいように」

最後の一言は、私だけでなくカイ殿へ向けた言葉だとすぐ分かった。隣でカイ殿が小さく息を吸う気配がした。庇えないと、今この部屋で告げられている。夫人の声は穏やかだが、細い隙間ひとつ許さない線が通っている。

「承知しました」

「花では冬を越せません」

それだけ言って、夫人はまた茶器に視線を落とした。終わりだ、と背中が理解した。

廊下に出ると、家令がすでに半歩先を歩いていた。振り返らずに言う。

「門番の台帳に記録します。先に」

門衛小屋は屋敷の北口にあった。家令が台帳を開き、ペン先に墨をのせる。

「お名前を」

「ミラベル・ヘルダです」

「ミラベル・ヘルダ。婚約候補資格にて滞在」

書かれていく。声に出して読み、正しく記す。知らない人間の手が、正しい名前を辺境の台帳へ刻んでいく。宮廷で一度も正しく記録されなかったものが、今日の朝にここで書かれた。それだけのことなのに、指先が少しだけ熱くなった。

乾燥庫は屋敷の裏棟にある。扉を引いた瞬間、乾いた草の匂いに混じって、かすかに湿った空気が漏れた。入ると同時に私の左手が動く。壁のそばへ伸ばし、空気の流れを皮膚で読む。王都でも最初にすることだ。

「在庫はこちらです」

家令が棚を示した。保管札が整然と並んでいる。数は確かに多い。帳簿とも合っている。けれど、視線を奥列へ滑らせた瞬間、私は足を止めた。棚の右端から3段分、葉束の色が濃い。

「帳簿を見てもよいでしょうか」

「どうぞ」

受け取った台帳は、整っていた。品目、数量、仕入れ日。どの欄も丁寧に埋まっている。私は台帳を戻し、奥列へ向かった。束を1つ取り、指先で葉脈を押す。芯が柔らかい。香りを嗅ぐ。揮発が弱い。

「この区画と奥列の左手3段、保管札の日付と乾燥の状態が合っていません」

家令が一歩止まった。

「……何が」

「湿気が偏っています。換気が右壁側に抜けているせいで、奥列だけ空気が淀む。今の季節なら1週間以内に品質が落ちます」

ベルタがすかさず口を開いた。

「えっ、これって含湿率の問題ですか。ガンシツリツって何ですか」

「湿り気の割合よ」

「割合の話なんですか」

家令が眉間にわずかに折り目を入れた。何かを言いかけて、止めた。そして静かに言った。

「数は合っています。質は合っておりません」

私の言葉を繰り返しているのに、他人の手に渡ると全く違う重さになった。反論ではない。事実の確認だ。査定役が初めて、こちらの言葉を自分の言葉として置き直した。

乾燥庫を出ると、中庭の回廊でカイ殿が待っていた。手に薄い紙束を持っている。

「供給元の台帳の写しです。今後の参照に使えるかと」

「ありがとうございます」

受け取ろうとして、指先が触れた。一瞬だけだ。カイ殿の手が一拍止まった。

「……今日、どうでしたか」

「左様でございますか、とは言えないくらいには」

その言い回しがおかしかったのか、カイ殿の口元が少し動いた。微笑む、というより、何かをこらえるような動き方だった。耳の先がほんの少し赤い。見なかったことにした。見てしまうと、まだ困る。

夕方、家令が部屋を訪ねてきた。

「1点、申し上げておきます」

声が昼間より低い。

「今日の乾燥庫の状態は、換気の改修で対処できます。ですが」

一拍あった。

「この不足は、誰か一人の手際では説明がつきません」

私は帳面を手に取った。

「仕入れ元が」

「そこから先は、今日の話ではありません。ただ、知っておいたほうがよい」

それだけ言って、家令は扉を閉めた。

灯りの下で、私は帳面に1行書いた。仕入れ先の変化。そしてその下に小さく書き添える。倉庫の中だけでは、説明がつかない。

家令は何を知っているのだろう。そしてカイ殿は、最初からどこまで見ていたのだろう。

途切れた呼びかけと、仕入れ先の問題と、まだ開いていない翌日の扉が、夜の部屋にゆっくり積もっていった。