軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第38話 名前が、二方向から動き始めた

「辺境薬草園管理者 ミラベル・ヴェストール殿」

招聘状の宛名を、指でなぞった。

申請書に自分の名前を書いたとき、あのとき指先でなぞったのと同じ動作だと気がついた。あのときは「自分で書いた名前」をなぞった。今度は「誰かが書いた私の名前」を、なぞっている。

書き文字の筆圧が均一だった。書いた人間は私のことを知らないまま、正確に書いた。この名前を。書類の宛名として、何ら迷わず。

薬草学会から、論文発表の招聘。期限は10日。

「これは! これは! お嬢様!」

ベルタが先走って喜んだ。

「まだ返答もしていません」

「でも受けますよね!」

「……検討します」

「それはもう受けるということですよね!」

「……検討します」

「二回言っても!」

笑った。笑ってから、「受けます」という言葉が自分の口から出た。声が思ったより落ち着いていた。「受けます」は決断ではなく、確認だった。封を切る前から出てきそうになっていた言葉を、ただ声に出した。それだけのことだった。

廊下に出ると、カイがいた。

「受けますか」

「はい」

「そうですか」

短かった。いつもの実務の言い方だったが、「そうですか」の声がいつもより少しだけ低かった。何が違うのか最初はうまく言葉にならなかった。なぜ違うのかを考えようとして、やめた。考えることで何かが変わるわけではないと思ったからだ。

「……何か言いたそうですね」

「長い話に――いや」

「長くなくてもいいですよ」

カイが一拍止まった。灰青の目が私を見て、それから少し落ちた。

「あなたが辺境に来てよかった」と言いかけて、止まった。「――辺境の薬草が、学会に届く日が来ます」と言い直した。

「続きがありそうでしたね」

「……余計ではありません」

「そういう使い方ですか」

カイの耳が赤かった。廊下の夕暮れの中で、その赤さだけがはっきりと見えた。私は「続きを聞いてもいいですか」と言わなかった。言わないことが、今は正しいと思った。言われていない言葉を受け取る準備がまだできていない気がした。そういう言葉は、準備ができてから聞くほうがいい。

廊下を戻る前に、ベルタが追いついてきた。

「カイ様は今、何を言いかけたんですか」

「聞いていたのですか」

「角の手前まで来てました」

「……次の機会に聞きます」

「その次の機会って何年後ですか」

答えなかった。答えると笑ってしまいそうだったし、笑うと別の何かが崩れる気がした。今夜はまだ崩さなくてよかった。

夕方、薬草園に一人で立った。

招聘状を手に持ったまま来てしまっていた。書斎に置いてくるつもりだった。それでも足がここへ向いたのは、この手を見たかったからかもしれない。見て、確かめたかった。

左手を見た。薬草の染みが今日も変わらずある。5年前からある染みが、宮廷でも辺境でも、同じ場所に同じ形で残っている。この手が積み上げたものが、学会まで届いた。

そう思ったとき、何かが胸の中でようやく整った。感情が整ったというより、事実が整った。怒りでも喜びでもない、何か別のもの。「ここにいていいのだ」という確信より前にある、もっと静かな納得。

招聘状を折り畳んで、前掛けのポケットに入れた。帰り際に畝の端の土を一度だけ触れた。今日の水分は十分だった。明日は少し乾くかもしれない。品種ごとの乾燥度合いを、明後日の朝までに確認しなければならない。仕事のことが、感情の後ろから追いついてきた。

そういう順序が、今の私だと思った。

書斎に戻ると、カイが待っていた。

「宮廷の記録室から、調査開始の正式通知が届きました」と言った。

一拍置いた。呼吸が少しだけ止まった。止まったことを、カイは気づいたかもしれない。

「……調査が、始まりましたか」

「はい。殿下が署名した申請書をもとに、記録委員会が正式に動き始めました」

机の上に通知書が置かれた。宮廷の封蝋がある。封は既に切られていた。カイが先に読んでいた。いつもそうだ。この人は私の前に立つとき、必ず通路を確認してから立つ。

胸の中で何かが冷えた。冷えた、という感覚が一瞬あった。5年間の仕事が、宮廷の公的調査の対象になる。証明しなければ残らない。証明することで初めて公式に「あった」ことになる。それは当然の展開だったのに、いざ通知を目の前にすると、喉の奥が少し重くなった。

「……難しい調査になりますか」

「なりません」

カイが言い切った。

言い切った後で、机の上の申請書を一度手に取った。アレクシス殿下の署名がある。謁見の日、少しだけ乱れていた筆跡が、紙の上にそのまま残っている。

「殿下が署名したことで、調査の起点は向こうになりました。こちらは証拠を出す側です。出す証拠は全部あります。筆跡。配合記録。爺やの下書き。向こうが調査を進めれば進めるほど、全部こちらが有利になります」

カイが申請書を机に戻した。置き方がいつもより丁寧だった。この書類が次の戦いの軸になると知っているから、そういう扱い方をする。

胸の中の冷たさが、少しずつ別の温度に変わった。冷えていた場所に、静かな熱が戻ってくる感覚。この書類は脅威ではなく、武器だ。カイの声の確かさが、その事実を私の中に届けた。

「……爺やの下書きが、骨格になりますね」

「はい。筆跡の照合は、記録委員会が動く前にこちらで準備できます。先手を取れます」

「先手が取れるなら」

「取ります」

迷いのない短さだった。

招聘状と調査通知書が、机の上に並んだ。

両方に、私の名前がある。招聘状には「辺境薬草園管理者、ミラベル・ヴェストール殿」と書かれている。通知書の宛名は「ヴェストール辺境伯夫人、ミラベル」だった。同じ名前が、別の呼ばれ方で、同じ机の上にある。

「期限は」

「どちらも――10日です」

カイが静かに言った。

10日。同じ10日が、二方向から来ている。招聘は「求められる」方向。調査は「証明する」方向。どちらも10日後に、何かが変わる。

廊下からベルタの声がした。

「……お二人、書斎にいますか」

「います」

「調査通知が届いたって聞きました。招聘状と期限が同じってことですか」

「そうです」

少し間があった。ベルタにしては長い間だった。

「……二つとも期限が同じって、嫌な予感しかしません」

扉の向こうで、ベルタがそう言った。声が小さかった。いつもより声が小さいということは、ベルタも少し怖いということだ。

10日間の重さが、二倍になったような感覚がある。でもそれは二倍の脅威ではなく、二倍の方向性だと思った。どちらの方向にも、私の名前がある。

それだけで、今夜は十分だった。

机の上の二枚の紙が、夜の灯明の中で同じ重さで並んでいた。10日後に、この二枚はそれぞれ別の方向へ動き始める。今夜はまだ、並んでいる。

左手の染みを、もう一度だけ見た。